俳句の大衆化
https://moon.ap.teacup.com/tajima/19.html 【「俳句の大衆化について(1)」 俳句の大衆化】より
今夜、父と俳句の話をした。いろいろな話をしたが、とくに「俳句の大衆化」という話になった。細かい話の内容は省くが、結論としては、「俳句の大衆化は必要だ。そして、条件さえそろえばそれは可能だ」という結果となった。
俳句の初学の頃、誰もが言う。
「僕は俳句を知らないひとが見ても面白いと思えるような俳句を作りたいんです。」
実は、考えてみると、これは俳壇にとって禁断の果実である。
そして、実は、この考えが実現すれば、それは俳句にとっては、大きな革命なのかも知れない。
実は、いままでそんな大それた、俳句の大衆性についても俳句の革命についても考えたことがなかったが、少し真剣(・・・といっても命を賭けるほどではない。ありえない)に考えてみたら面白いかも知れないと思っている。
なぜ、この考えが「禁断の果実」なのか、なぜ、この考えが「革命」なのか、なぜ、この考えが「俳句に必要」なのか、そして、なぜ、この考えがいままで実現されなかったのか。
この考えが整理され、もし万が一実現されれば、俳人は「俳人」ではなく、「俳句作家」となる。
https://moon.ap.teacup.com/tajima/20.html 【「俳句の大衆化について(2)」 俳句の大衆化】より
昨年末に、俳句の大衆化についてカキコミをしたら、さっそく天気さんが、そのブログで取り上げてくれた。
その中で「大衆化」という言葉について、いろいろ考察されている。
虚子のことなどにも触れられており、考えるキッカケを与えてくれる。
そんなわけで、歳が明けてもう一ヶ月ほども、この「大衆化」について考えている。
まだ、整然とした結論を得たわけでもないし、得られるとも思っていないが、まず、この「大衆化」という言葉について考えてみたい。
結論から言えば、ここで言う「大衆」とは、「同時代に生きる不特定多数の人々」と規定したい。
ところで、このとき「俳句をしない、純粋な読者」というものを想定し、問題視する向きもある。天気さんの指摘に『大衆から成る「俳句村」の中だけで俳句が消費されている』という表現があるが、現状の理解としてまったく正しい。
けれども、では大衆=「作句者数を大きく上回る読者」と言うことができるかどうか、と考えると、俳句の特性上、やや単純ではない(むしろ、単純なのかな?)と思うのだが、これは別の機会に書きたい。
さて、ここで規定した「大衆」は厳しい。「不特定多数の人々」を満足させることが難しいということもあるが、そもそも「大衆」というその正体を掴み難いものどもを相手にするということが難しい。作者が想像する以上に「大衆」というのはリアルである。
(そんなことを考えていたら、新調文庫の司馬遼太郎著「司馬遼太郎が考えたこと(1)」に「大衆と花とお稲荷さん」という文章があり、共感した。読んでない人は是非読んで欲しい。)
さて、それでは「俳句が大衆化」するとはどういうことか。
観念的なことを申せば、それは俳句の作者が「大衆」を意識し、「大衆」に向けて俳句を作ることである。これは意識の問題だから、非常に観念的ではある。が、そういうことである。
つまり、それを極端に、しかし具体的に申せば、俳句が「マーケット」にのることである。つまり「売れる俳句」である。
我々は、日頃から手元の限られたお金を軸に、物を選ぶ。そのときは、小説も映画も音楽も大根も乾電池もすべて同じ評価基準となる。つまり「金を払う」という行為の代償として、それに見合うだけの「何か」を与えてくれるかどうか、を常に問題にしている。
例えば、句集が書店で他のジャンルの本と並んで置かれており、それでも句集を買う人があるということ。これが「俳句の大衆化」である、と規定したい。
あくまでも規定であるから、他の考え方もあるかとは思うが、しかしこの考え方がいちばん解りやすいし、この具体的な規定に比べたら、他のおよそ観念的な「大衆化」などはふっとんでしまう、と言っても言いすぎではないだろう。
そもそも、俳句をする人は精神的な充足を求める。それは、いい。だが、それと引き換えに利益(つまり「金」)を得ることを極端に嫌う傾向がある。
それは、純粋でない、という。また、本物でない、という。
