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キャベツ 1098 量と価値と事実と言語と翻訳 認識と免疫

2013.02.21 15:00

キャベツって、どこの畑(はたけ)にも、ありますけれど、

同(おな)じアブラナ科(か)ですから、

遠(とお)くに菜(な)の花(はな)が咲(さ)き、

当(あ)たり前(まえ)の風景(ふうけい)が、

今頃(いまごろ)らしくて、すみません。

 

三浦半島(みうらはんとう)って、

キャベツが有名(ゆうめい)らしく、

東京(とうきょう)に近(ちか)いので、

覚(おぼ)えやすいだけの気(き)もしますが、

生産量(せいさんりょう)も、知(し)りません。

 

野菜生産出荷安定法(やさいせいさんしゅっかあんていほう)の

指定産地(していさんち)です。

 

秋蒔(あきま)きの春(はる)キャベツが、

すでに出(で)ていますけれど、

夏蒔(なつま)きの早春(そうしゅん)キャベツを、

残(のこ)しておいたほうが、値(ね)が良(よ)いようです。

 

春蒔(はるま)きの、

梅雨入(つゆい)り前(まえ)の収穫(しゅうかく)や、

秋蒔(あきま)きの、初冬(しょとう)の収穫(しゅうかく)を、

冷涼(れいりょう)な高地(こうち)や、

温暖(おんだん)な海岸沿(かいがんぞ)いでは、

時期(じき)をずらして、儲(もう)けます。

 

連作障害(れんさくしょうがい)が出(で)ますので、

キャベツの次(つぎ)は、すいか、大根(だいこん)の、

三年(さんねん)の輪作(りんさく)です。

 

脳(のう)のことを、キャベツと言(い)うと、

神戸(こうべ)の酒鬼薔薇君(さかきばらくん)みたいで、

怒(おこ)られそう。

 

人間(にんげん)は、

ひ弱(よわ)な野菜(やさい)だそうで、

地面(じめん)に叩(たた)きつければ、

ぐしゃぐしゃに壊(こわ)れると、言(い)っていました。

 

パスカルやデカルトという人(ひと)たちは、

それでも人間(にんげん)は賢(かしこ)いと、言(い)いました。

 

酒鬼薔薇君(さかきばらくん)や、パスカルやデカルトなどは、

個人主義者(こじんしゅぎしゃ)でした。

 

一回(いっかい)きりの出来事(できごと)や、

自分(じぶん)だけの出来事(できごと)を、

大切(たいせつ)にする実存主義(じつぞんしゅぎ)も、そう。

 

内戦(ないせん)が起(お)こり、

何万人(なんまんにん)も死(し)ぬと、

死体処理(したいしょり)に、ものすごく困(こま)ります。

 

運(はこ)ぶのが、重労働(じゅうろうどう)。

穴(あな)を掘(ほ)るのは、

重機(じゅうき)がなければ、無理(むり)。

 

積(つ)み上(あ)げて、

油(あぶら)をかけて、燃(も)やしますけれど、

累々(るいるい)たる死体(したい)を見(み)れば、

人間(にんげん)は、数(かず)の力(ちから)であると、

つくづく思(おも)います。

 

これだけの死体(したい)を、煮(に)て、

干物(ひもの)を作(つく)れば、

一生(いっしょう)、餓死(がし)しなくて済(す)むと、

確信(かくしん)します。

 

死体(したい)があれば、

食料(しょくりょう)があるのと、同(おな)じですから、

心強(こころづよ)い。

 

病原生物(びょうげんせいぶつ)を殺(ころ)して、

毒素(どくそ)を取(と)り除(のぞ)き、

腐(くさ)らせないように、

長期保存(ちょうきほぞん)の効(き)く技術(ぎじゅつ)を、

早急(そうきゅう)に確立(かくりつ)しなければいけないと、

強(つよ)く思(おも)いました。

 

自分(じぶん)が生(い)きているのは、

死(し)んだ人(ひと)たちのお陰(かげ)です。

 

そういう感謝(かんしゃ)の気持(きも)ちが、

個人主義(こじんしゅぎ)には、ない。

 

十分(じゅうぶん)な食料(しょくりょう)があるのに、

人(ひと)は、どうして殺(ころ)し合(あ)うのかを、

知(し)らなければいけません。

 

きっと、食料(しょくりょう)があれば、働(はたら)かなくなり、

食料(しょくりょう)がなくなれば、

生(い)きている人間(にんげん)を、殺(ころ)します。

 

