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ヤブマメ 1633 奴隷の判断

2014.10.07 15:00

三出複葉っていう葉です。

 

1枚の葉が、

3枚の小葉(しょうよう)に、分かれていますので、

葉の枚数を、3枚一組で、1枚と数えるのは、

ややこしいかも。

 

葉の付き方も、

3枚一組を、1枚と見なしますので、互生です。

対生でありませんから、子供に教える時は、要注意。

 

これは、マメ科ですけれど、

お豆さんが、食用になります。

普通の花のほうの、豆は、

美味(おい)しくないみたい。

 

根元(ねもと)のほうの、蔓(つる)に、

閉鎖花の鞘(さや)が成り、

腐葉土に埋もれるように育つので、

モチモチとして、美味しい豆が、出来るそうです。

 

閉鎖花って、花を開かずに、

蕾(つぼみ)のままで、自家受粉をして、

種子を作ります。

 

どうせ、自家受粉をするのなら、

花を開く必要がありませんので、合理的です。

 

それなら、茎や蔓の、上のほうでなく、

下のほうの、地面の生え際に咲いても、構いません。

小さな花で、充分です。

 

土に埋もれた種子が、そのまま、芽を出せば、

なかなかの、上手(うま)い世代交代かも

知れません。

 

光が当たらずに、湿っているほうが、

果実は、美味しいのかしら。

とにかく、藪豆(やぶまめ)の、

0.5mmほどの、地下の小さな閉鎖花には、

1cmぐらいの、美味しい豆が、出来るそうです。

 

落花生は、花が咲くと、柄(え)を伸ばして、

地面の中に、潜ります。

暗く湿っていなければ、子房が育ちませんので、

子房柄(しぼうへい)が伸びて、土に突き刺さり、

根が伸びるように、地下に果実を作ります。

 

藪豆(やぶまめ)は、地上と地下に、閉鎖花があり、

蔓が、他の植物に巻き付くだけでなく、

匍匐枝のように、地面を這ったり、

地下茎のように、

腐葉土の中に、伸びたりしますので、

地下にも、豆が稔ります。

 

       ***          ***

 

判断の枝分かれを増やして、

たくさんの組み合わせの中から、

どれでも選べるように、

汎用性のある脳みそを作れば、

動物的な感情のような、変更不能な判断を、

廃止したり、変更可能にしたりすることが、

出来るのかしら。

 

第二次世界大戦後の日本は、家庭電気製品を作り、

世界に売りましたので、高度経済成長になり、

現在のように、豊かになりました。

 

女性は、お洗濯と、食事の支度のために、

毎日、数時間を費やしていましたから、

洗濯機と炊飯器のお陰(かげ)で、

単純労働から、解放されました。

 

わたしの子供の頃は、一般家庭の電気製品って、

白熱電球と、真空管のラジオだけでしたから、

お洗濯は、盥(たらい)に洗濯板で、

薪(まき)や炭を使い、ご飯を炊きました。

 

冬は、火鉢を囲う生活でしたから、

子供は、屋外で遊んだほうが、快感でした。

 

テレビが普及すると、

日本人は、電卓を作り、世界中に売りましたが、

わたしは、

アメリカ合衆国のパソコンのキットのほうが、

汎用性があるので、重宝しました。

 

お金なんか、儲(もう)けたくない。

家を建てると、あとは旅行しか、

お金の使い途が、ありません。

時間が余っているのは、死に掛けの人だけです。

 

権力なんか、欲しくないもんね。

弱い奴を、虐(いじ)める人と、

みんなに虐められる人とは、そっくりですから、

権力って、類は友を呼ぶ共食いに、決まっています。

 

弱い奴は嫌いって、思う人は、自分を憎みますから、

自傷や自殺のように、

自分を愛している人が、お酒や薬物を使い、

気持ち良さに浸るのと、区別がつきません。

 

人を攻撃するって、気持ちが良いでしょう?

軍隊や警察を、

お酒やコカインや犯罪や自殺のように言うと、

怒られますけれど、

他人を、やっつける気持ち良さと、

自分を、攻撃する気持ち良さは、

似たようなものなの。

 

性交渉とオナニーって、目糞鼻糞です。

 

他人と自分の気持ちは、

類は友を呼ぶように、入り混じり、

層になって、沈殿して行くのが、わかります。

個体の単位で、人の心を、知ろうとするのは、

細胞の心を、知ろうとするぐらいに、

滑稽かも知れません。

 

わたしは、心や、事実よりも、

判断の組み合わせの中から、

どうして、その判断が選ばれたのかが、

気になります。

 

理由のわからない判断が、

心や事実よりも、神さまみたいに、面白い。

神さまって、ご先祖様に、決まっていますから、

ばい菌や受精卵みたいなものですけれど、

男と女が、くっつくように、

生まれつきの素質と、文化と言われるプログラムが、

ドッキングして、経験と言われます。

 

