太宰が亡くなり、生まれた一週間
こんにちは。
まず初めに本日6/12~18日まで、ポラン堂古書店は棚卸し作業のための臨時休業となります。日々立ち寄ってくださる方々、行ってみたいと思ってくださっていた方々、どうか19日以降までお待ちくださればと思います。
そんなポラン堂古書店が一週間ぶりに開店する6/19、何の日だかご存知でしょうか。
「桜桃忌」。太宰治の命日を指す、夏の季語でございます。正確には、遺体が見つかった日、でして、ただ6/19は太宰治の誕生日でもありますから、太宰にまつわるイベントは19日に、となっているところが多いようですね。実際に入水した命日は明日、6/13です。
何もしんみりしたいわけではなく、太宰治作品を記事にするなら今だ、ということで、はりきって参りたいと思います。
”太宰治を味わえる短編3選”です。
「姥捨」
不貞を犯した妻が自殺をするというので、一緒に死のうかと持ち掛ける夫。身支度を整え、着物などもありったけ質屋に売り、最後の一日を贅沢に旅行しようする夫婦の話です。
太宰というと、読者はその死の影に惹かれたり、もしくは忌避したりするのではないかと思いますが、この「姥捨」というのはその影を語るよりもまず、あまりに人間らしい。
一線飛び越えてしまう、というのがまだこの二人にはまだ起こっていないのです。
質屋でこれだけ売れたと喜ぶ妻と、その妻を愛しく思う夫。活動写真を観ながら隣の妻の手を握る夫と、気にせず映画の内容に笑う妻。最後の飯に寿司を食べたいという妻、寿司は好きじゃないと言いながら妻に意見を通される夫。
……ずっと、ひたすら、夫は片思いなんですけども。
好きな場面としては電車の席で向かい合って、今回の顛末について、妻の不貞を乗り越えられない自分の弱さについて夫は窓の向こうを見ながら延々と語り、妻は途中から話を聞くのをやめて雑誌を読み始めている、のところです。夫の口調がどんどんやけくそのようになっていくのがいい。
そんな人間らしい二人。夫は妻が死ぬのを惜しく感じ「死ぬの、よさないか」と言ってみますが、妻は「ええどうぞ」と、「わたしひとりで死ぬつもりなんですから」と答えるわけです。
そんな二人の本当の顛末はぜひ本編にて、です。
「黄金風景」
子供の頃にいじめていた女中が、二十年経って会いにくるお話。お金持ちの一家であったはずの主人公は、家をおわれて落ちぶれ、小さな家で何とか生活しています。そんな彼に、女中の一家が家族で来るわけです。
展開はおおよそ、みなさんが想像できるものだと思います。
ただ、たった六頁の短編なんですけども、いいじゃないか太宰さんと思わせる良さがあります。個人的には、いつか「蜜柑」を読んで、いいじゃないか芥川さん、と思ったのと重なりました。全く物語性は異なるんですが、光が差し込む角度のようなものが似ていて。
ともかく短いので、そう内容を語ることはできません。
こうやって、いきったり、見栄をはったりして、後悔するというのは太宰文学にありがちなんじゃないかと思うんですが、それを単に愚かとしない。読みながら、項垂れながらも、ああそうか、まあわかるよ、と苦笑いしてしまうのがいいんですよね。
「風の便り」
小説家・木戸一郎は長年憧れてきた十五歳上の小説家・井原退蔵に自身が創作に行き詰ってしまったという長文の手紙と短編集を送り、それに返事が来、やり取りが続く書簡体の短編小説です。
まだ初対面も果たしていない、名前だけを知る間柄ながら、あんまりにも長文で内容も面倒くさいことこの上ない手紙送ったわけですから、井原からは最初、「短編集は、いずれゆっくり」と二行ほどの返事が届くのみになります。それで、また木戸は「出さなければよかった。取返しのつかぬ大恥をかいた」などという内容も含んだ半狂乱なのかというくらいの長文を、今度は返信不要と添えて送り付けるわけです。しかし井原氏は、短編集を読んだことで木戸の才能に興味を持ち、創作に対するアドバイスも含む、とても真摯に長い手紙を返します。どれも創作に関わる人には至言と思える名文ばかりです。
創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、「正確を期する事」であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をするがよい。風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ「芸術的」でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない。
しかし、この木戸という面倒臭い男は、感銘など受けぬわけです。
古いなあ、とさえ思いました。私の聞きたい事は、そんな、上品な方法論ではなかったのです。もっと火急の問題であります。この次の御手紙では、かならず、その問題に触れてお答え下さい。きっと、お願い致します。
という具合で返します。私は、なんだこいつ、と思います。
やがて、これに応じる井原さんの文章もなかなか言葉を選ばないものとなっていきます。
お互いのプライドを叩きおらんとするような文章の殴り合いとなるわけですが井原にも木戸の才能に期待する慈愛があり、木戸にも歪んだ尊敬や愛情があります。「あなたのお手紙のお言葉の内容に於いては、何一つ啓発せられるところがなかった」と言いながら、こんなに長い手紙をむきになって書くなんてあなたは退屈してらっしゃるのでは、純粋すぎるのでは、のようなことも書き連ね、結局は「私は、あなたを、ずいぶん深く愛しているようです」とすら書いています。
この後のやりとり、特に二人の初対面が描写される木戸の手紙、そして最後の井原の手紙まで、味わいどころのたくさんある素晴らしい名作です。
この二人のモデルが太宰と誰、というのは諸説あるようですが、モデルというよりは太宰の自問自答のようであるという解釈もあり、受け取り方も人それぞれというように感じます。
ということで、3選でしたが、少し種明かしのようなものを。
私が太宰作品って面白いなぁと思ったきっかけは、太宰治生誕110周年ということで実施された、NHKカルチャーセンターでの町田康さんの公演「太宰治を読む」でした(現場で聞いたのではなくラジオ音声です)。勿論、上記のような素人の作品紹介とは違い、太宰の思想性や作品の傾向、太宰本人が無自覚だったかもしれないところまで考察する奥深い内容でしたが、そこで紹介されたのが「姥捨」「乞食学生」「ろまん灯篭」、そして締めに朗読されたのが「風の便り」の井原の最後の手紙の一部でした。
講演で扱われた短編を読むにつれ、あまりに庶民的で生活的な文章やとっかかり、言い回しを面白がることができ、いずれ太宰治の話をするならそうした角度がいいなと思っていたのでした。
実は今回紹介した3選は新潮文庫の短編集『きりぎりす』に収録されています。1937年~1942年に発表された太宰治中期の作品集と言えます。戦時下でありながら、それほど衝撃的でも破滅的でもなく、ここのそれをそんな気にするんかい、と思えるようなところもあり、それでもふっと笑えるような人の弱さが、胸に沁みる短編集です。
ポラン堂古書店の近代文学関連が揃った棚に、『きりぎりす』を目立つよう置いてもらいました。短編集『走れメロス』や小畑健さんイラストの『人間失格』も揃っていますし、〈文豪猫〉シリーズのカプセルトイから「ニャザイ」にも来てもらいました。
皆様にお目にかかれるのは6/19以降となりますが、どうぞ見て、手に取ってくだされば幸いです。