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チューリップ 1139 物体の心

2013.04.03 15:00

お揃(そろ)いの、

靴(くつ)とTシャツとチューリップに、

合(あ)わせたわけでないのですが…

 

偶然(ぐうぜん)です。

 

チューリップを撮(と)ろうと、

カメラを探(さが)しているうちに、

先回(さきまわ)りをされて、

花壇(かだん)の傍(そば)に、座(すわ)られました。

 

仕方(しかた)ありません。

 

 

ずーっと前に、「心は自由に変更できる」 と、言ったら、

もの凄く怒られました。

 

「変更できない心が、一杯あるんじゃ、あほばかぼけ」 と、

笑われました。

 

心は、変更できなくなると、無意識になり、

心であるって、気づかなくなります。

 

体や物は、変更不能な心が集まって、出来ています。

ライプニッツという微積分の人は、

石ころにも、ちょっとぐらいは、心がある、と言いました。

 

日常言語や文学は、言葉遣いがややこしく、

綱渡りや精神病みたいに、芸術的です。

 

統合失調症の人の文章を、読み取るには、

寝起きの、あほばかぼけの時しか、不可能かも知れません。

 

夢見心地(ゆめみごこち)のあほですと、とても創造的になれます。

知能検査を受けると、確実に知的障害ですから、

芸術の先生の知能指数を、測ってあげて下さい。

知的障害でしたら、合格です。

 

     物体は、無意識の心なの。

     アリストテレスという人は、

     「優れた人間は、意識をしなくても、

     優れたことしか出来ない」 と、言いました。

 

     物理化学は、

     アリストテレスの自然学を継承していますので、

     物体のエステティックと、運動や変化と、

     エネルギーとを、取り扱います。

 

     エネルギーって、物体の能力ですけれど、

     人間の認識する価値を、言っています。

     判断ですから、数量として表記すれば、便利です。

 

     物を数える時に、指を使いますけれど、

     手の指は、10本しかないので、十進法が便利です。

     2進法は、マルペケ式ですけれど、

     手の指を使い、2進法で行く方法を、

     中学校で習いませんでした?

 

     2進法と10進法は、表記が異なるだけで、同じ意味です。

     マルペケ式の判断と、物を数えるのとは、同じなの。

     数量は、マルペケ式の判断を、何度も組み合わせます。

 

     特定のことに注目して、

     そうであるのと、そうでないのとの、どちらであるかを、

     判断します。

     何に注目するかを、次々に変更して、

     判断の結果を書き留めれば、数量の世界になります。

 

     どのように注目点を変更するかって、

     文化的に、みんなの仕来(しきた)りがあります。

     プログラムと言い、

     みんなが同じ文化的なプログラムを使えば、

     注目点の変更の仕方が、誰も彼も、同じようになります。

 

     何に注目すべきであるかを、価値と言います。

     文化的なプログラムには、

     たくさんの具体的な価値が、羅列されていますので、

     価値観と言います。

 

     みんなの価値観の通りに、実際に目で見て、耳で聞き、

     手で触って知ることのできる事実が、

     コンピュータのモニター画面の映像のように、

     心に表れますので、わたしたちは、事実を知り、

     こうであるとか、そうでないとかと、

     マルペケ式で判断をして、「認識をした」 と言います。

 

認識される事実が変われば、判断も変わりますが、

みんなの文化的なプログラムを使っていますので、

自分一人では、そう簡単に変えられません。

 

みんなの価値観と言われるプログラムを使わずに、

自分勝手なプログラムを使うと、

たぶん、妄想や幻覚などと言われて、虐(いじ)められます。

 

みんなと一緒でなくても、みんなの望むところを、

自分だけが、抜け駆けをするように実行すると、

みんなに褒められますけれど、変人や自分勝手と言われて、

オウムのお医者さんや、性転換医療を行なうお医者さんのように、

みんなから、逸(はぐ)れて行くかも知れません。

 

     認識を変えるだけでなく、実行することによっても、

     価値を変更することができます。

 

     個体の記憶の中にある価値と、

     みんなの文化的な価値とが異なる時に、

     記憶されている価値を変えるよりも、

     みんなの価値を変えたほうが楽ちんと思えば、

     個体は、実行という手段を使い、事実を変更して、

     みんなの価値を変えようとします。

 

     事実って、

     みんなの文化的な価値観というプログラムでなければ、

     事実でなく、妄想や幻覚などと言われて、

     精神病院にぶち込まれますけれど、

     みんなの文化的なプログラムを変えれば、

     みんなの事実を変更したことになります。

 

     自分一人で変更しても許されるのは、

     プライベートな部分だけですから、

     大部分の、

     みんなに共通の価値観と言われる文化的なプログラムに、

     手をつけるには、みんなの許可が必要です。

 

     勝手にぶち壊して、変更すると、

     怒られて、牢屋に入れられます。

 

