読書で拓ける未開の地、幻想短編(国内SF編)
こんにちは。
昨日の朝日新聞の阪神版にポラン堂古書店が紹介されました。正直思っていた以上に大きなスペースで紹介されていて、きっと多くの人に知ってもらえるに違いないと、より一層応援せねばと気を引き締めた次第でございます。
ポラン堂古書店は引き続き臨時休業中ですが、予定通り6/19からまた開店です。
本屋がなければ出会えない出会いが、この世の中には無数にあります。その無数のうちのひとかけらでもきっかけの一つになればと店主は営業しておりますし、私はさらにそのひとかけらのきっかけの片隅の一端でも担えればと、ブログやら何やらで応援していきたいところでございます。
と、いいつつも当ブログは応援することを名目に、わりと好き勝手に好きな本の話をしています。ときにはポラン堂古書店に取り揃えていないものの話も致しますが、どうか幅広い意味での「応援」と捉えて頂き、今後ともよろしくお願いします。
ということで、前からしたいと思っていた幻想SF短編の特集を。
まずSF短編集、ときくと皆さまはどういう印象を持たれるでしょうか。
難しそう……と思ってしまわれる方、そう間違ってはおられません。実際長編より難しいかもしれない。近未来的な世界があり、そこに行き交う人々の関係や成長が続くならわかりやすい。
しかし、短編集というだけあって、「近未来的な世界」一本で終わるわけでもなく、各編ごとに世界は違います。
短編集は一つ終わるごとに主人公も人間関係も変わるから没入しづらい、なんて話も聞きますが、SF短編集は毎話世界ごと新しく変わるのです。さらにそれが幻想小説であれば、この世界はこんな世界かと理解まで時間がかかる、いえもしかしたら、最後まで明確には摑めないかもしれません。
そんな大変な読書はしたくないという気持ちが過った方、ちょっとだけその結論をお待ちいただいて、どうかこの記事の間をお時間をくださいませ。
小説の底力を見せつけられる、素敵な幻想SF短編を2つ、を紹介致します。
飛浩隆「星窓」
短編集『自生の夢』に収録。
解説を担う伴名練さんにして「怪物」と言わしめた表題作はじめ、間違ってもSF読みでない方には薦めるでないぞとSFファンの方は仰るでしょうというくらい、高次元的世界観が綴られる短編集です。
ただ未開の地への期待が少しでもあれば、「星窓」だけでも一読をお薦めしたい。
さいきんぼくは少しへんだ。
という一文目から始まる、どこも専門的でなく、平易な文章です。
幼く思えますが、彼はこの後、高校最後の夏休みについて語り始めます。
バイトをして貯めた貯金で、夏休み一週間をつかった宇宙旅行に出かけるはずが、直前で、ツアーをキャンセルしてしまうのです。理由もうまく説明できるものではなく、旅行の工程表がある日唐突に無価値なものに見えてきて、「頭の中のねじが一本ぴーんとはじけとんだみたいに」心が動かなくなったと言います。
この冒頭に大きな意味があるかどうか捉えるのは読者次第という気がしますが、楽しみなイベントを前に急にどうでもよくなる気持ちは私にもわかるというか、ともかく、この冒頭ののち、時間も旅行用のたくさんお金も持て余したところから始まるという不思議な、脱力的なわくわく感は、この作品の、個人的に気に入る要素の一つです。
宇宙旅行、とあっさり書きましたが、主人公が住むのは地球ではありません。
主人公が住む「ミランダ」では二つの月があり、その月が生み出す力場によって星の間の移動が簡単で、安価なのですが、そこを移動する船の高次振動というやつから身を守るために「ミランダ」の空は「シールド」で蔽われています。そして<シールド症候群>というものによって、そこに住む人々は星を見ることができないのだそうです(もろもろ嚙み砕いたので細かいところが違うのは勘弁してください)。
そんなところに住む、夏休みの旅行プランをご破算にした主人公ですが、持て余した時間とお金を手に街に行き、偶然「星窓屋」に入ります。
「星窓」とは要するに星の見えない人々が星を見ることができる額縁で、それは絵でも写真でもなく、リアルタイムの宇宙が切り取られて収まっている「窓」です。「ミランダ」においては珍しいものではないようで、上等なものからしょぼいものまであるのですが、偶々お金がある主人公はその片隅にある星のない星窓に惹かれ、買って持って帰ることにします。
