母のレゾンデートル
年末、ずっと料理を作っていた。煮物数種類、なます、ローストビーフ、数の子の下処理、なんだかんだ。
久しぶりに一番出汁を取り、二番出汁でうどんを作った。
出汁。なんておいしいんだろう。生協で買った花かつおと昆布でも、こんなにおいしい出汁が取れるんだから、鰹節と名産地の昆布だったらどんなことになるのやら。
それを毎度の食事でやっていたのが、14年前に他界した母だ。
そろそろ時効だ、結構面白い人生を歩んだ人なので、母についてときどき書いていきたい。
東北の商家に次女として生まれ、中学生ぐらいから出入りするお客さんの分まで、大勢の食事を作ってきた母。食べ物に関わる仕事をしたいと、猛反対する長兄を説き伏せ、東京の栄養学校に進んだ。栄養士の資格を取り、故郷の病院で働くこと3年、父と知りあって結婚後も仕事を続けていたが、転勤に伴って仙台に引っ越してから、ずっと専業主婦を通してきた。本当は栄養士の仕事を続けていたかっただろう、だが父は転勤が多く、東京に落ち着くまで数年単位で引っ越しを繰り返していたため、再就職の道はいったん絶たれた。ふたたび病院に職を得たのは、わたしが高校に入ってからだ。
いろいろ事情があり、子供はわたしだけ。今で言うなら「食育」ってやつだろうか、とにかくわたしの口に入るものはすべて自分で作ることをモットーにしていた。クッキー、プリン、ホットケーキ、ドーナツ。おせんべい類以外は手作りのおやつで育った。ふたりでこたつに入り、おやつを食べながら海外ドラマを観ていたことを思い出す。
ただ、自分の作る料理に絶大な自信を持っていたからだろうか、わたしが台所に立つと駄目出しがすごかった。褒められて伸びるタイプと自負するこちらとしては結構めげた。お米の研ぎ方からいちいちチェックが厳しい。小学校の家庭科で習った料理を家で再現しようとしても、後ろからあれこれ口出しされ、包丁を取り上げられ、結局母が全部作ってしまう。ええい! もうやらない! と、材料投げ出してこっちもキレる始末。
そんなことを繰り返すうちに、ふと思った。
台所は母の聖域なのだ、母に一任することが家族平和につながるのだ、と。
以後、わたしは台所に立つのをやめた。母の料理を「おいしい、おいしい」と言って食べ、母がうれしそうな顔をする、そんな日が30年近く続いた。
就職し、転職を繰り返し、フリーランスになるまで5年ほど、ある会社にお世話になった。残業が多く、実家まで帰るのに終電を逃すことが増えてきたため、わたしは会社から私鉄で数駅のところに部屋を借りた。はじめてのひとり暮らし。やっと自分の自由になる台所が手に入った。
するとどうだろう、帰省すると母のほうから「何か作って」と言うようになった。駄目出しどころか「さすが、わたしが育てた娘だ」と、何を出してもおいしそうに食べてくれた。
えーと、料理は教わってないと思うんですけどー、と突っ込むと、
「わたしの料理を食べて育ったんだから、味は再現できるはず」と笑う。
レゾンデートルだった料理を、台所をわたしに明け渡したそのころ、母はすでに重い病にあり、入退院を繰り返すようになっていた。