     上手(うま)く事実を変更できれば、認識も変わります。

     溝(みぞ)を掘れば、水が流れますから、

     科学技術の要領と、同じです。

 

     実行して、物体が変化するのは、

     みんなの事実というプログラムを、部分的に変えたので、

     認識が変わった、という意味です。

 

賢い人は、実行をしなくても、事実の認識を変更できますが、

脳の神経の繋がり方や、化学物質のくっつき方を変えるのは、

脳味噌が、蛸(たこ)みたいに、柔らかくなければいけません。

石ころのように固くなっていれば、無理です。

 

たいていは、生まれる前に、すでに石ころになっています。

認識が変更不能になれば、心の中身が物体になりますので、

物体を変更するには、実行のほうが有力です。

 

認識による事実の変更にしても、実行による事実の変更にしても、

みんなの事実というプログラムを変更するのは、容易でありません。

個人的な変更は、たいてい、牢屋や精神科です。

 

認識や実行により、何が変更可能な事実であり、

変更をするために、どのような手順が必要であるかを、知るには、

石ころのように、固い物体になった心を、

よく観察して、あれこれといじくり、

みんなのやり方を見て、みんなに聞き、

よく吟味しなければいけません。

 

生まれる前の心や、他人の心や、みんなの事実と言われる心の、

ほとんどは、物体になっていますので、

物体をよく知らなけれはいけません。

 

ライプニッツが、

「石ころにも、ちょっとぐらいは、心がある」 と、言ったのは、

「わたしは、ちょっとだけ、賢い」 、という意味です。

 

ほんとは、物体の全部が、心で出来ています。

 

     物体の運動や変化は、認識や実行と一致しなければ、

     上手(うま)く行きませんので、

     上手く行くのでしたら、数量化できます。

 

     数量は、マルペケの判断ですから、

     結果が良ければ、簡単です。

     認識や実行は、具体的なマルペケの判断の、

     順番や組み合わせを、表現していますから、

     もちろん、価値の表現です。

 

     判断が上手(うま)く行かないのは、

     物体の運動や変化と、認識や実行とが、

     一致しないので、心が苦しい、という意味です。

 

     なんとなく、体と心の性別が、一致しないのと、

     似ているでしょう?

 

     心が苦しいことを、

     わたしたちは、省略して、心と言います。

     苦しくなければ、心は意識されずに、物になります。

     そのことを、お釈迦さんは、

     「人生は苦である」 と、言いました。

 

     「優れた人間は、物体になる」 って、

     アリストテレスは考えました。

     雲や霞(かすみ)の、中国の仙人の食事や、

     インドの悟りや、プラトンのイデアなどと、同じです。

 

     物理化学と宗教は、同じことを言おうとしています。

     アリストテレスの自然学も、キリスト教も、

     同じ古代ギリシャの文化ですので、当たり前です。

 

     キリスト教やイスラム教や仏教などは、

     同じインドヨーロッパ系の文化ですので、

     ものを考えるプログラムが、同じです。

     中国人の神仙思想も、

     インドの古代思想の、輸入品と言われています。

 

GID(性同一性障害)の原因は、

エステティックと、物理化学と、宗教である、と言うと、

カネと、セックスと、暴力でないかと、

治癒したGIDの人に、揶揄(やゆ)されました。

 

警察の人は、犯罪の原因を、そう言います。

GIDって、犯罪と同じなのかしら。

 

わたしたちの心には、

変更不能なことと、変更可能なことがあります。

変更できないことは、物体になりますが、

意識されないことも、物体になります。

 

脳の中では、神経や化学物質の、繋がり方やくっつき方の多くが、

生まれる前から、すでに変更不能です。

 

神経や化学物質という物体であることが、その表れですが、

一部は、生れた後にも、次々に変更不能になり、

一部は、生れた後にも、変更することができます。

 

意識されない物体を、変更するって、

コンピュータのハードウェアの記憶を書き換えるのと、

同じようなものですから、疲れます。

 

記憶を減量して、書き換えを少なくすると、

記憶の中身を、あっちこっちに移動させて、

やり繰りをしなければいけませんから、やはり疲れます。

 

神経が専門のお医者さんは、

脳味噌をよく使えば、脳味噌がよく生(は)えて来るので、

痴呆にならないと言います。

嘘つけ。

 

よく使い、新陳代謝を活発にしたので、

よく疲れて、早く老化して、早く痴呆になれば、どうしてくれる。

 

脳や体だけが、物体なのでは、ありません。

目で見て、耳で聞き、手で触って知る事実の全部は、

粒々(つぶつぶ)の物体で出来ていると、物理化学は言います。

 

世界の全部が、心である、という意味です。

固くなり、物体になった心です。

一般に、自由に変更できる心は、物体でないと言われますので、

影も形もありません。

 

     わたしは、溶鉱炉で生まれましたので、

     物体を見ると、エネルギーの塊(かたまり)に見えます。

     太陽のように溶かして、心にすると、

     力(ちから)が出て来ます。

 