現代日本(げんだいにほん)と同(おな)じです。

酒鬼薔薇君(さかきばらくん)の間違(まちが)いと、

 

 

物理化学を、エステティックと言うと、怒られますけれど、

目で見たり、手で触ったり、耳で聞いたりするしか、

人間は物事を知覚できないって、物理化学もエステティックも、

寸分(すんぶん)違(たが)わず、同じです。

 

空間や時間という種類の、生まれつきの量的な認識のことを、

エステティックと言いますから、

いくら、計器を使って、計測しても、

物理化学は、エステティックに依存しています。

 

空間や時間という種類の、量的な認識の方法は、

生まれつきですけれど、たいていは変更不能です。

 

この認識方法に、生まれつきの不具合があったり、

別の認識方法しか、持ち合わせていなかったりすると、

生まれても、早い内に死んだり、

生まれる前に、すでに死んでいるかも知れません。

 

体の仕組みが、自動機械のように、

無意識に測定している情報の量に従い、

わたしたちは、情報の価値を測り、

事実として、空間や時間の中身を、自覚していますので、

生まれつきに、空間や時間の認識に、不具合があると、

無意識の体の機能にも、致命的な異常があるかも知れません。

 

幻覚が現れて、

時間や空間が、変(へん)になる人もいますけれど、

統合失調症や躁鬱病などの、狭い意味での精神病や、

人格障害などの、

脳の器質に、原因となる共通の病変の発見されない種類の、

精神の病気では、

他人とのコミュニケーションや、論理の仕組みなどが、

変てこになっているだけかも知れません。

 

だって、死なないもん。

体の病気になることがありません。

体の病気の手当が出来なくなることは、よくあります。

 

コミュニケーションや論理が変(へん) になると、

苦しくなりますから、自殺は、一杯ありますけれど。

 

     空間や時間の認識って、

     それぞれの人の持つ価値観によって測られた情報の

     価値の量が、具体的な映像や音などの

     認識の中身として、表現されています。

     具体的な事実と言われるやつです。

 

     空間や時間って、体が、自動機械のように、

     情報の量を測るための、無意識ののシステムを、

     価値の量を測る物差しとして、使いますけれど、

     測定された結果が、

     事実と言われる具体的な認識の中身として、

     自覚されます。

 

     個々の物体や、具体的な原因と結果として、

     見えたり、聞こえたり、触ったり出来るように、

     自覚されることを、認識って言います。

     

     免疫みたいに、

     無意識に、自動機械のように、機能すれば良いのに、

     どうして、認識は、

     一々(いちいち)が自覚されるかって、

     ようするに、他人と情報交換をするために、

     共通の規格に翻訳されなければいけませんので、

     評価された量が、事実として自覚されます。

 

     体の中の量を、無意識に測り、体を運営するシステムと、

     量の価値を、空間や時間のように認識するシステムと、

     論理のように、認識の中身を、他人に伝えるシステムが、

     必要なの。

 

     視床下部が、ホルモンを分泌するくせに、

     もういっぺん、そのホルモンの指令を受けて、

     脳下垂体が、別のホルモンを分泌するでしょう?

 

     脳下垂体って、

     脳の外側の、体のシステムに属しています。

     内側と外側では、仕組みが違うので、

     翻訳しなければいけませんけれど、

     生物は、化学物質の変化によって、翻訳しますので、

     代謝と言います。

 

     人間の個体と、他人との間でも、

     翻訳のための通関手続きが必要なの。

     認識や論理って、それですけれど、

     量の評価は、個体の中の免疫システムが、

     無意識に行ないます。

 

     他人とのコミュニケーションのために、

     空間や時間のように意識されるのは、

     絶対量を、情報交換したいのでなく、

     量の変化という価値を伝えたいからなの。

     変化に価値がなければ、一定の量であるとして、

     体は処理するもんね。

 

     他人との共通の規格って、論理のことです。

     コミュニケーションの規格ですけれど、

     論理は文化的です。

 

     時間や空間を、事実として自覚するシステムは、

     ほとんど、胎児の頃に形成されて、

     生後は、変更不能になっています。

 

     論理も、認識のシステムに連動する部分は、

     生まれつきの変更不能ですけれど、

     一部分は、生まれた後に文化的に習得された仕組みです。

 

     たぶん、1才ぐらいに、出来あがっていると、

     言われています。

 