桂信子氏に言わせれば、「あっちの俳句」ということになってしまう。(この発言の意味が解らない方は、俳句結社「豆の木」で、先日行ったチャットを見てください。。。)
なんでこういう考えが浸透しているのか、についてもどこかで考察してみたいと思っている。
しかし、そうしたまさに「大衆」の感性の中で、俳句以外のさまざまなものとの比較にさらされていない作品(1句も、または句集や俳句雑誌なども)の持っているちからなどたかが知れている。
俳句は、「マーケット」にのることで、その質は、もっと底上げされるはずである。
少なくとも、現在、俳壇に出回っている句で、「マーケット」に出されて耐えられる作品がどれほどあるだろうか。
なお、「俳句の大衆化」を考えた場合、俳句そのものの質のみを問題にして、「わかりやすい俳句」を求める傾向がある。「おーいお茶」や「東京ヘップバーン」などの活動(つまり、桂信子氏の言う「あっちの俳句」)には、そうした傾向が見られると思う。そして、それは上手くいっていないと、私は見る。つまり「大衆化」に失敗していると思う。
これは、今後、少しずつ考えていくが、「大衆」に受け入れられるために、俳句を「わかりやすくする」、「面白くする」という方向を考えるのは、ちょっと考え方が違うのではないかと思う。
ちなみに、「面白い俳句」についても、今後、どこかで話題を展開したいと思う。
また、さらに俳句が「小説(や映画や音楽などの他のジャンル)よりも面白いものになることを目指す必要がある、という意見もあるとは思うが、そもそも、他のジャンルと面白さを比較されることが「マーケット」化へのスタート地点だとすれば、俳句はまだスタート地点にも立っていない、と私は見ている。
というわけで「俳句の大衆化」について考えることは「売れる俳句」について考えることである。天気さんがおっしゃるように、「大衆化」という言葉がふさわしいかどうかは、確かに一考の余地はあるような気もするが、そもそも言葉の定義を厳密に考えるのは苦手、というか面倒なところもあり、とりあえずは便宜上「大衆化」という言葉を使うことにしたい。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2008/01/blog-post_8326.html 【近代俳句の周縁 3 俳句の断片的データベースあるいは大衆化する俳句】より
~松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』(昭和6年)
橋本 直
以前、週刊俳句で「十二音技法」なるものが問題にされたことがあったと記憶する(*1)。無責任ながら、その顚末は把握しないで書いているけれど、仮にいろいろ問題を抱えるとしても、俳句の初学者にとって、十二音の「詩的」なフレーズと、季語を中心とする五音との組み合わせによって俳句をつくるというやり方、いわば、拘束的な変則の取り合わせ作句法とでもいうようなものは、たぶん有効でとっつきやすい作句の方法だろう。
例えば、学校で学生・生徒が俳句を詠む場合。これまで何度か授業や講義で教え、また、全国から寄せられた学生の俳句を審査する機会を得た中で見聞してきたのは、おそらく一般に想像されるよりもはるかに(というか恐るべき、というくらい)コンサバティブで、かつ、類型的な用語と発想の表現の数々である。若い人の自由な発想、というこれまた類型的な物言いは、俳句がのっかっている言語の領域においては、まるで無効であると思わざるをえない。
このことについての問題は教員の側にもあって、おそらく多くの学校では、国語の先生も俳句はよくわからないと思っているはずである。指導書に従って五七五定型と季語と切れ字くらいは教え、教科書所収の何句かを鑑賞し、作品詠ませ、たまに伊藤園の新俳句などに学校単位で応募するというところまでやったとしても、その学生や生徒の作品を何を以て良とするかの判断基準をもてている教員は少ないだろう。
学校によっては俳句をほとんど取り上げないところすらあるかもしれない。限られた条件の中で、学習者にできうる限り良い内容で俳句とは何かを理解してもらい、かつ、作品を鑑賞し、詠むこともするという中で行われる作句の指導の方法としては、冒頭の方法は、安直に見えるかも知れないが、やり方を絞り込む分、教えられる側だけでなく、教える側にも、俳句形式において日常の言葉を詩的に異化する面白さが見つけやすい、非常にわかりやすいやり方なのである。
