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Okinawa 沖縄 #2 Day 191 (14/06/22) 旧真和志村 (22) Daido & Mihara Hamlets 大道/三原集落

2022.06.16 03:51

旧真和志村 大道 (だいどう、ウフドー)、三原 (みはら) 集落



旧真和志村 大道 (だいどう、ウフドー)、三原 (みはら) 集落

昔は真和志村字安里に大道原、または大道毛と言う小字で、首里人がぽつぽつと集ってできた所だったが、大正9年に安里から分離した。1920年 (大正9年) に安里から分離したころは又吉道路 (安里大通り) に沿って30~40軒しか民家はなかった。大正に入って、首里と宗元寺間に電気軌道 (路線電車) が開通し、高等女学校、女子師範校 が建てられるに従い、人口は増加していった。戦後は、離島や大宜味村からの寄留者が多く、大道大通り沿いには1400世帯にまでふくれあがった。

大道大通り南側には栄町が1949年に新設された。戦前は女子師範や一高女、女子寮、安里小学校があったが、他には、桑畑があるだけで、民家はなかった。戦後米軍のチリ捨て場だったのを整地し市場ができ、商店街となっていき、そこに働く人たちの民家も増えていった。飲み屋、パチンコ店、 ゲームセンター、料亭、料理屋ができ、遊郭を兼ねている旅館も多く、栄町社交街として有名だった。

大道は人口が激増して旧真和志村で最も多い地域となり、1949年に三原が大道から分離した。そのときの三原の人口は300世帯だった。戦前の三原には農家が30軒しかなかった。1956年以降、畑だった所も、住宅が次々と建 てられ、上方の繁多川までふくれ上っていった。この地域には戦後国頭村から移って来た人が多く、次に大味村から、旧那覇からの寄留民が多い地域。三原が行政上に独立行政区となったのは1980年 (昭和55年)  

明治大正期は、まだ大道には民家はまばらだった。人口統計で大道の人口が判るのは沖縄戦直前で既に700人近くまで増えている。沖縄戦で人口は減るが、その後大道通り沿いに民家が増え、多くの寄留民が転入し、三原地区にも寄留民が増加し、1965年には約2万人まで増加し、旧真和志村では最も人口の多い地域となっている。それは今日訪れる真和志中学校が当時は日本一のマンモス中学校だったことからも分かる。これをピークとして人口は減少が始まり、1980年には大道から三原を分離している。その後も、大道、三原とも人口は減少が続き、現在でも減少傾向となっている。

大道の人口推移を見ると、特殊な地域だったことが判る。戦後の復興期を引っ張ってきた地域で、その役割を終えた後は、三原地域の方が主流となり、大道は人口の少ない地域に戻っている。

大道は他の集落の様に、門中中心に血縁一族が築い村ではなく、明治以降、首里士族がぽ土ぽつりと移り住んだ地域で、村としてのまとまりはなく、村祭祀はない。三原はもっと後にできた村で、大道と同様に村祭祀は存在しない。ただ、戦前からつづいている行事として十一月にヒーマーチがあるそうだ。これは沖縄各地で行われており、竈の神に火の用心、部落の安泰を祈願するのだが、本土での火の用心と叫びながら注意を呼び掛けるのと似ており、御願というよりは自治会活動に近いものだ。大道、三原は安里の一部だったので、琉球王統時代は安里ノロの管轄であるが、そもそも大道、三原に人はほとんど住んでおらず拝所もなかったので、現在ある拝所でノロガ祭祀を行っていたことはないだろう。


三原集落訪問ログ


安里集落訪問記の栄町市場から大道地区に入る。栄町市場は安里と大道の境界線にある。

大道自体が元々は安里だった。


軽便鉄道安里駅跡

栄町市場に面した330号線にゆいレール安里駅がある。この場所には戦前、軽便鉄道安里駅があった場所。当時の軽便鉄道駅の中で、全路線で那覇駅、与那原駅に次いで、3番目に乗降客が多かった駅。駅前には沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校があり、毎日女学生が通学に利用していた。


沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校跡

安里集落訪問記で触れたが、栄町市場があった場所には戦前は沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校があった。沖縄県立第一高等女学校は1900年に首里にあった沖縄師範学校内にて設立され、1907年にこの場所に移って来ている。1916年には沖縄県女子師範学校が首里から移って来て併置されている。1919年の地図では学校敷地は栄町市場からその南側安里駅付近まであった。沖縄戦で校舎は消滅して、戦後、この付近には闇市ができ戦後の復興が始まっている。その闇市が後に栄町市場として整備される事になる。また、復興に伴い、現在の沖銀駐車場、りうぼうあたりには1959年に真和志沖映館が建てられた。(後に沖縄劇場、栄町映琉館となる。)

この沖縄第一高等女学校の学生が沖縄戦で学徒隊として陸軍病院に駆り出されたひめゆり部隊だ。総勢240名が参加し、半数以上の戦死者を出しいる。


拝所

栄町りうぼうの駐車場の一画に祠が建っていた。何度もここは通ったのだが、全く気づかなかった。この拝所の情報は見当たらず、地元の人に聞く以外わからないだろう。資料ではこの辺りは戦後、商店や飲み屋が多く集まり復興が進んだ。その人達が戦後に水商売の神と、火の神の拝所を作ったと載っていた。場所の記載や写真は載っていないので、確信は無いが、ここは市場のすぐ側にある。商売繁盛を願った火の神を祀っていると思われる。


