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大井町 2025 論理について

2015.12.09 15:00

JR大井町駅のホームから、

いわゆる看板建築の、裏側が見えました。

 

昔は、ホームの側に、客寄せの工夫をしても、

効果がなかったのでしょう。

 

もったい無いと、思いますが、

今でも、優れた建築家ばかりと、限りません。

 

羽田の帰りに、大井町をうろつく人も、

多くないはずですから。

 

     ***          *** 

 

論理法則って、

流行文化の中身の、たくさんの定義や教条のうちの、

比較的に長続きしているのを、ごった煮のように、

一緒くたに纏(まと)めたものです。

 

その幾つかは、簡単な事実を知る仕組みのように、

他の哺乳類や脊椎動物に、共通ですので、

体や脳の器質として、遺伝するだけでなく、

その能力が低ければ、たぶん、生存できませんが、

人間特有の、複雑な事実を知る仕組みは、

あまり純化されていませんので、

遺伝はしても、人それぞれの能力の差が、大きく、

低くても、必ずしも生存できないと、言えません。

 

生存能力って、早い話が、

生物の中の、共食いの力量のようなものですから、

みんなと一緒のほうが、孤立するよりも強く、

複雑な事実を知る能力が、低くても、

知能指数100のほうが、160よりも、

生存の可能性が、大きいかも知れません。

 

複雑な事実を知るための論理能力が、

人間社会で重宝されるのは、科学技術のように、

少数でも、多数を殺せるからです。

 

特定の流行文化の、定義や教条が、

たくさんの他人を、殺す壺に、嵌(はま)っても、

みんなの流行の、竜巻のようなものですから、

絶対的や必然的であると、言うわけでありません。

 

生存するのが良い、という生命の価値も、

論理法則と同じように、

虚(むな)しいと言えば、虚しい。

 

食べても食べられても、殺しても殺されても、

たいして、違いませんから。

 

簡単な事実を知るための、脊椎動物の能力が、

もっと、遺伝的に純化されれば、時間や空間のように、

ほとんどの生物に、共通になるでしょう。

 

時間って、判断の順番ですが、

人間では、自我と言われるように、

後戻りが出来ません。

 

空間は、新聞配達の道筋や、エステティックのように、

判断の枝分かれを、整理しますが、

論理のようには、組み合わせの可能性を、扱えません。

 

自我のほうが、エステティックよりも、

生物の仕組みとして、古いのは、当たり前です。

 

人情や人格や人権や、善悪の価値などは、

性転換を望む人たちの、

判断の拠り所かも、知れませんが、

性別の自覚が、生まれつきの変更不能な、

脳の仕組みであると、主張するのは、

かなり、懸け離れた趣(おもむ)きです。

 

禅宗の庭のように、風流ですが、

性転換の行く末は、社会の底辺にしか、ありません。

 

苔(こけ)のように、美しく生きるのが、

好きなのかも知れませんが、

わたしは、そのように生きられなかった性転換者が、

失敗者に見えて、仕方ありません。

 

実際に経験しなくても、

たくさんの性転換者の、行く末を知れば、

性転換や性別を、超えられるような気がして、

なりません。