というのがあらすじです。
この後からは、あらすじとして話せる気がしません。
まずところどころに視点の不明な描写が挿入され始めます。何の予定もない、主人公の夏休みは続きます。姉に旅行キャンセルをからかわれながら二人で安酒を飲むのですが、グラスの中、部屋の中や外に白いろいねじを見つけるようになります。そして、姉が部屋から去るといつも、自分には姉なんていないことに気付くのです。
何が書かれた作品なのか、結局は読んでもらうしかありません。
”どこでもないどこか”が裏返しになったらどうなるのだろう。
普段意識しない場所においてある想像力が不意に動き、そこに文字どころか映像でもない、予感のような空間がある。作者の伝えたいものはその空間すら含んでいる、それがおそらく幻想小説ということなんでしょう。文学には幻想SF、幻想ミステリ、幻想ホラーなどと呼ばれる種類がたくさんありますが、もしその類いにまだ巡り合っていないという方は、読書における新たな大地と思っていただいて、足を踏み入れてほしい、と思います。
高山羽根子「巨きなものの還る場所」
短編集『うどん キツネつきの』に収録。
2020年に芥川賞と三島由紀夫賞を受賞する高山羽根子さんですが、その6年前に刊行された短編集です。タイトル、表紙のイラストなどから間の抜けた印象がありますし、実際最初の短編の冒頭、この本の一行目が「今、あのゴリラ啼かなかった?」なので、そういった感覚で手に取っていただきやすいSF作品集になります。
しかしこの本の最後、「巨きなものの還る場所」を読んでしまうと、間の抜けた、なんて言えたもんじゃなくなります。
とは言え「巨きなものの還る場所」は、普段SFを嗜まない方にも読みやすいと思います。
0~10迄の章があり、視点人物が変わるのですが、それぞれで読者の気を引くような要素はありつつも、特に変わったところはなく展開していきます。父親の写真からねぶた祭の「国引」に憧れ島根から来た青年、修学旅行を休んででも青森の近代美術館のシャガールの絵を見に行こうとする高校生の男女、ドイツで古物商からガラクタ同然の謎の機械部品を買い集める男性、昭和初期の青森の地で馬を世話する農家とその幼馴染、などそれらは各々で動く物語となります。
次第に彼ら彼女らが交わっていく、程度なら、まだよくある話だと思うんです。場所も時代も遠く隔たれているとは言え、それぞれが出会い、展開していく物語であったとすれば。
ただ、言ってしまえば、この作品の主人公は各章の彼らではない。読者は次第に、作品全体にある大流に気付くことができるようになっています。
八束水臣津野命は、出雲の国を完成させるため、他国の余った土地に綱を掛け「国来」と叫んで綱を引き寄せた。
上記はねぶた祭の「国引」についての説明の一端です。
ただし、この神が「巨きなもの」というわけでもありませんし、この物語がたとえ日本の神話を多く登場させていても、それをモチーフにしている、なんてふうには私には思えません。もっと言えば「巨きなもの」は神話すら吞み込んでいるのではないかと。
お察しの通り、答えは全て作中に開示されるわけではありません。けれど、物語が見えてきた瞬間というのは、他に類するものを見ないくらいの快感です。間違いなく幻想SFでありながら、構造上読みやすいところもおすすめでございます。
あともう一つ、解説の大野万紀氏が”明らかに東日本大震災を意識している”と仰っていることも、今作を伝えるには欠かせないことのように思います。
ということで、今回は以上です。
伝わるべきところが伝わっているか曖昧で、本音をいうと頼りない気持ちです。
ただ少し、このブログの構造上(最初の「先生と私」)から、メディアミックスや多くのジャンルを越えて広く伝わることにばかり、肯定的に言ってはいまいかと日々自省しておったわけで、逆に、小説でしかできないことを繰り広げている作品を紹介してみたかったというのが、今回のテーマを選んだ経緯でございます。
そして結果、あらすじも、どこがどう面白いのかなども、伝えるのもたいへん難しいという苦しみを味わっております。
しかし、後悔はしておりません。それも悪くないと開き直るしかありません。
言葉一つ二つで伝わらないから小説として表現されているんですもの。
ということで、結局読んでもらわなければ伝わりません。皆さん、ぜひ。