     胎児の、うんと早い時期に、

     空間や時間のシステムが出来始めて、

     生後の、うんと早い時期に、

     論理の文化的なシステムが出来たみたいなの。

     

     価値の具体的な中身って、経験的ですので、

     胎教によって、具体的な価値を、文化的に教育できます。

     胎児が変(へん)な判断をすれば、懲罰して、

     みんなに望まれる判断をすれば、褒めてあげます。

 

     胎児の判断の中身を知る方法と、

     胎児を叱ったり、褒めたりする方法を、

     教育学者に尋ねて下さい。

     わたしは、ちっとも知りませんから、あほです。

     

評価された情報の、価値の量が、空間や時間という方法により、

個々の原因と結果や、具体的な物体などの、

一々(いちいち)の事実として、知覚されます。

 

事実って、

エステティックという言葉の、古代ギリシャの頃の意味です。

目や耳や皮膚や鼻などによって、知覚された具体的な情報です。

センスと、ほとんど同じですけれど、

両方とも、時代とともに、意味が変わりました。

 

古代の人たちは、事実を、

知覚された自然や社会や人間の、ありのままの姿と、

理解していましたが、

現代では、知覚された情報の価値の量が、

空間や時間という生まれつきの方法により、

個々の物体や、具体的な因果関係として、

表現されたものと言われています。

 

電気情報を、コンピュータが処理すれば、

事実と言われる具体的な映像に、表現されます。

オリジナルの情報は、電気の変化にすぎません。

モニター画面の映像は、ただの表現の内容です。

 

コンピュータでは、人間の表現の方法に合わせて、

モニター画面の映像の内容を作ります。

 

人間の表現の方法は、

胎児の頃に作られた神経の繋がり方や

化学物質のくっつき方によって、決まっています。

空間と時間と言われる方法です。

 

老化して、認知障害になっても、

アルツハイマーやピック病などでは、体の不調になり、死にます。

精神の病気の中の、

統合失調症や躁鬱病などの、狭い意味の精神病のように、

体は元気というわけには行きません。

脳血管障害による認知障害では、

介護を受ければ、長生きをするかも知れません。

 

     物理化学は、もちろん、エステティックに認識しますが、

     認識された量の一部を、

     数字という杓子定規に定義された記号に、翻訳します。

     他人との、情報交換のためです。

 

     エステティックは、

     言葉という文化的に定義された曖昧な記号に翻訳されて、

     他人に伝えられますが、

     言葉に翻訳されないことも、よくあります。

 

     物体や、人間の顔や体の見てくれなどを示せば、

     言葉に翻訳しなくても、通じることもありますので、

     痴漢の人は、ちんちんを見せますし、

     女性は、お化粧や服装や持ち物や、

     言葉遣いや物腰などに凝り、

     宗教の人は、

     不立文字(ふりゅうもんじ)などと言います。

 

     どっちみち、時間や空間などにより、

     事実と言われて、すでに量的に認識されている内容が、

    、価値を測った結果なの。

 

     それを他人に伝えるために、

     数字や言葉という記号に表現しようが、しよまいが、

     判断の中身は、たいして変わらないのに、

     じつは、翻訳されるたびに、

     判断の中身が、自由自在に変わります。

 

     裁判によって、裁判官や裁判員が、

     知らない事実を、知ることが出来たかのように思うのは、

     同じ価値を共有している、というコミュニケーションが

     成立したからです。

     結託したの。

 

     裁判では、コミュニケーションのために、

     だいたいは、日本語という言葉が使われますが、

     一部は、数学や物理化学という言葉も使われます。

 

     日本語は、たぶん、

     憲法に定められた日本国の公用語ですが、

     数字は、古代インドの文字ですし、

     数学や物理化学は、古代ギリシャ語の一種です。

 

精神の病気の原因を、

エステティックと、物理化学と、宗教に、纏(まと)めると、

便利です。

 

精神の病気の中でも、

脳の器質に、共通の原因となる病変の発見されない種類ですけれど、

お酒や麻薬や、体の病気などが、常識的な原因であると、

指摘できる場合を、除きます。

 

認識の中身という判断を、

他人に伝えるための、コミュニケーションの種類分けに、便利です。

精神の病気の中身に限りますが、健常な人も、さほど変わりません。

 

認識の中身を、他人に伝える時に、

具体的な価値を、論理的に翻訳します。

言葉は、一般的なメディアですが、

数字や数式を使えば、欧米人に通じやすいかも知れません。

 

