日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 第二章 日の陰り 4
日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄
第二章 日の陰り 4
「平木さん、ごきげんよう」
京都のバー「右府」に、今田陽子と嵯峨朝彦が入ってきたのは、四谷の打ち合わせの二日後であった。
「調べは」
「はい、まあ、しかしかなり大がかりですな。ところで何にします」
平木は、そんなことを言ってにっこり笑った。
その時、扉が開き、一組の他の客が入ってきた。嵯峨と今田は席を立とうとしたが、しかし、開きがそれを目で制した。ここでいなくなっては、かえって怪しまれる。まだバーから客が帰るのは早い時間だ。もちろん、老紳士の嵯峨朝彦と、若いキャリア女性の今田陽子が二人で早い時間に出て行く場合はあるが、それは他の意味で怪しまれてしまうことになる。
嵯峨と今田はそのことを察知して、あえてそのまま席を立たずにいた。客は、その後もう一組入り、嵯峨と今田以外に二組の客が席に着いた。これで、嵯峨と今田は奥の部屋で打ち合わせを行うこともできなくなってしまったのである。
平木は、アルバイトの女性に他の二組の客の対応をさせながら、嵯峨と今田の前に立った。ちょうど注文を聞いているところであることと、またバーのようなお酒の席ではでは女性従業員に対応させた方が良いということから、開きがカウンターから動かないことに特に違和感はない。平木は、目の端で、その違和感がないと思われていることを確認しながら、嵯峨の方に向き直った。
「ああ、酒か。オールドパーで。」
「そちらのお嬢様は」
「お嬢様なんて歳じゃないけど」
今田は、優秀な女性にありがちな、なんでも少々自分に対する嫌味や妬みに取ってしまう癖があった。もちろn、平木はそんなつもりはない。
「ご機嫌を害しましたか。しかし、千年の都の京都では、鉄漿を付けていない女性はみなお嬢様なんですよ。得に嫌味などではないので、ご勘弁ください」
京都の人特有の、よゆうのある、それでいて反論を許さない物言いで、平木はゆっくりと話をした。
「そう、まあいいわ。ジントニックちょうだい」
「かしこまりました」
「今田君。しかし、京都で仕事をするならば平木君のような考え方と余裕は必要だ」
「はい」
嵯峨の一言は、確かに的を得ている。今田にしてみれば、そこまでのことを言ったつもりはないので、こんなことで時間を無駄に使うことの方が心外ではあるが、しかし、これ以上反論をすれば、その無駄の時間が長くなることも今田は良くわかっていた。
「お待たせしました」
平木は、オールドパーのショットとチェイサーそして、今田の前にはジントニックを置いた。嵯峨は、そのショットを持ち上げると、その下にあったコースターを素早くポケットの中にしまった。通常、バーのカウンターでショットグラスの下にコースターなどは置かない。そもそもコースターは、水がついてしまう飲み物の下に、水がつかないように置くものであり、常温のショットグラスの下においてもあまり意味がない。ましてやショットグラスに、通常のチェイサーグラス用のコースターと同じ大きさのものがあっては、バランスも見た目もわるい。
そもそも、嵯峨は「オールドパー」といしか言っていない。普通のバーであるならば、「飲み方は」と聞くのが普通だ。それは常連客であればなおさらのことであり、それを聞かずに慣れてしまっていることから、常連が常連ではなくなってしまうことも少なくないのである。
しかし、平木は嵯峨朝彦が何も言わないのにショットグラスを置いた。つまり、そこには「そのアンバランス」つまり「違和感」にメッセージが隠されているということに他ならない。嵯峨は素早くそれを察知して違和感の正体をそのままポケットにしまったのだ。日常ではないこと、その何気ないことの中に、実は答えが隠されている。そのことは、注意していなければ見過ごしてしまうことが少なくないのであり、そのことに注意を払うことで多くのことが理解できるようになる。東御堂信彦から、嵯峨朝彦への、そのことを言われたのは、昨日の事であった。
「ところで、今田さんは京都の歴史的町並み研究会にお出かけにられるとか」
「マスター。そうなんですよ」
右府の店内には、他の客も入っていた。平木は目くばせしながら、今田にわざとそのように言ったのである。今田もその辺は心得たものだ。
「歴史的町並み研究会では、中国の悠久の歴史と、日本の千年の都が融合した街並みとして、大きなイベントを計画しているとか」
「いや、まだそんなことは聞いていないのです。明日会議に出てみないと」
今田は、本当にそんなことは知らなかった。会議の事前の資料とメールは来ていたが、とても目を通す暇などはない。この日にホテルに帰って目を通さなければならないくらいである。
「そうですか、なんでもそこには天皇陛下と皇后陛下をお招きするだけでなく、中国からも多くの人をお呼びになって、ものすごく大きなイベントを行うと噂になっていますよ」
平木は、ことさら大きな声を出すことはなく、それでいながらバーの中で他の人にも怪しまれないような、絶妙なトーンの声でそんなことを言った。もちろん、他の客は、その噂を知っているのか、あまり驚いたような様子はない。
「天皇皇后両陛下をお招きするのに、京都は意外とのんびりしていますな」
嵯峨はそんなことを口にはさんだ。
「何をおっしゃっておられるやら。もともと京都は天皇陛下のお住いのある都ですから、お招きするという表現の方がおかしいのです。天皇皇后両陛下は、長い東京への御出張から京都のお住いのお戻りになられるだけですから、何も特別なことをしているのではございません。京都の人も、皆、陛下がお帰りになられると、そう思っているだけで、何も特別なことではありません」
京都の人が良く言うことである。
天皇は、明治天皇の「東遷」ということで、京都から都を遷したのではなく、単純に、ちょっと出かけて行ったということに過ぎない。天皇の本拠は京都であって東京ではないというのが、京都の人の主張なのである。嵯峨朝彦も、頭の中ではそういうことを主張しているということをよくわかっていても、いざ、このようなことになれば、なかなかその会話について行って、京都の人々の思考に頭をあわせることは難しい。
「では、陛下は京都では・・・・・」
「そりゃ、お住まいにお帰りになるのですから、京都の御所にお入りになられるのでしょう」
平木は、至極当たり前のことであるかのように言った。今田は、何か不思議になって他の客たちの様子を見ているが、聞こえているデアはあろうが全く違和感を感じないのか、関心がないのか、動きはあまりないのである。
「中国の偉い人はどうされるのでしょうか」
「それは中国はんが考えはるんでしょう」
平木は、自分の事ではないというように言った。もちろん京都には、国際会議場もあれば、それに対応するホテルも存在する。しかし、大都会である大阪もあるので、大坂に留まって京都に来るということも考えられるのである。そもそも、中国の偉い人というのは、国家主席なのか、首相なのか、あるいは大臣クラスなのか。そのことすらもわからない。
「そんなことではテロが起きないとも限りませんな」
嵯峨は、わざと本題に踏みきった。
「テロ。中国と天皇陛下を両方とも恨んでなさる人がいなければ、そうなりません」
平木は笑顔で言った。
その言葉の裏には、中国の偉い人がどこに留まり、またどれくらいのレベルの人が入り、そして、そのテロの規模がどれくらいなのかということを考えなければならないということが含まれていることを示唆していた。