     「心は自由に変更できる」 と言うと、怒られますけれど、

     あらゆる物体を溶かして、変形できるように、

     みんなの事実を変更すれば、心は変わリます。

 

     遺伝子の切り貼りや、クローンの技術を使い、

     たくさんの家畜や作物を生産していますから、

     脳や体を変えるには、

     世代を超えた生殖が一番ですけれど、

     生殖機能と体を壊すだけでは、ただのダダイズムです。

 

     性転換をして、心が良いほうに変わる、という効果は、

     今のところ、皆無です。

     闇雲(やみくも)に壊すだけなので、

     当たり前と言えば、当たり前ですけれど、

     飴玉(あめだま)をしゃぶらせて、一時凌ぎをするのも、

     やむを得ない手と言えば、手です。

 

     そうして、だんだんと、妄想が体系的になって行くのは、

     統合失調症と同じ道筋(みちすじ)ですけれど、

     性転換をしないで、放置するほうが、

     体の負担が少なく、良い結果になリます。

 

     GID(性同一性障害)の人が、

     性別のせいで、心が苦しい、と確信するのは、

     お医者さんの、保身のための嘘を、

     なぞっているようなものです。

 

     なんで、お医者さんの精神障害を、

     お医者さんが、自分で治そうとして、

     患者さんの体を、壊さなければいけないのかしら。

 

     性転換医療って、

     オウムのお医者さんの、イカレた心を治さなければ、

     どうしようもないようなものですけれど、

     オウムのお医者さんは、

     精神科を受診しませんでしたから、

     牢屋にぶち込んであげなければ、仕方ありませんでした。

 

     性転換医療を行なっているお医者さんって、

     昔の赤軍派の人たちや、三島由紀夫さんや、

     パリのオランダ人の女子大生を食べた人や、

     逆噴射の機長さんなどに、似ています。

 

     事前に精神病院に入れてあげる手段がありませんから、

     やってしまってから、

     牢屋と精神病院の、どちらにするかを、鑑定します。

     

     もう、やってしまっているのに、

     どちらにもならないのは、欧米の流行があるからです。

     あっちは、同性愛差別の文化がありましたから、

     日本の部落差別をなくした頃のように、

     羹(あつもの)に懲りて鱠(なます)を吹く状況です。

 

     なんで、同性愛差別のない日本が、

     欧米の猿真似をしなければいけないのかって、

     黒船と原爆に負ければ、

     鹿鳴館や日本国憲法も、致(いた)し方がなかったのと、

     似たようなものです。

 

生物って、みんなから逸(はぐ)れると、生きて行けません。

シマウマも、みんなと一緒に逃げなければ、

ライオンに食べられます。

 

生れたばかりのシマウマは、

群れの中に匿(かくま)われていても、うまく走れませんから、

自動的に食べられそうなものです。

 

群れの端っこのほうに、

逸(はぐ)れ者の精神障害者や犯罪人のようなシマウマばかりが、

弾(はじ)き飛ばされています。

 

みんなと一緒のことの出来ない奴から順番に、

ライオンに食べられます。

群れの真ん中のほうの、生まれたての赤ちゃんは、

走って逃げなくても、構いません。

 

端っこのほうの奴が、走って逃げているだけなの。

みんなと違う動きや、違う体の見かけの奴は、

群れの端っこのほうにしか、入れて貰えません。

 

病気になれば、そうなりますけれど、

最初から、顔や体の見てくれの、

エステティックな形が違うだけでも、そうなります。

 

みんなと違う奴を見分けるための、脳の機能を、感情と言い、

みんなと一緒でない奴を、除(の)け者にして、間引きます。

みんなと一緒のことをする機能と、間引いて殺す機能は、

同じですから、感情って、生殖機能です。

 

みんなと一緒のことをするのは、生殖と同じでしょう?

知性は、感情の下請けをしていますから、

人間は、哺乳類の感情を、ほとんど丸ごと、受け継いでいます。

 

GID(性同一性障害)の人は、

心の生殖機能がおかしくなりますので、

鬱病が基礎にある、と言うお医者さんもいますけれど、

実際には、GIDの性的パートナーになる人や、

性転換医療を行なうお医者さんや、

性転換を支援する人などに、鬱病が多く、

GIDの御本人には、さほど多くありません。

 

生殖って、一人でするのでなく、相手がいるように、

GIDの病気も、御本人の病気でなく、人間との関係の病気なの。

性転換医療を行なうお医者さんと、GIDの人の関係に、

病気があります。

 

フランス革命の個人主義では、人と人の関係の病気を治せません。

それどころか、GIDのように、

お医者さんとの患者さんとの関係が、病気を作ってしまいます。

 

それを、じーっと見ていると、

性転換医療を行なうお医者さんに、怒られるので、

わたしは、噛み付かれないように、用心しています。