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エノキの実 1250 事実や心の認識と、一律の文化によるストレス

2013.07.28 15:00

榎(えのき)って、普通に見かける木ですが、

大木になりますので、日本の平地の、代表的な樹木です。

 

国蝶と言われるタテハチョウ科の大紫(おおむらさき)が、

幼虫の頃に、榎(えのき)の葉を食べますので、

この木がなければ、綺麗な蝶々も死にます。

 

榎の漢字は、国字と言われて、日本人が作りましたが、

真夏の木陰が恋しいので、こういう字になったそうです。

夏の木です。

 

そろそろ、実が、色づいて来ました。

人間も食べられますから、小鳥が好きなのは、当たり前です。

 

        ***          ***

 

統合失調症を見れば、わかりますが、

みんなと一緒の価値観に、合わせなければ、

みんなと一緒の事実は、認識されません。

 

自分だけの価値観を、確信していると、

自分だけの事実が、はっきりと認識されますから、

精神病院にぶち込まれます。

 

朧気(おぼろげ)にしか、認識されなければ、

牢屋で済むかも知れませんが、首吊りにされても知りません。

 

事実の中でも、

目で見て、手で触って、耳で聞いて知る種類の、

空間的な相互関係が、みんなと違えば、

幻聴や幻視などの、幻覚と言われます。

 

何を原因として、何を結果とするかの、

時間的な因果関係も、心の中の事実と言われますので、

みんなと違えば、妄想と言われます。

 

認識って、これとあれとを、くっつけて、

一つのものにすることですから、足し算と同じです。

二つのものに共通点があり、同じであるから、

一つに纏めて、整理整頓します。

 

別の言い方をすると、

一つのものを、これとあれとに分割して、仔細に知りますから、

一つのものの中身を、次々に分割して、分類するのと、同じです。

 

くっつけるのと、離すのとは、一対(いっつい)の言葉になります。

物事(ものごと)を、くっつけたり、離したりするのが、

認識の意味ですけれど、普通には、知ると言います。

 

感覚器官を経て、知られた内容が、事実と言われるだけでなく、

原因と結果のように、物事を知る時間の順番も、

心の中の事実に感じられますので、自分と言われます。

 

物事(ものごと)に適用される分類法には、

無数の種類がありますので、

価値観によって、適用される分類の順番が異なり、

知る順番が違います。

 

分類って、共通点に纏めることですから、

何を、共通点とするかっていう価値が違えば、

空間的な事実が違って見えるだけでなく、

時間的な心の中の事実が異なります。

 

心の中の事実が違うって、

ようするに、心が違い、別人であるってことですから、

自分っていう意識を持つのは、

物事を、原因と結果という時間によって、纏めることです。

適用される共通点の順番のことなの。

  

永遠の時間でなければ、適用された共通点の違いにより、

知られた中身が、全然違うのは、当たり前です。

 

人間の個体は、みんな、短い時間の内に、死にますから、

時間は、自分という心と、同じに感じられるって、

昔から、言われて来ました。

 

人それぞれの、価値の違いが表れますけれど、 

みんなに合わせなければ、妄想と言われますから、

人生は面倒臭い。

 

人それぞれの違いって、境遇の違いでなければ、

体の表面や内側の、エステティックな違いなのに、

人間は、心の違いと、思い込んでいますから、

あほに違いないって、動物は言っているそうです。

 

ドリトル先生や、動物農場のオーウェルって人に、聞きました。

 

感覚器官を経た事実と、自分と言われる事実とを、区別するために、

客観的事実と主観的事実って、言うこともあります。

空間と時間や、相互関係と因果関係などと、言うこともあります。

 

くっつけたり離したり、と言うのは、面倒臭いので、

くっつける、と言えば、両方の意味を、表しているかも知れません。

足し算と言えば、

引き算や、掛け算や、割り算の意味も、含んでいるかも知れません。

 

     わたしたちは、感覚器官を経て、事実を知るだけでなく、

     論理と言われる方法を使い、間接的に、物事を知ります。

 

     抽象語の意味は、事実と違いますけれど、

     顕微鏡を使い、目で見て知るのは、

     間接的な知覚ですから、抽象語に似ています。

 

     コンタクトレンズや眼鏡を使っている人の視覚は、

     抽象語の世界に、暮らしているのかも知れません。

     レンズは、論理と同じ役目を、果たしていますが、

     癖(くせ)や習慣になっていると、

     レンズや論理を、意識しません。

 

     物事(ものごと)を、くっつけたり離したりして、

     事実を知る時に、論理を使うのは、

     物理化学や科学技術が、数量を使うのと、

     似たような意味です。

 

     数(すう)は、数字のような、文学の表現手段ですが、

     コンピュータの2進法を、日常的な10進法の、

     0と1の数字だけで、表示できるように、

     すべての数は、完全に規則的な互換性があります。

 

