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カツラの雌花(めばな) 1504 間引き医療

2014.04.12 15:00

 

桂(かつら)は、雌雄異株ですが、写真は、雌株の雌花です。

花びらや、雄しべや、萼(がく)などは、ありません。

雌しべのみ。

 

盛りを過ぎて、花びらが散ったのでなく、

最初から、こういう花ですから、虫媒花でなければ、合理的です。

 

花びらの好きな、女性の脳味噌は、虫に似ているのかも。

それでも、お医者さんになりますけれど、

タイの人は、ゴキブリみたいな虫を、よく食べます。

 

背景が青空でしたら、奇麗でしたのに、曇っていました。

今夜のうちに、雨が降るかも知れません。

 

桂は、日本と東北アジアの特産で、

学名の種小名が 中性の japonicum です。

どうして、女性でないのかは、知りません。

 

           ***          ***

 

性転換は、生殖機能を、不可逆的に破壊しますから、

治す医療でなく、統合失調症のように、間引く医療です。

優生医療と言います。

 

体の奇形が、たくさん、生まれて来るように、

脳味噌の奇形も、少なくありません。

今のところ、統合失調症やGID(性同一性障害)などは、

どこに、奇形があるのかが、わかっていません。

 

本当に、体の奇形のように、脳の奇形なのかって、

強く疑われます。

体や脳の病気でないのなら、責任能力を認めて、

死刑にすべきなのかしら。

 

厄介なのは、統合失調症でもGIDでも、

自分から、死刑になりたいかのように、

とんでもないことを、しでかします。

 

GID(性同一性障害)では、

自分から、脳の一部分が奇形であると、主張して、

自分の生殖機能を、壊そうとします。

 

カミングアウトと、言いますが、

統合失調症の陽性症状に、そっくりです。

 

そればかりか、GIDの人が、お医者さんになり、

仲間のGIDの人の、生殖機能を壊しますから、

尼崎事件のように、世も末です。

 

GIDだけでなく、

脳に作用する化学物質を、自分用に、濫用しているお医者さんが、

性転換医療を行なうのも、稀でありません。

だいたいは、

頭のおかしいお医者さんが、性転換医療に、集まって来ます。

 

非行に走る人たちが、

夜の町の一角や、警察署や、精神病院などに、

たむろするようになるのと、同じです。

 

犯罪人と警察官や、

体や心の病人と、看護師や介護士やお医者さんって、

類は友を呼ぶように、同じ所に集まり、共食いを始めます。

昔からの、日本の部落差別の考え方です。

 

統合失調症やGIDの、生活や言動に、よく現れていますが、

一般に、精神の病気って、

社会の底辺を形成して、尼崎事件のような人間関係を作ります。

 

どこまでを、社会の底辺とするかは、切りがありませんが、

世間一般の、平均的な人は、

新聞の社会面の、刑事事件の記事を読んでも、

あらすじがわかりません。

 

中学1年生の、初歩の数学の問題を解いても、

中学1年生と、同じ成績です。

 

論理を理解できませんから、事実や善悪を類推すれば、

統合失調症の妄想と、まったく同じになります。

 

世間一般の半分以上の人が、そうなのに、

どうして、統合失調症は、精神の病気と言われるのかしら。

 

尼崎事件のような、社会の底辺の人間関係に、適応できなければ、

生活に、支障を来たしますので、

その論理能力の低さを、妄想や幻覚や支離滅裂などと言われて、

精神の病気とされます。

 

適応できていれば、精神の病気でありませんので、

妄想や幻覚や支離滅裂と言われずに、

尼崎事件のように、精神病院でなく、

牢屋のほうに、回ってもらいます。

 

でも、主犯の女性が、牢屋の中で、自殺をしたように、

ほんとに、精神の病気でなかったのかと、問われると、

直接に会い、話して、気安くなっていなければ、

答えようがありません。

 

大阪教育大学付属小学校の、宅間氏は、法廷での発言から、

典型的な統合失調症であり、責任能力がなかったと、

わたしは感じましたが、

尼崎事件は、裁判までに自殺をしましたので、わかりません。

 

精神の病気って、統合失調症の類では、幻聴が肝心です。

妄想は、二次的な症状ですが、そのせいで、

みんなと一緒の、事実や善悪などの、価値を理解できません。

 

事実と言われる認識の仕組みを見れば、よくわかりますが、

見たり、聞いたりして、無意識に、事実を認識するのは、

論理能力に由来します。

 

幻聴があると、みんなの文化的な価値の実行が、妨げられて、

妄想の中身を、実行してしまいます。

 

囲碁や将棋の人が、盤面をよく覚えていたり、

山下清という貼絵の画家が、訪れた旅先の風景を、

写真に撮ったように、覚えていたりしたのは、

もちろん、何度も、頭の中で、繰り返したからです。

 

