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アキニレ 1974 判断の組み合わせを、瞬時に一覧する

2015.10.03 15:00

秋の初めに、花が咲き、

団扇(うちわ)のような、薄い円盤状の果実が、

種(たね)と一緒に飛んで行けば、落葉します。

 

秋楡(あきにれ)の樹皮は、

ぼろぼろと、5cmぐらいの細かさに、

ひとりでに、剥(は)がれ落ちますから、

春楡(はるにれ)や欅(けやき)などの、

他のニレ科(Ulmaceae)の樹木と、

見間違うことは、ありません。

 

中国大陸から西日本にかけての、

暖かい地方の雑木(ぞうき)ですが、

樹形の線が細く、落ち葉の総量が多いので、

庭に植える人は、少ない。

 

     ***          *** 

 

人それぞれに、生まれつきの変更不能な論理能力って、

判断の組み合わせを、整理整頓できる量に、

ほぼ一致します。

 

マルペケの判断が、枝分かれをしますから、

組み合わせの数は、すぐに1億や1兆通りを、

超えてしまいます。

 

整理整頓できる組み合わせの数が、

人それぞれに決まっているのは、

必ずしも、長い時間の記憶力によるとは、限りません。

 

筆記算のように、ノートに記録しても、

人それぞれの、能力の量を超えると、

整理整頓ができなくなるのではと、疑われます。

 

たとえ、受験用に、問題の解き方を丸覚えしても、

全体の分類の要領を、一覧できませんので、

杓子定規の教条を、繰り返す判断しか、できません。

 

判断の枝分かれは、

現実に流行している論理の、着目点のほかにも、

無数の可能性がありますので、

可能な判断の組み合わせは、いつも無限です。

 

実際には、ごく単純な、流行の論理だけでも、

その判断の組み合わせは、膨大ですので、

ほとんどの人は、組み合わせの全体を、

一覧できません。

 

たぶん、10通りぐらいの組み合わせになると、

頭の中で、シミュレートできませんので、

膨大な組み合わせを、想像することは、不可能です。

 

ましてや、現実に流通している論理でなく、

可能な判断の着目点を、

あれこれと組み合わせる能力は、皆無です。

 

何通りの組み合わせを、

頭の中で、シミュレートできるかは、

論理能力と同じですが、

一瞬のうちに、想像できなければ、

筆記算のように、ノートに書き留めても、

全体を一覧できる能力が、

培(つちか)われないのかも、知れません。

 

人間と猿の差が出ている、と言えば、怒られますが、

ほんとうです。

 

論理能力でなく、空間把握能力に喩えれば、

すぐにわかりますが、

筆記や算盤(そろばん)やコンピュータなどを、

使っても、

能力の低い人の能力は、伸びません。

 

空間把握能力って、一瞬のうちに実行されなければ、

立体的でなかったり、狭かったり、暗かったり、

変化しなかったりしますので、

能力の低い人の知覚の中身は、高い人よりも、

平面的で単調です。

 

どうして、道具や機械により、

肩代わりできないのかって、よくわかりませんが、

一瞬のうちに、シミュレートできなければ、

けっして、こつこつと積み重ねられない能力って、

たくさんあります。

 

何トンもの、重い石ころを、機械で持ち上げるのは、

生まれつきに人間にない筋肉の力を、

機械が肩代わりしていますが、論理能力のせいです。

けっして、

筋肉の能力に、積み重ねの可能性があるのでは、ない。

 

論理能力だけが、他の能力の、分割と積み重ねを、

可能にするのであれば、

論理能力が低ければ、万事休すです。

 

一瞬のうちに、わからなければ、

たぶん、いくら考えて、工夫を凝らしても、

永久に、わからないだろうって、

わたしは、小学高学年の頃に、疑い始めました。

 

どうして、筆記算や算盤(そろばん)や

ショベルカーやコンピュータのように、

ちょっとずつ、脳の外に記録して、

積み重ねて行く努力や工夫が、通用しないのかしら。

 

もしも、それができるなら、

一瞬のうちに、10通りの判断の組み合わせしか、

思い浮かばない人でも、一生懸命に努力すれば、

1兆通りの組み合わせを、理解することが、

できるようになるはずです。

 

実際には、努力が報われないって、

経験的にわかります。

 

全体を一覧する直感能力って、見当識と言われますが、

分割して積み重ねる努力が、通用しないのは、

有効時間が、一瞬しかないような、

脳の機能を、使っているからです。

 

代表的なのは、空間や時間による知覚です。

一瞬のうちに、空間的に見えなければ、

たとえ、コンピュータを使い、

情報を分析して演算しても、

空間的な生活を獲得することは、できません。

 

時間も、そう。

時間の順番に、物事(ものごと)を並べるために、

1日も2日も、かかっていたのでは、

次々に連なっている時間による生活を、

諦めたほうが、良い。

 

論理は、

筋肉の能力を、機械に肩代わりさせるることが、

できますが、

論理の能力を、ノートや算盤(そろばん)や

コンピュータに、

肩代わりさせられないのかしら。

 

次々に空間や時間が、移り変わるように、

一瞬のうちに、わからなければ、

だんだんと処理が遅れて、置いてけぼりにされるのは、

必至です。

 

判断の組み合わせって、次々に移り変わりますから、

一瞬のうちに、わからなければ、

差が開く一方になります。

 

統合失調症になりやすい人の能力って、

一瞬のうちに処理されるはずの、

1億や1兆通りの、組み合わせを、

一瞬のうちに理解できません。

 

せいぜい10通りぐらいしか、

一瞬のうちに、思い浮かびません。

世間には、

100通りの人もいれば、1000通りの人もいます。

 

1兆通りを理解できるが、

一瞬でなく、10秒くらいも掛かる人を、

今のところ、わたしは、見たことがありませんから、

たぶん、時間の掛かりそうな人は、

一瞬のうちに理解できる組み合わせの数を、

少なくしているはずです。

 

一瞬であることが、動かせない条件なの。

 

チンパンジーでも、3通りぐらいは、

わかるかも知れません。

世間一般の99%の人は、

たぶん、10通り未満しか、わかりません。

 

1兆通りもある判断の組み合わせを、

10通り未満に割愛したのでは、

裁判官の判決文の論理のように、世も末ですが、

無数の判断の組み合わせを、1兆通りに割愛するのも、

五十歩百歩のような気がしますから、

何をか言わんやです。