善立寺ホームページ 5分間法話 R➃ R4年.6.15日更新)
愚かなるもの
「己 愚かなりと思うは 彼 これによりて 賢きなり 愚かなるに 己 賢しこしと思うは 彼こそ まこと 愚かなると言わるべし」
註『法句経』より引用 お釈迦様が説かれた教えの中から弟子たちが暗唱した423の詩句からなる。
「賢者の信を聞きて 愚禿(ぐとく)が心を顕す 賢者の信は、内は賢にして外(ほか)は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外(ほか)は賢なり」
註『愚禿鈔』・ぐとくしょう から引用 親鸞聖人の著述。「愚禿」は、聖人が越後に配流されて以後、生涯をとおして名乗った名前。
2003年、東京大学名誉教授で脳の研究者である養老孟子さんが著した『バカの壁』が文字通りバカ売れして大ベストセラーズになりました。「バカの壁」は、同年の新語・流行語大賞にもなりました。
皆さんにお尋ねします。皆さんは日常、ご自身を「愚者・ぐしゃ、愚か者」と自覚してお過ごしでしょうか?。
人間は普段、程度の差はあれ、自分は賢いと思って暮らしていると私は思っています。いや、自分は賢いなんて思ってもいませんと否定謙遜されるお方の方が多数でしょう。たがしかし、相手に対して、自分の言い分が通らないこと、意に反したことなどがあると、訳の分からぬ人、聞く耳を持たない人、協調性のない人、自己中心的な人などなどと、しょっちゅう相手に腹を立てて暮らしているのではないでしょうか。
自分は、いつだつて、聞き分けのよい人であり、自分自己中的な生き方はしていなくて、正しく見聞きもし、判断して行動していると思っているのではないでしょうか。
そういうとき、相手と自分との間には厚くて高い壁がそり立っているのです。自分の内側には利口の壁があり、相手側にバカの壁を築きあげているのです。つまり、自分は賢者であって、決して愚者ではないのです。
人間は誰だつて、興味や関心があること、好きなことやものに対しては、心を開き、耳も眼も開けて対応しますが、逆に、知りたくないこと、聞きたくもないことなどに対しては心を閉ざし、耳も目も閉じてしまう。いやなことは、考えたくもないのです。このように情報を遮断したり、自分にとって都合のいいように受け止めて行こうとすることが、バカの壁であることに気付いていないのです。
バカになると、壁の内側だけが見えて、向こう側が見えなくなる。そうなると、人間的な成長の道も、真の尊い自分との出会いも閉ざされてしまう。自動車運転で譬えると、センターライン走行にも、路肩から落ちかけていることにも気づかずに走行していることになります。
自動車の性能は年々飛躍的進歩を続けています。センターラインをオーバしたり、路肩を外れて走行しそうになると警音が鳴ります。先行車に衝突しそうになると停止装置が働きます。
人間の人生走行は車のようにはいきませんネ。車には車検が義務付けられていますが、人間には車検のようなものはありません。どう対応していったらよいのでしょう。
親鸞聖人は自らを愚禿親鸞と称されました。「虚仮不実・こけふじつ のわが身にて 清浄の心もさらになし」いつわりに満ちた不実な私においては、清浄な心は全くありません」と、著書『正像末和讃 しょうぞうまつわさん』の中でも述べられています。このように、深く自己を見つめるお心を持たれたのは、阿弥陀如来の智慧の光に照らされて、わが身の真実を自覚されたからに外なりません。『法句経』や『愚禿鈔』のことばをじつくりと味わっていただき、いままで見えなかった世界が見えてくる、気づかなかった自分やものに気づかされるという人生走行につとめるがたいせつなのではないでしょうか。
次回は8月10日更新予定です。