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コマクサ 1890 論理や科学を、否定する医療

2015.07.12 15:00

日本の、代表的な高山植物ですが、

日本人が、馬面(うまづら)を好むようになったのは、

江戸時代の幕末からです。

 

鎌倉時代の武士の肖像まで、

馬面を善しと、しましたので、

貴族のような丸顔は、破棄されました。

 

まるで、19世紀のイギリス人が、

古代ギリシャの彫像を削り、塗料を落として、

純白の大理石に仕上げたのに、似ています。

 

小学生の頃に、佐久間象山の、写真や肖像画を見て、

ここまでエステティックに、

欧米に追従(ついしょう)しようとする日本人を、

可哀想に思いました。

 

論理能力が低ければ、判断の根拠がありませんが、

論理法則が、そもそも文化的な教条にすぎないのに、

数学の通りに、科学技術が成り立つのは、

刃物や鉄砲や黒船や原爆などが、

嫌(いや)な奴を殺して、

論理に一致する知覚の素質を、純化したからです。

 

品種改良をして、ダックスフンドやブルドックを、

作ったのと、同じ要領ですから、

具体的な、顔や体のエステティックを、

取捨選択するように、

生まれつきに変更不能な、論理的な知覚能力を、

純化できると、

アリストテレスの論理学や科学は、予想しました。

 

彼は、正しいと言われる結果を、作りましたので、

権力を握り、万学の祖と、称(たた)えられています。

 

エステティックと論理が、一致することを、

多くの人が、実感しているように、

ダックスフンドやブルドックを作ることができるのは、

文化的な教条の通りに、

生まれつきの変更不能な、知覚や感情を、

品種改良して作ることができるのと、

ほとんど同じ意味です。

 

ダックスフンドやブルドックでなく、

他の品種を作ることもできるように、

論理法則と言われる教条が、

ほかの中身であっても、構いません。

 

彼の教え子の、アレクサンダー3世が実行したように、

言うことを聞かん奴を、殺すための、鉄の刃物が、

最大の武器でした。

 

アレクサンダーは、ペルシャの豪族を、

ソグディアナまで、追いかけて行きました。

論理や科学技術が、本懐を遂(と)げましたが、

まるで曽我兄弟の仇討ちを讃(たた)えるように、

現代のわたしたちは、

論理や科学技術を信奉して、止(や)みません。

 

日本人が、アリストテレスアレクサンダー師弟を、

崇拝するようになったのは、

佐久間象山のお陰ですので、

駒草(こまくさ)を見ると、彼を思い出します。

 

       ***          *** 

 

動物は、知覚したことを、記憶してしまいますが、

何を知覚するかは、

赤ちゃんが、大人と同じものを、見ていないように、

文化的に、こっちとあっちを、つないだり、

これとあれを、くっつけたりするための、

規則性を学び、

その通りに知覚することを、実行するようになるから、

1才くらいに、

みんなと同じ物を、見ることができるようになります。

 

もっとも、赤ちゃんの脳は、

たとえ、一卵性双生児や母親とであっても、

他人と繫がっていませんので、

みんなと同じ物を、見ているか、否(いな)かを、

直接には、だれも知ることが、できません。

 

わたしたちは、

言葉や動作などの、コミュニケーションにより、

たぶん、みんなと同じ物を、見ていると、類推します。

 

本人も、そのように類推しますから、

類推の結果が、みんなと同じでしたら、

何を見ていようが、みんなと同じものを見ていると、

結論されるのでないかと、疑われます。

 

その類推の規則性のことを、論理法則と言いますから、

類推の結果が同じでも、類推の規則性が同じとは、

限りません。

類推の規則性が違っていれば、

たぶん、類推の結果も違って来ますから、

みんなと違っていれば、論理能力が低いと、されます。

 

みんなが見ている共通の物がないほうが、

知覚の仕組みが、明瞭になり、

共通の物があるとしたほうが、話が複雑になるのに、

科学が、複雑な話を好むのは、

自分と同じ論理法則に、適応しない奴を、

正当に殺すためです。

 

客観的に、これこれの物がある、とするのは、

みんなと一緒でない判断の奴を、殺して、

正当化するためなの。

善悪や道徳や犯罪や人格などの、

根拠のない価値を、正当とするには、

客観的な物があるとしたほうが、具合が良い。

 

自分でない物体や、みんなに共通の物体がある、

とすれば、

嫌(いや)な奴を、みんなで虐(いじ)め殺すには、

便利です。

本当に悪魔がいると、信じるようなものです。

 

そうでなければ、

嫌(いや)な奴を、やっつけるたびに、

自分で自分を殺したと、後悔しないように、

お釈迦さんやキリストのように、

自分はないと思わなければ、いけません。

 

お腹が減ったら、食べたいし、

歯が痛く、便秘になっただけでも、

死ぬほど苦しいのに、

自分がないとは、到底、思えない…

 

人は皆、死にますから、そのうちに、だんだんと、

自分の命や体を、惜しいと思わなくなり、

自分はないと、確信するようになるのが、普通なのに…

 

言葉が、

みんなの流行文化の、共通の産物であるように、

論理法則と言われる教条も、

ほんの少し、息の長い流行文化に、すぎません。

 

言葉が約束事であるように、

論理法則も、人為的な文化なの。

 

その通りに、科学技術が知覚されるように、

言葉や論理法則のような、

みんなに共通の、文化的な規則性は、

知覚や感情を、規定することができると、

アリストテレスは、考えました。

 

論理能力は、

無意識の機能を定義して、制約する能力です。

 

論理能力の低いやつに、犯罪や気違いや悪徳などの、

文化的な価値をこじつけて、殺すのが、

科学技術の主たる役割です。

 

精神科医が、科学的であれば、

精神障害者を焼却したナチスドイツと、同じですが、

論理法則の教条や、ロマンティックな医学を

拒否する医療って、成り立つのかしら。