物理化学や科学技術の数量化は、日常言語よりも偉いと、

威張る人もいますけれど、

物理化学や科学技術の大部分は、普通の言葉です。

 

数学や物理化学は、数量を取り扱いますけれど、

数学や物理化学は、数量化されません。

 

事実と言われる認識の中身が、

すでに判断された価値の量を表していますから、

日常言語に翻訳される時に、

物理化学や科学技術は、数字や数式を使うだけかも知れません。

 

杓子定規に、一々(いちいち)が定義されていると、

扱い易(やす)いのですが、

数学や物理化学の定義も、日常言語が使われていますので、

数字や数式という新造語を混じえても、

文化的な因習を免れるとは、限りません。

 

日常語の定義は、曖昧ですので、

憲法を作っても、時代が変われば、意味が変わります。

 

物理化学って、

数字や数式という新造語によって、使い易いのでなく、

現代のエステティックと、よく似た便宜が、重宝されています。

 

勃起したちんちんを露出すれば、エステティックなように、

顔や体の見てくれを示せば、話が通じます。

物体を示せば、翻訳する必要がありません。

鉄砲玉を、打ち込んでやれば、ライオンも死にます。

 

物理化学が便利なのは、エステティックだからなの。

数量や数式は、ただの事務的の添付書類です。

設計図や添付文書の通りに、物を作る馬鹿はいません。

数量や数式は、役所に提出するための、事務的な儀礼です。

数学って、小笠原流の礼法や、御室流の生け花みたいなものなの。

 

     論理は、他人とのコミュニケーションの規格ですけれど、

     翻訳です。

 

     これとあれとは、違うけれど、同じとするのは、

     論理ですけれど、

     一つの概念から、幾つかの概念が、枝分かれします。

 

     脳の神経細胞の連絡の仕方って、枝分かれです。

     樹状突起が手を伸ばして、

     進化の木みたいに、概念を分類します。

     

     他人とのコミュニケーションは、

     他人の言う情報と、自分の持っている別の情報とを、

     同じであると、翻訳します。

 

     論理は、空間や時間の方法を、援用しているの。

     

     空間や時間の認識は、価値を測りますけれど、

     たくさんの人に共通の方法です。

     体の仕組みまでが、

     他人とコミュニケーションをするための、

     空間や時間を使います。

     これを使わない体は、なかなか生きて行けません。

 

     価値の中身は、人それぞれによって違いますけれど、

     体のシステムの免疫は、自動機械のように、

     無意識に実行されます。

     

     空間や時間が、認識されて自覚されるのは、

     自分の測った価値を、他人に伝えるためですけれど、

     価値って、具体的な原因と結果や、個々の物体として、

     認識されています。

     具体的な事実が、価値を表しています。

 

     空間や時間の中の位置を指定すれば、

     他人の同じ位置の空間や時間に、

     別の事実が認識されていても、

     同じであると、翻訳されます。

 

     事実が違っていても、同じであるとされます。

     それでも、間違いが起こらないのは、

     事実は、計測の結果の表現にすぎず、

     他人と情報交換をしなければならないのは、

     計測された価値だからです。

     価値と言われる量の変化の評価が伝われば、

     事実は文学にすぎません。

 

     価値が根本的に違えば、殺し合いになりますけれど、

     価値を共にすれば、免疫や生殖のように、

     エッチなことになっても、お構いなしです。

 

     裁判の判決は、みんなで交尾(つる)んで、

     仲間はずれの奴を、吊るします。

 

     事実は、文学にすぎません。

     大切なのは、仲間同士が生殖をして、

     嫌(いや)な奴を、殺すことです。

     価値って、免疫機能なの。

 

     こういう解釈は、

     19世紀の、欧米のロマンティックな文学ですけれど、

     精神医学や精神病などの、

     心を解釈する考え方が作られました。

 

     19世紀に、表現形が作られて、

     21世紀の、遺伝子の配列や、解剖学的な器質や、

     生化学的な変化などの所見と、照合されます。

 

     あまり一致しませんので、

     文学のほうを変更したほうが良いのですけれど、

     GID(性同一性障害)の、

     心と体の性別の不一致という解釈は、

     ぜんぜん、変更する気がない、という意味です。

 

     患者さんが、19世紀の文学によって、

     心を訴えますから、仕方ありません。