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トチノキ 1953

2015.09.12 15:00

栃(とち)の木ですが、

青空のほうが、奇麗でした。

 

秋が、すんなりと進み、気持ち良い。

 

鬼怒川が、氾濫したそうですが、農家の子孫なら、

生まれ育った土地に、家を建てるでしょう。

 

所有地のほうが、安上がりですし、馴染みもあるし…

先祖代々の一族が、そこに築いた人脈でなければ、

生きて行けない。

 

よそ者が、あそこに、

宅地や建売住宅を、買うのは、奇妙です。

 

地図を見れば、

鬼怒川と小貝(こかい)川に、挟まれて、

常総市役所は、

それぞれから、1kmぐらいの距離しか、ありません。

 

堤防があっても、決壊するかも知れないと、

覚悟して置いたほうが、良かったのですが、

職場の近くに、転居せざるを得なかった人も、

少なくなかったでしょう。

 

東日本大震災の時も、そうでした。

過去の津波の高さが、わかっているに、

そこに、家を建てる度胸は、なかなかと言うよりも、

いわゆる裸一貫でなければ、

暮らせない定めの、社会の底辺です。

 

性別が違うと言い、性転換をするぐらいの、

行き当たりばったりの顛末(てんまつ)でなければ、

生きて行けません。

 

小学高学年から中学生の頃に、

わたしが暮らしていた大阪の土地も、

標高が低く、浸水しました。

 

台風の大雨でしたが、

やはり、畳が浮き上がったので、気づきました。

 

机と机の間に、畳を渡して、

箪笥(たんす)の引き出しを、全部、載せました。

 

腰まで水に浸かりながら、布団を濡らさないように、

押入れの上の段に、生活道具を詰め込みました。

 

翌日の朝に、膝ぐらいまで、水が引きましたが、

父は、押入れの中で寝ました。

女子供(おんなこども)は、

お風呂屋さんの二階に、避難しました。

 

水が引いた後に、

抜けた壁を、家族全員で塗り直しましたが

救援物資や炊き出しや避難所などの、

公的な援助は、一切ありませんでした。

1円も貰(もら)わなかったし、

おにぎり一つも、くれませんでした。

 

当時は、それが普通でしたから、

誰も、期待していません。

誰も、文句を言いませんでした。

 

どうせ、戦争に負けて、

進駐軍に占領されていましたから、

誰に、何を言えと、言うのかしら。

 

日本人は、全員が銃殺されても、

文句を言えない立場でした。

殺し合いに負けたのですから、殺されて当然です。

 

反対に、勝っていたら、

家族を殺した奴らを、殺さなければ、

気持ちが収まりません。

 

パンパンだけは、銃殺を免(まぬか)れるだろうと、

日本人は想像していました。

 

お父さんがGI(ジーアイ)で、

お母さんがパンパンだったら、

良かったのにと、子供は言いましたから、

親は情けなかった。

 

今でも、性転換をする人たちは、

GID(性同一性障害)をカミングアウトして、

みんなを見返してやると、言いますから、

是非もない。

 

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