二足歩行のように、何度も練習をしたから、習得をして、

いつもの習慣になり、無意識になった手順を、

脳が、自動機械のように行ないながら、本人は、自覚しません。

 

わたしは、小学高学年の頃に、1000部の新聞を、配達しました。

最初の一日だけ、前任者に付いて行き、

二日目には、自分一人で配ったのに、

名簿の伝票を見なければ、わからなかったのは、

1000軒の内の、2軒か3軒でした。

 

一度だけで、997軒を、覚えてしまいましたが、

この手順は、囲碁や将棋や山下清さんと、まったく同じです。

自転車を漕いで、道順を覚えるときに、

何百回も、道の様子を、頭の中で繰り返しています。

 

前任者の後ろに付き、自分の進んで行く道端の風景を見ることが、

何百回も何千回も、繰り返しているのと、同じなの。

 

見るとか、聞くとかって、繰り返しですから、

事実と言われる認識の中身を知るための、

論理と言われる無意識の判断の手順は、

生まれつきに変更不能な、神経や化学物質の、

繋がり方やくっつき方などの、ハードウェアの道筋なのかしら、

それとも、文化と言われるソフトウェアの道筋なのかしら。

 

遺伝的素質を取捨選択して、スピッツやテリアを作るように、

人間の、顔や体の見てくれや、脳の神経や化学物質の繋がり方を、

品種改良するのと、

流行文化を変えて、判断の手順を作り替えるのとは、

どちらが簡単なのかしら。

 

薔薇(ばら)って、

法的に登録されている品種が、どれくらいの数なのかは、

知りませんが、

名前の付けられている品種が、100万種はある、と言う人もいます。

どうやって、数えたのかしら。

 

エステティックや、脳の論理能力の、品種改良って、

ちょろいもんです。

文化的な流行のほうも、しょっちゅう、変わりますから、

変更不能ってことは、ありません。

 

個体に表れたエステティックや論理能力は、

事実上、変更不能なのに、

欧米の人たちは、個人主義やエステティックや合理主義などを、

宗教のように信仰します。

人権やファッションや科学技術などってやつです。

 

変更不能な理不尽を、まるで絶対的な真理のように、崇拝します。

宗教や物理化学って、それなのに…

 

科学技術の成果を、良いことと思い、

物理化学の判断の手順を、絶対に正しいと、確信するのは、

昔の人が、宗教の判断を、信じて疑わなかったのと、同じですが、

その仕組みに、気づかない人は、

囲碁や将棋の棋士や、山下清のような人を、

天才と言うかも知れません。

 

1000軒の内の、997軒を、一回で覚えるって、当たり前です。

個人差や、人と道順の、相性(あいしょう)もありますから、

999軒の人もいれば、990軒の人もいますが、

だいたいは、だれでも、そんなもんです。

 

科学技術が、生活の役に立っていると、確信するのは、

手品や文学と、同じなのに…

 

精神科が、

口先や、顔や目の色だけで、患者さんを、気持ち良くさせるのも、

手品や文学と、似たようなものですが、

一応、科学技術の振りをしなければ、儲かりません。

髭を生やして、エステティックの振りをする人もいます。

 

儲けても、仕方がないのに、

美容外科のように、儲けるお医者さんもいます。

動物ですと、変なのが生まれると、すぐに間引かれますが、

人間は、殺されません。

 

精神の病気って、堂々と間引いても構いませんから、

どんな奴を間引こうかって、考えると、

統合失調症やうつ病やてんかんや、

GID(性同一性障害)っていう病気が、すぐに炙り出されます。

 

間引かれ易(やす)い人たちなの。

みんなに虐(いじ)められる人たちと、同じですから、

ポルポトが、仕返しをしようとして、

お医者さんを全員間引いたのも、当たり前です。

 

論理って、容貌容姿のエステティックのようなものなの。

数学の正しさが、科学技術により、実証されていると、思うのは、

そのように見える手順に気づかない人が、

囲碁や将棋や貼絵の能力を、天才と確信するのと、同じです。

 

二足歩行を、自動機械のように無意識に行ない、

1000軒の新聞配達を、一度で997軒も覚えてしまったりするのは、

数学や科学技術の確信と、同じです。

 

予想した通りのことが、事実として起るって、

覚えた道順の通りに、自転車を漕げば、当たり前なのですが、

どの家が、その新聞を取っているか、取っていないかって、

道順と、どのような関係にあるのかしら。

 

それがわからなければ、数学や物理化学の道順と、

科学技術の成果を、生活の役に立つと、確信する気持ちとが、

どのように関係しているかも、わかりません。

 

わたしには、

数学や科学技術の正しさを、確信する人たちの気持ちと、

毎日毎日、拝んでばかりの茶道の先生や、宗教家の跡取り息子や、

性転換医療を行なうお医者さんの気持ちって、

五十歩百歩のように見えます。