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「宇田川源流」【日本万歳!】 「神社は呪うところではなく祈るところ」という訴えをする「神の国日本」

2022.06.12 22:00

「宇田川源流」【日本万歳!】 「神社は呪うところではなく祈るところ」という訴えをする「神の国日本」


 毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。毎週の事ではあるが、やはり今の世の中月褒美になるとあまりうれしい気がしない。今週もまた仕事の一週間が始まると思うと、なんとなく憂鬱になるものではないか。

 最近、電車の中や、ランチ時のレストランなどで、まだ初々しい顔をした青年を見るが、今までとは異なり、徐々に疲れが見えてきている。なんとなく、「生気」が失われてきているような感じがして、「こんなはずではなかった」とか「今まで夢見てきた社会人生活とは違った」というような感じが見えてくる。なんというか、私の時代にもそのような感覚の違いというのはたくさんあったと思うが、もう少し「タフ」な感じではなかったかと思う。最近ではなんでも「病気」にしたがる癖があるが、実際に「そんなに病気は多いのか」という疑問が残る部分がある。別に病気を否定しているのではなく「気の病」は「明るい話題」で治せばよいのではないかという気がしないでもないだけなのである。

 我々の時代は、何かたのしいことをしたり、飲みに行ったり、趣味をしたり、たまには羽目を外したりというような感じでなんとなく、「自分と折り合いをつけ」て、そのうえで、「現実という者を受け入れる」ようにしていた。そして「現実」を受け入れた中で様々に学生時代の思いから修正してゆくということになったのではなかったか。その「受け入れる現実」というのは、たぶん「社会」という現実と主に、「自分の実力」という現実も受け入れなければならないということになるのではないか。学生時代にどんなに成績が良くても社会人として活躍できるとは限らない、そのような価値観の違いまで受け入れなければならないのである。

 そのような辛い思いをし、その上で、社会の中で頑張らなければならない。「自分の世界」から「現実の世界」に戻される「月曜日」に、まさに「日本人が元気になる話題」が必要ではないかと思い、この連載を続けているのである。

 さて今回は、日本人の「精神社会」について考えてみたいと思う。

神社にプーチン氏わら人形か

 千葉県松戸市の複数の神社で5月中旬~下旬、ロシアのプーチン大統領の似顔絵のような物を貼り付けたわら人形が、ご神木や境内の木にクギで打ち付けられているのが見つかった。ウクライナ侵攻を続けるプーチン氏への非難の意味があるとみられるが、神社や地域住民は「ご神木を大切にしてほしい」「神社は人を呪う場所ではない」と困惑。松戸東署は建造物侵入などの疑いもあるとみて調べている。

 同署によると、わら人形を見つけたという届け出は5月中旬から相次ぎ、7日までに10カ所近くに上る。JR常磐線の馬橋駅から北小金駅間の国道6号沿いのエリアに集中しているという。わら人形の形状が似ていることから、同一人物が打ち込んだ可能性もある。

 新松戸駅に近い同市幸谷の赤城神社では5月24日、神社役員の男性がご神木である「スダジイ」にわら人形が打ち付けられているのを見つけた。人形の頭部にプーチン氏の似顔絵のような紙が貼り付けられ、頭と胸に1本ずつクギが刺さっていた。役員らで対応を協議し、警察に通報。その後、人形は塩と酒で清めてから焚(た)き上げて供養したという。

 ご神木は市の保護樹木にも指定されている地域のシンボルだ。神社役員の田嶋幸浩さん(60)は「戦争をやめてほしい気持ちは理解できるが、ご神木にこういうことをするのはやめて」と訴える。

 同じ日には、500メートルほど離れた三日月神社でも、境内のシイの木に人形が打ち付けられているのを参拝者の女性が発見した。神社の役員によると、同19日午後2時ごろ、肩掛けカバンから人形らしき物をのぞかせた男性の神社に入っていく様子が防犯カメラに映っていた。すぐに警察に通報し、わら人形は倉庫に保管している。

 氏子総代の渋谷信雄さん(81)は「神社は呪うところではなく祈るところ。神社に対して普通やらないことを平気でする人がいることが不安だ」と話した。【柴田智弘】

2022年06月07日 12時13分 毎日新聞

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12159-1676630/

 さてさて、今回はまずはそんなに褒められたことではない行為を紹介しなければならない。松戸市周辺の神社の中に、プーチンを呪ったと思われる藁人形が打ち付けられているという。

 神社役員の田嶋幸浩さん(60)は「戦争をやめてほしい気持ちは理解できるが、ご神木にこういうことをするのはやめて」と訴える。<上記より抜粋>

 まあ、藁人形を使って「相手を呪う」ということは、確かに時代書きなどで様々にあり、現在でも「魔術」「呪い」ということは様々に信じられている部分もあるので、何とも言いようがないところではある。そのうえで、やはりこのようなことは少なくとも地域の人々の精神的なことも含めてあまりやるべきではない。もしもやるのであれば、神社の宮司など、責任持って対応できる人の許可を得てやるべきではないかと思う。

 さて、このように言った後、日本人としての考えを見てゆこう。上記の人文では、「ヤメロ」というような話ばかりが書いているが、実際に、「自分たちでhなあ煮もできないけれども、現在の世界情勢の中で、それを悪く敷いている相手に対して何か一つできないか」ということから、このような行為をしたということも、その精神性に関しては理解できないではない。お賽銭を盗みに来るような人に比べて、どれほどよい心がけ化という気がしないでもない(もちろん、擁護も推奨もしていない)。その「自分ができること」が、何か違う方向に行ってしまったということに他ならないのではないかという気がしないでもないのである。

 ある意味で、日本人は「思い」ということを重要視する。高校野球などでも「応援が届いた」などということを普通に言うこともある。片方で良い思いは様々な意味で通じるということを考える中で、片方で呪いなど悪い方向の思いも通じるというように考えるのは、別段不思議ではない。そのような「思い」を「力」にするという考え方を持つのは日本の大きな特徴であり、なおかつそのような日本人の思いが神に通じるというような考え方をするのは「日本人が神様に近いという思想を持った証拠」ではないかと思う。ある意味で、単なる儀式の場ではなく、思いが力になるということが、しっかりと形になっているということが、なかなか良いのではないかという気がするのである。

 要するに、今回の件は、「思想」は悪くはないし、また「思いを伝える」ということの意味で、「思いを伝えれば力になる」というような、少なくとも唯物史観では全く考えもしないような状況の考え方があるということも、非常に良い。問題は「神社で」ということと「藁人形」という「場所と手段」がよくなかったということに他ならない、何かほかの方法で、それも自分で管理できる場所で行うべきではなかったかと思う。

 できれば、このような内容ではなく、「世界平和を祈念する祭」や「戦争を終わらせるための祈願」などを行い、多くの人の賛同を得られる状態で行うべきではないか。そのようにすれば、このようなことにはならなかったと思う。

 なお、このようなニュースが出されることによって、世界に、日本人の思いが伝わったということだけは確かなのかもしれない。