     10進法でも、2進法でも、同じ意味なの。

     2進法って、

     そうであるか、そうでないかを、判断するだけですから、

     数は、マルペケ式ですが、判断って、全部そうです。

 

     くっつけたり離したりして、事実を知ることを、

     認識と言いますが、

     自動機械のように、無意識に判断されます。

     意識的に判断すれば、たぶん、論理と言われます。

 

     エステティックな判断って、

     ほとんどは、哺乳類の感情のように、

     動物的に無意識ですが、

     一部は意識的ですから、論理的です。

 

     人間や動物の意識って、どうせ自動機械なのに、

     どうして、論理的な判断は、

     自動機械と別であるって、言われるのかしら。

 

     人間の感情は、哺乳類の内の、

     人間に近いほうの半分ぐらいの種類と、

     まったく同じです。

     人間の知性って、感情の下請けをしていますから、

     どうせ、動物のあほと、同じなのに…

 

     そういうふうに、一つのことを、幾つもに分割して、

     細かく分類して行くことを、

     くっつけたり離したりして、事実や論理を知る、

     と言います。

     人間と動物は同じなのに、違うと、言い出します。

 

     論理って、くっつけたり離したりする時の、

     癖(くせ)や習慣ですから、

     顕微鏡のレンズや足し算のように、

     物理化学や数学は、事実を演繹(えんえき)します。

 

     人によって、くっつけたり離したりする時の、

     癖(くせ)が違っていても、、

     みんなと違う論理を使えば、支離滅裂と言われますから、

     くそったれです。

 

妄想や幻覚や支離滅裂って、

統合失調症の症状を、文学的に表現するときに、

よく使われますけれど、屁理屈も、支離滅裂なのかしら。

 

人格障害の人って、屁理屈が、お上手(じょうず)ですけれど、

統合失調症の症状に、変化し易(やす)いと、言われています。

将来に統合失調症にならないって、予言しても当たらないくせに、

人格障害って、診断する人もいます。

 

みんなの価値観に合わせないと、統合失調症になりますけれど、

もっと症状が軽ければ、精神病院でなく、

牢屋のほうに入れられて、首吊りにされて、

みんなに殺されるかも知れません。

 

精神病院のほうが、良いのでないかと、

文句を言う人もいますけれど、

統合失調症になると、抗精神病薬を飲まされて、

強制的にあほにされます。

 

昔は、ロボトミーのように、脳味噌を切られましたから、

二度と回復しませんでしたけれど、

今の抗精神病薬も、似たようなものです。

 

GID(性同一性障害)でも、性腺を切除しないで、

性ホルモン剤を使えば、生殖機能を破壊できます。

 

牢屋に閉じ込めて、無理やりに殺すのと、

精神病院に放り込んで、無理やりに抗精神病薬を飲ますのと、

どちらが良いのかしら。

 

統合失調症やGID(性同一性障害)って、病識がありませんから、

何者かに唆(そその)かされて、悪い奴をやっつけようとする人や、

自分から喜んで、性転換をする人などが、たくさんいます。

 

唆(そその)かされるのも、強制されるも、喜んでするのも、

似たようなものなのにって、言うと、

フランス革命の好きな法律家に、怒られます。

 

パンチラは自由で、手鏡の先生は牢屋のように、

自殺は自由で、殺人は首吊り刑らしいの。

 

自殺も殺人も、似たような病気と思うけど…

 

お薬の依存症にならなければ、抗精神病薬って、効きません。

お薬を飲まなければ、苦しくなり、無茶苦茶になりますから、

自分で、ちゃんとお薬を飲めるようになるまで、

強制的に閉じ込めてから、退院して通院して貰います。

 

抗精神病薬って、実行力と思考力を、無理やりに低下させます。

 

思考は、みんなと一緒に合わせるには、どうしたら良いかって、

狡(ずる)い判断を、要領良く弾(はじ)き出しますから、

足し算や算盤(そろばん)やコンピュータや分類と、同じです。

弁証法的なの。

 

計算と実行の司令をやっているのは、脳の中の神経ですけれど、

ドーパミンっていう化学物質と、

くっついたり離れたりする種類です。

ドーパミンとくっつかなければ、情報が伝わりません。

  

神経の表面に、くっつく場所があり、

抗精神病薬が嵌(はま)り込むと、

ドーパミンと神経が、くっつかなくなり、

思考や実行が阻害されて、あほになり、悪さもしなくなります。

 

お薬屋さんは、お薬を売って儲けるために、

統合失調症は、神経にドーパミンが、たくさんくっつき過ぎるから、

病気になると言いました。

だから、くっつくのを邪魔する抗精神病薬を飲ませれば、

治るって言うの。

 

あほになって、実行できなくなれば、

悪さをしなくなるのは、当たり前です。

 

