会話
「僕」は時々、この海辺の家に来る。
あまり前のことは覚えていないのだけど、ここに住んでいる人のことは覚えている。
確か…、そう確か、僕の大切な人の友達。
僕はこの人に何度も何度も会っていて、色んなことを忘れてしまった今でも、時々会いに来るのだ。
もちろんこの人は、前の僕のことを覚えていない。
それでも客人としていつも僕を迎え入れてくれる。
「やぁ、君か。よく来たね。さあ入って」
低く柔らかい声でそう言うと彼は僕をリビングに通した。
「あの、ごめんなさい。いつも突然来てしまって」
僕がそう言うと彼は楽しそうに笑いながら僕の好きなレモネードを入れてくれた。
「不思議なんだけど、今日は予定が無いなとか、レモネード作ろうかなと思うとタイミングよく君が来るんだ。君、不思議な力でも使ってる?」
なんて冗談言いながら彼は微笑む。
不思議な力、か。
まあ、あながち、間違ってないんだけどね。
僕は彼の美味しいレモネードを飲み干した。
「それで?今日はどうしたの?」
彼の問いかけが、純粋に声として、音として、響きになって、僕の心を震わせた。
僕は彼にそう問いかけてもらえるだけで幸せな気持ちになる。
でも彼は軽く首を傾げて優しげに僕を見ているので、このまま何も言わずに帰るわけにもいかない。
「うまく言えないかもしれないけど、ただ話がしたくて来たんだ。本当は話さえしなくてもいいのかもしれない。僕はあなたが話しかけてくれるだけで嬉しくなるから。だから特に、何って訳じゃないんだ」
なんとなく照れ臭くなって僕は下を向いた。
彼はじっと僕の話を聞いたあと、「そっか」と、優しい声で言った。
「会話って、きっとそんなもんじゃないかな。何にもなくてもいいんだよ、ただ思うままに、好きなように、息をするように。
俺は今日も君とこうして過ごせて嬉しいよ。言葉があってもなくても、ここには会話がある。」
彼は言い終えると僕の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。ナ…」
言いかけて彼は黙る。
「君の名前、まだ思い出せないや。ごめん」
「いいんです。あなたのせいじゃない。あの、じゃあ今日はピアノ弾いてくれませんか?」
僕はなんでもないことのように言うとピアノを指差した。
「いいよ。じゃあ一緒に歌おうか。それじゃあ最初は…」
僕と彼はその後気がすむまで何曲も一緒に歌った。
覚えてないけどきっと子供の頃から聞いていたのだろう。
僕を思い出してくれなくていい。
ただ時々こうして一緒に過ごせたらと思っている。
…ワガママなのかもしれないけど。
僕はその日タクヤさんの家で夜まで楽しく過ごした。