もちろんそれは俳句のすべてではないし、俳句と言葉を弄ぶ行為につながる可能性をもち、やや大袈裟に言うなら、俳句の内部だけでなく、俳句の置かれた文化的状況の変容をまねく方法なのかもしれない。その正否を云々するのは、ナンセンスだと思うけれども。
やや前置きが長くなった。昭和の初頭、虚子が「花鳥諷詠」を言い始めてそんなに立っていない頃に、すでに俳句をフレーズの断片の組み合わせと認識し、その組み合わせで作句するための手引き書的な辞典が出ている。
松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』(昭和六年九月刊 立命館出版部)。
俳句を取り合わせでつくるという発想自体は、芭蕉も弟子に教えていたことで、近代に始まったことではないけれども、作家のオリジナリティにはうるさかったであろう近代において、他の俳人が生み出したフレーズを気軽に引用可能なものをつくってしまうこと自体、とても図々しくユニークな行為である。
この本、背表紙のみ「編」とあって、あとは扉やら奥付やら、すべて「著」者となっている松本氏は、いまのところ詳細未詳。冒頭の「凡例」の中で、「近代俳句にあらはれてゐる樞要缺くべからざる語句」を集めたものだと自負しており、記述に従えば、その数は二千三百語。例句は二千五百句で、山崎宗鑑から新傾向(今で言う自由律作家の句を含む)までを網羅している。
この「樞要缺くべからざる語句」は、別に「俳味極めて豊潤にして芸術的香気いや高き語句、及び、近代味豊かなる語句」とも書いてあり、要は人が詠んだ俳句の、気の利いたと著者が判断したと思われるフレーズを中心に、俳句で用いられた語をかき集めたものである。
したがって、歳時記の類と同じように「クリスマス」「厄落とし」などの語とその語義と例句が載っているかと思えば、「落莫な風景」(とんとこのごろ落莫な風景でステツキの散歩 風間直得)とか「やがてかなしき」(おもしろうてやがてかなしき鵜船かな 松尾芭蕉)のように、フレーズの恣意的抜き取りによる立項がなされている。
なかには分解した一句中の別々のフレーズを分けて載せ、その同じ例句をあげているものもある。これを批判的にみるなら、他人のふんどし(オリジナリティ)で相撲をとる、盗っ人猛々しい本というところか。好意的にいうなら、クリステヴァいうところのインターテクストとしての、俳句における表現の断片的データベース化の試み。
したがって、例えばこんな使い方ができる。あるページ(九四)を開くと、「ちゆしゆうや(仲秋や)」とあって、語義解説の後に例句「仲秋や院宣を待つ湖のほとり 高濱虚子」が載っている。同じページの他の語に、「除隊兵」とか「痴を尽くしけり」などがあって、そうすると、同じページの中の語だけでも、「仲秋や痴を尽くしける除隊兵」なんてそれっぽい合成作品をつくることができてしまう。これなら例えばご隠居のちょっとした寄り合いのような句会で、秒単位で作って自作として出すことができただろう。あるいは、あるフレーズをちょっとアレンジして、似て非なるものにすることもできただろう。また、ある俳人の詠んだ句のフレーズをこの辞書で引けば、先行する同じよう表現の用例がないかを確認する事もできただろう。
もちろん編者はそれらを、いや、それを目当てに本を買う者が数多くいることを狙っていただろうが、どの程度売れたかは不明である。図書館や古本屋であたってみた状況からみて、どうやらそんなに市中にでまわったものとは思えない。同時代の俳人達がこの本について何か反応したのかはわからないが、知ればまず眉をひそめたものだろう。
けれども、この本は、明確に俳句を詠む大衆のニーズを意識しているし、上記「十二音技法」にも通底するような、俳句のもつ特性を衝いてもいる。
ただ冒頭のうたい文句の通り、俳人の文学的な表現を集めようとしたものでありながら、そのオリジナリティを打ち消すような役目を果たす辞典でもあり、作句における個の快楽、いわば、「文学」としての俳句の快楽への志向がない。そしてそれは同時に、例えば今でもCMのコピーや流行歌が遊びですぐ替え歌にされていくように、地口・俗謡的な言葉遊びの欲求への志向を強く感じてしまうものでもある。
昭和一ケタの時代の俳句のすそ野あたりは、どのような世界であったろう。そのなかにこの本をぽんと置いてみると、なぜ昭和の頭にこの本が世に出たのかということは、案外奥が深いことなのかもしれないのである。