何が悪いことで、何が良いことかって、

そんなのは、人間社会の、文化的な価値観ですから、

抗精神病薬という化学物質の、知ったことでありません。

脳味噌も、電線と化学物質のあほですから、

知っているわけがありません。

 

     ほんとは、抗精神病薬って、

     患者さんの脳味噌がやっていることを、

     真似(まね)しているの。

 

     統合失調症の患者さんは、

     悪いことをしてはいけないとか、

     他人を恨んではいけないとかって、

     一生懸命に、善良なことを考えて、自制します。

 

     悪さをしたくなるのを、我慢しています。

     外から、文化という刺激を、

     餌(えさ)みたいに、与えられたからです。

     神経の機能を、一生懸命、抑制しています。

     文化的な価値が、脳味噌を機能させています。

 

     個人って、脳味噌と体だけで動く自動機械でなく、

     外からの刺激がないと、反応しません。

 

     気持ちの良いほうに、反応するだけでしたら、

     変形菌やプラナリアと、たいして変わりませんけれど、

     文化に反応するって、結構な家畜のような仕掛けです。

 

     変なことをしないように、意識的に自制するから、

     脳の神経に、たくさんのドーパミンがくっついても、

     電気が流れなくなります。

 

     思考や実行をしないでは、生きて行けませんので、

     もっとたくさんのドーパミンがくっつくと、

     たぶん、無意識の自動機械の調節機能が、壊れます。

  

     意識的に壊したのですから、自業自得のようですけれど、

     文化の道徳的な命令なのに、

     個人の心のせいと言われれば、

     脳味噌は、立つ瀬がありません。

     

     個体の脳味噌が、インチキなのでなく、

     文化のほうが、人間の個体を、一律に扱うから、

     あほですけれど、

     GID(性同一性障害)の人たちは、そのことを、

     社会の理解があれば、精神障害でないと、言います。

 

     体に、実行を司令しているのは、大脳辺縁系ですから、

     抗精神病薬を飲むと、悪さをしなくなりますけれど、

     良いこともしなくなります。

 

     変(へん)なことを考えているのは、前頭葉ですので、

     抗精神病薬を飲むと、

     しょうもないことを考えなくなりますけれど、

     良いことも考えなくなります。

 

     統合失調症の人が、

     自分から、神経の機能を抑制しようとするのは、

     人を恨んだり、悪いことをしたりしてはいけないって、

     文化が思っているからなの。

 

     人を怨まずに、良いことをする方法なんて、ありません。

     日本国憲法に、

     言うことを聞かん奴を、捕獲して、首吊りにしろって、

     書いてあるもん。

 

     良いことや悪いことなんか、ただの価値観ですから、

     服装やお化粧の趣味みたいなもので、

     屁(へ)の突っ張りにもなりませんって言うと、

     怒られます。

 

     お医者によっては、

     お母さんの教育が二股膏薬でしたので、

     統合失調症の患者さんの脳味噌が、迷ったと、言います。

 

     お母さんだけでなく、

     文化は、嘘つきの悪い奴に、決まっていますから、

     お医者さんが治療をすれば、

     余計に悪くなるかも知れません。

 

     抗精神病薬は、

     統合失調症の患者さんの病気と、同じことをします。

     患者さんは、幼児のころから、

     ずーっと、自分の価値観を自制して、辛坊して来ました。

 

     みんなと一緒になれなかったの。

     たいていは、体や境遇が、原因ですけれど…

 

     最初は、上手(うま)く行っていましたが、

     10年とか20年とか、長期間、自制をしていると、

     脳の機能の限界を超えます。

 

     統合失調症を発病しましたら、 

     今度は、抗精神病薬が、強制的にやってくれます。

 

     患者さんのやったことと、同じ手順です。

     わりと長期間、効き続けますけれど、

     やっぱり、脳の機能の限界を超えると、効かなくなり、

     いわゆる廃人になります。

 

     自分の価値観を、自制することも、変更することも、

     出来なくなります。

 

     GID(性同一性障害)も、

     性転換を望み、実行しようとする気持ちを、

     自制できなくなり、変更不能になると、

     受診して、GIDと診断されます。

 

     治療法が、性転換ですから、

     統合失調症の抗精神病薬と、同じ理屈です。

 

     駄々をこねる子供に、

     飴玉をしゃぶらせて、黙らせますけれど、

     虫歯になります。

 

     なんで、駄々をこねるのかしらと言っても、

     子供は、しつこく泣き叫びます。

 

     生まれつきの素質と境遇が揃うと、

     そうなると言われますけれど、

     精神病院の患者さんと、牢屋の常習犯が、

     似たようなものでしたら、

     お医者さんや総理大臣も、

     飴玉をしゃぶっている親分にすぎません。

 

     精神科の患者さんとお医者さんって、

     牢屋のやくざと看守に、そっくりでしょう?