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ホザキナナカマド 1546 数や事実の、架空の世界

2014.05.31 15:00

七竈(ななかまど)の散房花序が、

円錐花序になったようなものですが、

北日本の山地や、中国の東北地方や、

シベリアなどにも、自生しています。

 

日本の公園に、こんなに奇麗に咲いていると、

中国華中や華南の、

珍珠梅(ちんしばい)と同じでないかと、

疑いたくなります。

 

日本では、庭七竈(にわななかまど)と

言われています。

 

そうすると、葉柄や葉裏などに、

毛が生えているとか、生えていないとかって、

インターネットのブログに、載っているのが、

普通です。

 

どのような植物でも、

微細な部分を見て、似ている種類を識別して、

種(しゅ)を同定をするのは、当たり前です。

 

でも、毛の有無とか、

鋸歯(きょし)の違いとかって、

個体変異や、産地による違いに、

すぎないかも知れません。

 

種(しゅ)の違いに、あまり影響しないかも、

知れないの。

 

生物の種類が違うって、

ようするに、生殖が出来ないことです。

簡単に、生殖をして、雑種が出来るのなら、

同じ種(しゅ)と、言われます。

 

人間の、

髪がふさふさの女性と、禿(は)げ頭の男性は、

容易に生殖ができますので、

どちらも、ホモサピエンスです。

髪の有無は、識別点になりません。

 

禿(はげ)の猿を、人間と言い、

毛むくじゃらの女性を、猿と言うのは、

憲法違反です。

 

ほんとうに、その毛の有無が、

生殖の可否を示している、という証拠がなければ、

他人のブログの、植物の種類の識別を、

安易に信じるわけに、行きません。

 

わたしは、

息抜きのために、写真を撮っていますから、

安易に信じますが、

性転換は、息抜きができれば、

精神医療の目的を、達成できるのかしら。

 

GID(性同一性障害)の人が、

安易に生殖を否定すると、

ホモサピエンスでないと、

言われるかも知れません。

 

毛が、3本、足りなかったら、どうしよう?

 

       ***          ***

 

無いものを、在ると、想定すると、

虚数のように、とても便利です。

 

わたしたちの、目や耳や皮膚などの、知覚は、

事実と言われる架空の世界を、

自動的に作り出してくれます。

 

そのような遺伝的な素質を、文化的に選択して、

犬の豚のように、品種改良をして来たからです。

 

四川の黒豚や、ドイツのダックスフンドなどは、

人間のお医者さんと同じように、

文化的に選択された遺伝的な素質ですが、

遺伝子工学のような、洒落た技術は、

必要ありませんでした。

 

流行文化に好まれた素質は、

よく繁殖をさせられたのに、

気に入られなかった素質は、食べられて、

種付(たねつけ)を、

させて貰(もら)えませんでした。

 

     言葉のように、

     コミュニケーションのための道具が、

     無数の単語や意味に、分化すると、

     一つ一つの枝分かれが、

     目で見て、耳で聞き、

     手で触って知られるように、

     確かに存在するものとして、

     知覚されます。

 

     コミュニケーションって、

     みんなと一緒のことを、

     しない奴や出来ない奴を、

     殺して食べるための、

     健全な生命活動の、

     一部のようなものですけれど、

     第二次世界大戦の頃の、

     ニューギニアの石器時代の人たちは、

     他人の命を、手に入れるために、

     生きている奴を食べると、

     言っていました。

 

     自分と違う奴を食べて、

     一緒になりますので、

     自分と違う奴が、

     自分の体の一部になります。

 

     心と言われるような、無いものが、

     自分の体と言われるような、

     在る物として、認識されます。

     

     生命活動は、

     コミュニケーションの中身や、

     権力などの、無いものを、

     体のように、在る物として、

     表現することであると、言われます。

     

   

     無いものを加工して、

     在る物を作り出すための、

     体は、工場のようなものですが、

     無いものを、在る物として、

     認識する仕組みを、知覚と言います。

     事実を知覚します。

 

     普通は、

     無いものを、在る物として、

     想定するなどと、

     回りくどいことを言わずに、

     単に、事実が在ると、言います。

     

     この目で、実際に見て、

     この手で、触ったので、

     確かに間違いないと、言います。

     同じ意味です。

     

くっつけるって、定義ですから、

一つの物事(ものごと)を、

別の物事として、認識する、と言っても、

構いません。

 

自分一人で行なえば、

自作自演と言われるだけでなく、

統合失調症や認知障害などと、

言われるかも知れません。

 

みんなと一緒のことを、平凡にやっていれば、

健常ですけれど、やっている中身は、

みんなのすることのほうが、

自分一人ですることよりも、

遥かに、妄想や幻覚や支離滅裂であるのは、

言うまでもありません。

 

みんなで考えたほうが、賢く、

自分一人で、考えても、

今までの自分を、変更することが出来ないのと、

同じ意味です。

 

統合失調症の症状は、創造性に乏しいので、

認知障害や知的障害などと、

言われるかも知れません。

 

犯罪と言われて、首吊りにされることも、

あります。

犯罪の過半数は、知能の低いせいですので、

わたしたちは、

生まれつきに知能の低い人たちを、殺す方法として、

犯罪や精神病などを、発明したようなものです。

 

ニューギニアのように、他人のお肉を食べたほうが、

文化的かも知れません。

 

     犯罪者や、精神の病気の人たちに、

     みんなと一緒のことが、

     出来ないのは、

     脳の神経や化学物質の、

     つながり方やくっつき方が、すぐに、

     変更不能になってしまうからです。

 

     新しい神経細胞を作るための、

     幹細胞の出来かたが、

     遅いのかも知れません。

 

     化学物質のくっつき方を、変えるための、

     酵素(こうそ)の生産に、

     不具合があるのかも、知れません。

 

     化学物質とくっつくための、

     神経の受容体の、形や数や位置を、

     変更できないのかも、知れません。

     

     何が悪いのかは、よくわかりませんが、

     頭の悪い人って、

     だいたい、フィードバックの回路が、

     うまく機能していません。

 

     運動の調節能力や知覚能力を、

     計測すれば、

     頭の悪いのが、よくわかります。

     いわゆる知性は、ただの趣味ですから、

     あまり関係がありません。

 

     糖尿病のように、

     だんだんと悪くなるのは、

     困ったものですが、

     いつも、丁度良いところを、探りながら、

     こまめに調節して、実行する機能が、

     イカレるのは、

     ドーパミンの過不足によるもの

     なのかしら。

 

     本当の自分や個性を、主張するように、

     辛坊が足りなくなるだけでなく、

     エステティックや論理のように、

     生まれつきに変更不能な価値を、

     強要する文化にも、

     責任があるような、気がしてなりません。

 

     顔や体の見てくれや、論理って、

     不治の体の病気と同じように、

     人生から、希望を奪い取ります。

 

     ポルポトは、

     お医者さんを、皆殺しにしましたが、

     どうして、美男美女に、

     手をつけなかったのかしら。

 

     面食いで、なかったのかなあ…