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ススキ 1367 台風の浸水経験

2013.11.23 15:00

三浦半島の西側の、相模湾に面した海岸の、芒(すすき)の穂です。

 

自衛隊や慎太郎という人が、暮らしていますが、

天皇陛下やコカインも、来るかも知れません。

 

           ***          ***

 

2013年10月16日の、台風の雨のせいで、

たくさんの人が、伊豆大島の土石流に、埋まったそうです。

 

死者の数が、確定しませんので、

今も、遺体の見つからない人が、いるのかも知れません。

 

日本にいなかったので、今頃になって、知りました。

 

2013年11月8日の、フィリピンの台風のせいで、

1万人近くが死んだそうです。

タクロバンという町に、行ったことがないので、知りません。

 

わたしの若いころには、狩野川台風や伊勢湾台風のように、

台風が来ると、千人ぐらいは死んでも、普通でした。

 

数年に一度くらいは、大きいのが来ましたけれど、

高潮と、河川の氾濫ですから、

ようするに、浸水や洪水に呑まれて、死にました。

 

わたしも、1m20cmの浸水を、経験しています。

大阪の町の中ですけれど、

高潮のせいで、川が逆流して、運河が溢れました。

 

今は、東京や大阪の、ローカルの川は、

地下に埋設されて、下水道になりましたが、

当時の大阪は、水の都ですから、運河ばかりでした。

 

上海や蘇州やニューオリンズなども、似たようなものです。

河口の湿原を排水して、町を作りました。

 

東京も、

河口の干潟を干拓して、排水をする事業が、町と城を作りました。

 

徳川政府は、何度も、河川を付け替えて、

利根川を、霞ヶ浦や銚子のほうに、持って行きました。

元々は、荒川や江戸川を経て、東京湾に注いでいましたから、

大変です。

 

大阪は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵して、ぐうたらでしたので、

川が溢れて、あっと言う間(ま)に、胸まで来ました。

 

側溝の水が、道路の足元から、捌(は)けなくなったと、気づき、

数分後に、窓まで水浸しになりましたから、

もう少し、深ければ、家が流される勢いでした。

 

伊勢湾台風は、5000人ぐらい、死にましたから、

レイテ島の台風と、さほど違いません。

若い頃の、日本の台風の記憶と、似ているかも知れません。

 

日本は、略奪なんか、ありませんでした。

地震や台風だけでなく、

空襲の時も、おとなしく死んで行ったと、聞いています。

 

関東大震災の時に、朝鮮人が暴動を起こしたと、デマが流れ、

たくさんの朝鮮人が、殺されたそうですが、

日本の都会に、集団で暮らす朝鮮人が、目立つようになったのは、

第二次世界大戦の後ですから、時代が違います。

 

日中戦争から第二次世界大戦の最中ぐらいですと、

都会の、いわゆる飯場(はんば)や、鉱山などに、

職場の朝鮮人が暮らしていただけですから、

永住者でなく、一時的な出稼ぎでした。

 

関東大震災の頃は、朝鮮人って、珍しく、

うちの母は、朝鮮人を見学するために、

わざわざ、お弁当を持って、よその町まで、遠足に行ったそうです。

 

関東大震災の時代に、暴動を起こすほど、

たくさんの朝鮮人が、東京に住んでいたとは、考えられません。

 

フィリピンの台風のビデオを見ると、風雨のひどい時の映像が、

日本の記録映画と、そっくりです。

空高く砕けた波しぶきが、風に吹かれて、

横から、バケツの水を叩きつけられたように、

海に近い町の、木造家屋が壊れます。

 

レイテのタクロバンの町も、港の近くは、スラム街でした。

現在の日本の港は、埋立地の先端にありますので、

住宅地から遠く、港の周囲は、倉庫ばかりですが、

当時は、港の近くって、バラックの民家ばかりでした。

 

うちは、港から遠く離れていましたが、運河の近くでしたので、

雨が上がってから、浸水しました。

 

救援や避難施設なんか、何もありません。

だれも、助けに来てくれませんでした。

近所のお風呂屋さんの二階に、避難しました。

 

義援金とか、救援金とか、なんにもありません。

炊き出しや、衣服の援助も、皆無です。

 

何もかもを、自分で修復して、

食べ物や衣服も、自分で調達しましたから、完全に自力更生です。

だれも、一円たりとも、恵んでくれませんでした。

落ちた壁を、自分で塗りました。

 

援助をしてくれる人なんか、一人もいません。

近所のお風呂屋さんが、二階に入れてくれただけ。

ボイラーが水に浸かって、大変でした。

 

救援活動の小舟なんか、一艘(そう)も来ません。

水が引いた後の、いかなる調査も、ありませんでした。

隣組の自己申告を元に、役所が書類を捏(でっ)ち上げます。

当時は、それが普通なの。

台風が来たら、1000人ぐらい、死んでも当たり前でした。

 

ようするに、港の防波堤と防潮堤と、川の堤防がなかったの。

下水道やポンプ場がなく、

運河が、網の目のように交差していました。

 

水郷地帯でしょう?

大阪や、東京の下町も、昔はそうでした。

 

豊臣秀吉が町を作るまでに、

1000年間ぐらい、大阪の人は、治水をしなかったのかしら。

レイテのタクロバンって、スペイン人が来るまで、

ただの漁村でしたから、防波堤は、無理と思います。