文化的な判断が、物理化学よりも、面白いのは、

心や事実の、変更の余地が、大きいからです。

 

     電卓って、あまり、

     プログラムを変更できませんから、

     汎用性が、小さい。

 

     判断の枝分かれは、

     マルペケの二進法ですから、

     汎用性のある脳みそは、

     裾広がりに、物凄い数の枝分かれが、

     必要になります。

 

     特定の枝分かれの道筋だけを、

     奥深く何度も枝分かれさせても、

     他の道筋がなければ、

     汎用性がありません。

 

     マルペケの判断の組み合わせが、

     特定の神経の道筋と、一致するなんて、

     滅多(めった)にありません。

 

     その脳味噌の道筋は、

     その判断の組み合わせに一致するような、

     特定の目的にしか、使用できません。

 

     でも、特定の用途に使うだけでしたら、

     他の膨大な判断の枝分かれを、

     作る必要が、ありませんから、

     電卓みたいに、安上がりです。

 

     汎用性はありませんが、

     人間の脳味噌って、

     短期間に、簡単に作られました。

 

     わたしは、お金や美貌を、

     欲しくなかったので、

     日本の電卓よりも、アメリカ合衆国の、

     汎用性の高いパソコンのほうが、

     いいなあと、思いました。

 

人間や猿の脳味噌は、

原始的な哺乳類の脳味噌の先に、

枝分かれの回数を、増やしただけですから、

哺乳類に共通の判断の道筋とは別の、

判断の組み合わせを、選ぶことは、できません。

 

哺乳類に共通の判断までは、

マルペケの組み合わせが、決まっています。

変更不能なの。

 

たぶん、もの凄く長いマルペケの羅列ですけれど、

その組み合わせ以外を、選びたくても、

その組み合わせの道筋しか、

脳みそが作られていません。

電卓と同じです。

 

もの凄く長い道筋と、同じだけの、

他の選択肢を作れば、

たぶん、哺乳類に共通の判断だけでも、

地球ぐらいの大きさの、脳みそが、必要になります。

それだけ、たくさんの枝分かれが、なければ、

他の、自由な組み合わせを、選ぶことができません。

 

特定のマルペケの羅列になるようにしか、

脳みその枝分かれが、作られていませんので、

汎用性がありません。

 

     くそったれですけれど、

     人間の脳みそは、

     ばい菌みたいな、ご先祖様の仕様を、

     受け継いでいますから、仕方ありません。

 

     微生物なんて、脳みそがありませんから、

     ただの体の仕様が、脳みそのように、

     特定のマルペケの判断の羅列を、

     表わしています。

 

     これとあれの、

     化学物質の粒々(つぶつぶ)が、

     くっついたり離れたりするだけの、

     脳みそですから、体と同じです。

 

     このほうが、

     判断の枝分かれの、組み合わせを、

     たくさん記憶できますので、

     物体や事実などの、知覚の中身として、

     文化的に表現されています。

 

     男と女がくっつくように、

     遺伝的素質と、文化的なプログラムが、

     経験により、ドッキングして、

     文化のほうの、マルペケの羅列が、

     物体や事実として、知覚されます。

 

     人間の判断の要素が、

     コンピュータの論理よりも、多いように、

     文化のマルペケの枝分かれは、

     脳みそよりも、巧妙に工夫されています。

 

生物の、延々と続くマルペケの羅列の、道筋を、

適当に切り分けて、根本(ねもと)のほうから、

均一に枝分かれをするように、配置換えをすれば、

汎用性のある選択が、可能になります。

 

実際に判断したマルペケの道筋よりも、

通らなかったマルペケの組み合わせを、

選択可能にしなければ、

判断の汎用性が、得られません。

 

電卓よりも、パソコンのように、

たくさんの判断の組み合わせを、用意するために、

違うものを同じであると、定義する論理により、

変更不能な生命の、マルペケの羅列を、

仮想的に組み替えて、

わたしたちは、物体や事実などとして、

知覚しています。

 

サイバネティックスってやつですけれど、

物体や事実と言われる仮想現実を作るための、

知覚や文化の仕組みです。

 

     でも、汎用性のある判断の仕組みが、

     良いのかしら。

     人生は、

     理不尽で不公平で変更不能でなければ、

     思い出として、残りません。

 

     自由に選択して、

     自在に変更できる判断って、

     滓(かす)のような、

     気がしてなりません。

 

     痛く苦しく、酷く辛い手枷足枷や、

     奴隷のように、不自由な心が、

     素晴らしい。

 

     普遍的で必然的な判断や、

     思いのままの、自分らしい人生って、

     阿片(あへん)を吸って、

     気持よくなっているだけのような…