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ミツバアケビ 1995 判断の着目点

2015.10.24 15:00

郁子(むべ)ほどではないが、

木通(あけび)も、種(たね)だらけですので、

種ごと、口に入れてから、種だけを、吐き出します。

 

面倒臭い果物(くだもの)ですが、

山道を歩いて、疲れている時には、

水分と言い、甘味と言い、

一息入れるのに、丁度良いかも。

 

わたしは、手や指が、ねちゃねちゃになるのが、

嫌(いや)なので、

アケビの実を、スーパーマーケットの袋に入れて、

水のある所まで、持ち歩き、

食後は、念入りに手を洗います。

 

論理能力が低ければ、

ねちゃねちゃを、あまり気にせずに、

不器用と抱き合わせになっているかも、知れません。

 

知能が低ければ、他人に虐(いじ)められますが、

虐める加害者も、

必ず、被害者と同じくらいに、知能が低い。

 

虐められる人も、

ちょっとした境遇や経験の、巡り合わせから、

加害者になる可能性が、高い。

そういう素質です。

 

面倒なのは、

論理能力の低い人には、事実が知覚されませんから、

知能の高い人に、

危害を加えることも、少なくありません。

 

そうすると、

鉄砲玉や原爆をぶち込まれて、殺されますので、

日本を保護するように、責任能力が無いとして、

知能の低い人を、保護します。

 

ほんとうに、論理能力の低い人を、保護するのは、

善良な政策なのか、という議論と、

ほんとうに、アメリカ合衆国は、知能が高いのか、

という議論は、同じです。

 

日本を殺すよりも、こき使ったほうが、得なので、

責任能力が無い、とするのも、

食事のために、決まっています。

 

頭の悪い人間を、品種改良して、

役に立つ家畜を、飼育するために、

責任能力の無い種類の、精神の病気だけでなく、

責任能力の有る種類の、病気や犯罪が、

作られるのかも知れません。

 

家畜小屋の番人って、十手を持つやくざと同じです。

警察と山口組の抗争のために、税金が使われるのを、

日本国民が納得しているのも、似たようなものです。

 

百年河清を待っても、仕方ありませんから、

種(たね)ごと、口の中に入れて、吐き出します。

尻から出すよりも、知的です。

 

なんか、口の中が、砂利砂利して来ました。

それに比べれば、アケビや豚肉は、桁違いに美味しい。

 

     ***          *** 

 

論理能力が低ければ、全体を一覧できないだけでなく、

あらすじがわかりません。

 

判断のマルペケの数量は、枝分かれの量と同じですが、

実際に選択して、経験した道筋(みちすじ)のほかに、

可能な選択の組み合わせを、全部一覧できなければ、

どの道を選ぶのが、最善かを、判断できません。

 

実際に経験した道が、理想的であったのか、

それとも、あほ丸出しであったのかを、

自分で、評価できなければ、

行き当たりばったりの、人生になります。

 

一か八(ばち)かの、賭けばかりって、

頭の悪い人たちの、日常茶飯です。

それでも、キタサンブラックは絶対だと、

御本人は言います。

 

     直感的に、絶対にこれであると、

     わかるそうですが、

     多くは、事実や論理や科学技術などの、

     合理的な判断や、宗教的な教条とも、

     異なります。

 

     論理法則と一致するように、

     事実を類推すれば、論理的と言われますが、

     知覚の中身が、事実に一致するのを、

     論理的と言うべきか、

     直感的と言うべきかは、誤解されやすい。

     

     成人が見ているのと、似たような光景が、

     赤ちゃんの目に、見えるようになるのは、

     1才ぐらいからです。

     生まれたばかりの時は、

     光の強弱を知覚できても、

     成人の見る物の形に、見えません。

 

     だんだんと、大人と一緒の光景が、

     見えるようになりますが、

     言葉を習得するように、

     音や光や、筋肉の力などの、

     文化的で経験的な関係が、

     癖(くせ)になったのか、

     それとも、自然と言われる光景を、

     生まれつきに知る能力が、

     発揮されたのかって、

     仕分けが面倒と、言うよりも、

     他人に伝えるのが、面倒臭い。

 

     いくばくかは、

     生まれつきの変更不能や困難な、

     素質であり、

     いくばくかは、文化的な経験ですが、

     少なくとも、自然の光景のように、

     わたしたちの体の外側の、

     みんなと一緒の、客観的な認識の対象が、

     人間がいなくても、存在すると、

     考える必要は、ありません。

 

     体の内側の、生まれつきの素質と、

     インターネットの交信のような、

     他人との、情報交換の経験があれば、

     説明できます。

 

     コンピュータとコンピュータって、

     電波や電線で繋がっていますが、

     マイケルソン・モーリが、

     エーテルは要(い)らんのかと、

     疑ったように、

     自然がなくても、人と人は、

     交信できるのかと、

     ロマンティックな人たちは、

     文句を言います。

 