旧日本軍大道陸軍墓地跡、陸軍墓地慰霊塔、栄町無縁佛供養塔

沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校の跡地の外、東側は旧日本軍陸軍墓地があった場所。明治時代、古波蔵にあった熊本鎮台分遣隊の墓が国場村にあったのを、明治42年にこの地に移しされた。戦後、遺骨は本土に送られて、昭和26年に陸軍墓地慰霊塔を建てられている。同時に、引き取り手の無い無縁仏の供養のため、栄町無縁佛供養塔も建てられている。

慰霊塔と供養塔のすぐ前にも拝所があった。この拝所の情報も見つからず、栄町りうぼうの拝所と同じく住民が戦後に作った拝所だろう。社交街の近くにあるので、水商売の神を祀っていると思われる。


大道公民館、拝所

栄町市場の北側をはしる大道通りは、琉球琉球王国時代には那覇から首里城に向かう道だった。この道沿いに大道公民館がある。

訪れると公民館の脇にコンクリート作りの拝所が置かれている。この拝所の詳細については見当たらなかったが、明治以降に造られた集落には拝所は存在せず、様々な地域から移り住んだ住民の結束を高める為に自治会館や公民館に拝所を造っている地域が多くある。


大道松原 (ウフドーマツバラ)

大道通りを首里方面に進む。首里観音堂付近から大道地域にかけて道の両脇には見事な松並木が続き大道松原 (ウフドーマツバラ) と呼ばれていた。1501年に第二尚氏王統の第三代尚真王が、尚家宗廟の円覚寺を修理するための材木として、大道毛の丘に松の苗一万株を植えさせたことから始まり、万歳嶺 (現 観音堂)、官松嶺 (現 ノボテル付近) から大道地域にかけて松並木が広がった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、この松並木は切り倒され、1945年 (昭和20年) の沖縄戦後、道路の拡張整備や宅地化により周辺は大きく様変わりし、首里那覇屏風図 (写真左上) に描かれた松原の面影はなくなっている。



安里駅に戻り、大道、三原への道の栄町通りに出て道を進む。安里駅近くには多くの飲食店が立ち並んでいる。


沖縄女子師範学校附属大道小学校、彫刻公園

栄町通りを進むと大道小学校 (元 安里小学校) がある。その片隅に小さなブロンズ像が置かれていた。この小さな一画は彫刻公園と呼ばれている。この像は2002年に「女師・一高女ひめゆり同窓會」によって建てられたもので、「この辺りにあった女師 (沖縄県女子師範学校)、一高女 (沖縄第一高等女学校) があった文教の地だったが、沖縄戦で希望に胸を膨らませながら学校に通っていた女学生が戦争の犠牲になった。平和へのせつなる願いを込めて、彫刻公園を造った。」という趣旨の案内板が置かれていた。

この大道小学校は1934年に創設された沖縄県女子師範学校の付属校だった。女師の生徒が教育実習に通っており、将来教師を目指していたことを思うと、なんとも切ない。


真和志中学校

大道小学校の前には真和志中学校がある。この真和志中学校は1948年に戦前の女子師範校の敷地に建てられ、真和志村唯一の中学校で、那覇でもっとも歴史の古い中学校だ。米軍統治下にあった1960年代には生徒数3,192人 (63学級) の、沖縄一のマンモス中学校にまで膨れ上がっていた。当時の日本本土の中学校を含めても全国一、二を争うほどのマンモス中学校だった。校地が狭く運動場もなかった。1953年に安謝中学校、1955年に寄宮中学校、1962年に神原中学校、1962年に松島中学校、1965年に石田中学校が分離している。その後、大道の人口も減り、現在では市内では生徒数の少なめの中学校になっている。


安里村佐久間射的場跡

栄町通りを進み安里川を渡った所に長細い公園がある。この公園に沿った道が三原と松川の境界になる。今は一直線の公園になっているのだが、戦前は、陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊の射撃訓練場だった。1879年 (明治12年) に派遣された熊本鎮台沖縄分遣隊が、1890年 (明治23年) に、 安里村 (現大道・松川一帯) の畑地を取得し、長さ約650m、幅30mの練兵場と射的場を創設した。分遣隊派遣終了した 1896年後は、練兵場は学校用地 (現大道小学校) に、射的場は在郷軍人等の演習に使われていた。


大道練兵橋

練兵場射的場への道に架かる橋は大道練兵橋と呼ばれ、この地に練兵場があった名残となっている。戦時中、この大道練兵橋を渡った所には朝鮮慰安所があったようで、証言では、慰安所の前には日本兵の列ができていたと言う。


三原聖ペテロ聖パウロ教会

三原には特筆できる名所旧跡はないのだが、多分、最も知られているのが三原聖ペテロ聖パウロ教会だろう。三原を知らない人でもこの教会を言えばわかるそうだ。この教会は英国聖公会の沖縄地区本部で、沖縄にある12の教会を管轄している。現在の建物は2011年に改修されたもの。教会正面に吊るされている鐘は1917年製造のもので、1950年代に米国から持ち込まれたと推測されている。


三原公民館

教会の前の広場の隣には三原公民館が建っている。


三原の井戸の拝所

三原は非常に小さな規模で民家が明治時代からあった様だが、正式に行政区になったのは1980年で、昔からの門中血縁一族中心の集落ではなかったので、村としての拝所は見当たらず、唯一拝所として紹介されていたのがこの井戸跡。今は埋められてしまったが、今でも拝みに来る人がいる様だ。



これで、大道と三原巡りを終了。家に向かうのだが、今日は徒歩なので、自転車でも通れない道を通って帰ることにした。通りを外れると、この様な細い路地が迷路の様に何本も走っている。多くは袋小路になっているので、地図を見ながらの散策となった。この地域も戦後、まともな行政機関もなく都市計画が無いまま、住民が無秩序に住居が造られた地域だろう。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)