第34回文学フリマ東京購入本感想第一弾「Happyうなぎ倶楽部」(浜松オンライン読書会)
こんばんは、Monday Night Smokersの賤駄木です。
先日行われました第34回文学フリマ東京にて入手しました同人誌のレビュー(感想)、第一弾です。
今回は浜松オンライン読書会様が発行されました「Happyうなぎ倶楽部」の感想です。
静岡は浜松にちなんだ、6名の作者によるアンソロジー短編小説集です。
各作品に対して忌憚なく感想を綴らせていただきました。かなり失礼なことも書いたかもしれません。何卒ご容赦くださいませ。
それでは参りましょう。
尉ヶ峰奇譚 エビハラ
小説としての体裁をとりながら、その物語の中に小説を盛り込むという枠小説といわれる手法を用いた作品。一般的に小説という表現技法の多くはその物語の中で世界が完結するが、本作では作者であるエビハラ氏が小説内に「エビハラ」氏を登場させ、小説内の枠の外にあたる部分は大いに現実とリンクしている。「この物語はフィクションです」という文句が枠の中の小説に影響しているところを鑑みれば、枠の外にあたる物語に関してはどこまでが実話で、どこまでが創作なのかという話にもなるだろう。しかし、その点において、外側の物語の視点者を「エビハラ」氏と対面する「僕」にすることによって、枠の外・中問わずこの物語全体がフィクションであることを明言しているような構図になっている点は、比較的安心して読むことができる。枠の中のストーリーが本筋であろうが、枠の外にまでそのストーリーが影響を及ぼす構図を見るに、この小説全体が枠小説として構成されていることの意義・意味を十二分に発揮していると思われる。しいて言うのであれば、もう一工夫を加えることによって、この物語からさらに読者にまでストーリーの影響を及ぼすことができたなら、より一層のホラーテイストの小説としての価値が上がったように思える。
ヴァリアント・ガールズ・ポップ NUE
小説としてのジャンルはSFに近いものだろうと見て取った。女性同士の友情や愛情に近い感情を描いた作品かと思ったが、設定上の都合でそれは男女にもなり、人と獣にもなりうる作品であろう。とにかく、本作での設定・ストーリー上の肝としては二者間の関係性の機微だろうと読み取った。その一方で、比較的ハード気味のSF設定や描写上明言されないそれぞれの身体的変化・特性がどこかあいまいで、その点をより詳細に記し、情報を広く読者に提供すればより一層読みやすい作品になるだろうと私は考えた。物語の中で読み解くべき点、深読みするべき点が本作にあるとすれば、恐らくは最後の最後から二行目の一文だろうと思う。身体的に変化を伴う彼女(?)らにとってどちらが本来の自分なのか、という問題に対しての回答の一つがその一文にあるのだろうと思う。
水の音色に誘われて 喜多村雪景
青春もの、という表現が適切だろうか。実にエンタメらしい小説である。都内の人間からの地方都市、地方都市の人間からの東京という構図を、まだ世界の狭い女子高校生という立場の視点から描いた物語は、実に青春みがあってよくまとまっている。この手の話に関しては別離、もしくは心理的な合流を終盤にもっていくのが定番だと(私は勝手に)思っているが、ある種定石にのっとった物語構成になっており、読者として非常に読みやすく、受け取り安い物語に仕上がっている。中盤の劇的な展開も実に爽快。この物語において着目するべきであろうきっかけの一つとしては、最後の三行の存在だろう。それまで一人称で徹底して進んでいた物語に、最後の三行を加えることで果たして読者としてどのような印象の変化が現れるのか。もっと言うと、この三行は必要なのか必要でないのか、という問いにもつながっていくであろうと思う。
ある朝の出来事 繭子
恋愛小説というジャンル付けが適切だろうと思う。起承転結を踏まえ、しっかり着々と物語を進め、ストーリーに破綻なくラストシーンまでもっていく本作は、作者自身が語るように、初めてに近い小説創作という体験をした作者が生み出した作品として、(この言い方は語弊があるかもしれないが)無難な作品になっている。小説を多く読む人が初めて創作をするときに、下手に奇をてらってみるに堪えない作品が出来上がることもままある。それに対して本作は極めて忠実に物語というものの筋書をなぞり、丁寧に書かれているという印象を受ける。今後の作者の読書体験や創作体験を通じて作風も変化していくだろうが、本作のような素直なあり方、書き方をぜひ忘れないでいてほしいと願ってならない。
離婚して、浜松 月村灯
日記調に書かれている小説。この手法を用いたとき、肝となるのは記事を積み重ねるたびに変化する状況・心情であろうが、この作品は(突拍子もない事態や心境変化が起こらないという点において)極めて読みやすい構成になっている。日記を書くということは、一つ自分の内面を手(あるいはペンや紙)という媒体のフィルターを通して表現するということだと、私は考える。その点においてはこの作品は、主人公がそのフィルターを通したうえでの文字列としての日記である。そこを加味して考えると、最後の日付の日記記事はそのフィルターの機能が希薄になり、主人公の心情吐露がかなり鮮明に日記に記されている。この点は議論の余地があるだろう。作者があえてこの段落において主人公の見たまま感じたままの情景を日記という体裁で表現するに至ったのか。私としては、序盤の日記という体裁から「読み物」として導入し、次第に主人公に感情移入させていくという点において作者の狙い・妙があるのではないかと思う。
ぺですとりあん はままつ君
起こったことは一つの重大な親族の死というう出来事ではあるが、物語の構成としては会話劇である。父と息子の会話なのだが、作者自身が意識している通り、会話を中心に物語を回していくうえで、一つ一つの会話がいささか冗長になっているのは否めない。しかし物語全体として、「死」というきっかけで距離の離れた場所から帰省し、親と対話する、という構図はよくある話とはいえ物語全体を動かす出来事として極めて適切な設定だろう。
見返してみると、「何様の口ぶりだよ」と思ってしまいますね。なにも成していない人間が他者の作品にとやかくいうものではないのかもしれませんが、私としては、かなり素直な感想のつもりです。
さて、次回以降の活動ですが、6月26日(日)に、東京都文京区湯島駅最寄りのシーシャ屋さん「湯島ホロホロ」様にてボードゲーム会を行ないます。
どなたでもお気軽にご参加ください。ご連絡を事前にいただけましたら幸いです。
こちらのLINE公式アカウントはともだち申請いただいても、こちらからはどなたが登録されたのかわからない仕様です。ご安心してご登録ください。なお、メッセージをいただけましたらその時初めてどなたからのメッセージかがわかるシステムです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
それでは、また。
賤駄木