     自分と他人って、

     生物は皆、親子兄弟姉妹ですから、

     宗教の言うように、

     神様の血筋で繋がっています。

     他人との情報交換は、

     体の内部の情報伝達と、同じことなの。

 

     論理や事実や科学技術などの、判断は、

     神様や宗教と同じように、

     生殖と世代交代の思想の、続きですから、

     内輪(うちわ)の問題の解決を、

     模索しています。

 

     自分たちの体の、外側を、知る能力が、

     生物にあるかって、

     感覚器官を見ればわかりますが、

     他の生物の個体や、自分の体などの、

     生物の内側を、どうするか、

     という判断のために、

     事実と言われる指標を、計測しています。

 

     生物の内輪の世界を、

     特定の状態に維持するために、

     感覚器官が機能しています。

     生物でない奴のために、

     感覚器官が奉仕することは、

     何もありません。

     全部が、内輪のために、あります。

 

     生物でない奴が、目に見えていると、

     感じられるのは、言葉が聞こえたり、

     数量が見えたりするのと、同じように、

     経験的な文化の産物が、知覚されています。

 

     生物の形も、印が見えていますが、

     調節されるべき目標の、体の内側ですから、

     食べ物のように、大切な身内です。

 

     たぶん、身内が見えるのは、

     生まれつきの、変更不能な機能ですが、

     どのように表現されるのかは、

     経験や文化により、変わりますから、

     生まれつきでもないのに、

     生物でない物が見えるのは、

     いわば純文学です。

 

     生物でない奴は、うんこみたいに、

     遠回しに大切ですが、身内でなく、

     身内の死骸のような、生産物です。

 

1才くらいになると、赤ちゃんの目に、

大人と同じ自然の光景が、見えて来るのは、

言葉を習得するのと、同じことなの。

世界の端っぺたのほうが、だんだんと、

形成外科のように、見えて来ます。

 

エーテルって、

文化を伝えるための、文化もある、という意味かしら。

媒体やメディアって、いわれる奴。

論理は、階層構造になっていますから、

別の纏め方をすれば、別の枝分かれになるのは、

仕方ありません。

 

判断の枝分かれは、

実際に選ばれた判断の道筋と、同じ着目点なら、

選ばれなくても選択可能な判断の組み合わせを、

全部、一覧することができます。

 

着目点が変われば、可能な判断は無数ですから、

全部を一覧することは、できません。

 

論理能力の低い人は、一覧できる判断の、

可能な組み合わせや枝分かれの数が、少ない。

 

生まれつきですが、

判断の着目点が、事実や科学技術などと、違います。

 

他人と一緒の、任意の着目点に、合わせる能力が、

低ければ、そうなります。

何も、可能な着目点を、全部予想しなくても、

他人と一緒の着目点にして置けば、それで良いのに…

 

任意の他人の気持ちに、共感するには、

任意の着目点を、維持しなければいけませんが、

他人に合わせて、

好きでもない組み合わせを維持するのは、しんどい。

 

     権力やお金が欲しければ、しんどいことを、

     気軽にやらなければ、いけませんから、

     死にやすい。

 

     論理能力の低い人たちの間では、

     エステティックが、最大の権力ですから、

     他人が良いと言う顔つきや体つきを、

     維持するために、美容外科に通い詰めて、

     マイケル・ジャクソンみたいに、死にます。

     美人薄命と同じです。

   

     わたしは、権力よりも元気が、良い。

 

     判断を一覧するって、

     部分ごとに、あらすじを作り、

     全部を繋げて、一覧すれば良いのに、

     論理能力が低ければ、

     あらすじを作る能力が、低い。

 

     何を選択して、あらすじとするかって、

     何を着目点にして、判断するのかと、

     同じように、価値の問題ですが、

     あらすじは、無数の判断の中から、

     選択するのでありません。

 

     でも、

     人生のあらすじって、簡単に作れない。

 

     中学の国語の読解力や、初歩の数学の、

     問題を解こうとしても、成績の低い人は、

     一々、人生のあらすじのように、悩みます。

 

     中学の国語や数学に、人生は必要ないと、

     言える奴が、勉強をしなくても、

     一流大学医学部に合格するのに、

     一々、人生に悩む奴が、

     4時間も5時間も勉強をしなければ、

     合格できないのは、当たり前です。

 

     人生に悩む奴を、あほ、と言えば、

     怒られますが、

     4時間や5時間もの奴を、見ると、

     ロマンティックだなあと、感心しました。

 

     わたしも、ロケットを飛ばして、

     月へ行けば、良かったと、思いますが、

     みんなの言うことを、聞かなければ、

     怒られましたから、仕方ありません。

 

     社会の底辺の、

     論理能力の無い人たちの間では、

     全国で1番なら、どこそこ大学医学部って、

     決まっていましたから、

     なんで、あんなあほと一緒にと、

     うんざりしました。

 

     身の回りの、4時間も5時間もの奴を、

     やっつける方法が、当面の課題でした。