【京橋②】新島原八重咲町
町名:新島原八重咲町
読み方:しんしまばらやえざきちょう Shin-Shimabara-Yaezakichō
区分:町丁
起立:1868年(明治元)年11月か
廃止:1871(明治4)年7月か
冠称:「新島原」
後身:新富町
現町名:中央区新富一丁目、銀座一丁目
概要:新島原について~江戸が「東京」と改まって間もない1868(慶應4)年8月、もと本田隠岐守・井伊掃部頭の屋敷地だった場所に新しい遊郭の開設が許可され、「新島原」と命名された。借地許可申出は新吉原遊郭の中万字屋弥兵衛、中屋宗四郎の2人。名称は言うまでもなく、京都の島原遊郭に因んだもの。新島原遊郭はこの年の11月に開かれる予定になっていた築地居留地の外人客を見込んで建設が進められた。しかし当の外人はラシャメン(洋妾)を好んだために客が付かず、また日本人客からも外人客の安全を顧慮するために大門際に設けられた番所において、門番から武器チェックされるという物々しい警備体制に煩わしさを感じて疎んじられ、常に閑散としていたらしい。そのような状態であったので、1871(明治4)年7月には早くも政府によって取り壊しを命じられ、遊郭は新吉原へ移転となった。敷地内に設置された9町(新島原青柳町だけは二丁目まであり、それを含めると10町)は新島原撤退時、「新富町」という名称に取って代わられた。
1868年(明治元)年11月か、上記にあるとおりの経緯で新島原遊郭が建設され、新島原八重咲町起立。遊郭撤退の1871(明治4)年7月か、新富町一丁目に編入となり消滅。
新島原八重咲町の位置は新島原遊郭の丁度南北中間地点に設けられた目抜き通りである仲ノ町通りより、北の一番西、現在の首都高速京橋入口近く。西側は1931(昭和6)年に木挽町一丁目に編入となる。
撮影場所:新島原八重咲町