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30回目の津堅門下生発表会

2018.01.15 00:06

昨日は審査員をしてきました。


師匠である津堅直弘先生の門下生、東京音大と洗足学園の学生たちによるソロの発表会です。


発表会で何で審査?と思われるでしょうが、この発表会はコンクール形式なんです。

今回は9名の審査員によって100点満点で採点し、全員の演奏が終わったあと、1位から再開位まで全員の前で口頭で発表されます。

話だけ聞くとなんと恐ろしいイベントかと思われがちですが、これから実技試験を控えて、一度舞台を踏み、具体的に評価される機会があることは非常にメリットが多いのです。


もちろん僕も学生の4年間参加しましたし、僕が高校生のときには受験生部門という小規模な発表会があり、わけもわからずそれに参加した経験もあります。


それだけ歴史があるこの発表会、今回でなんと『30回』!!


平成元年から続いている、ということになります。すごい。


ここ数年はありがたいことに審査員として参加させていただいております。


今年は少し学生の数が少なくて、まあそれでも50人ほどいるのですが、朝から夕方までずっとトランペットの演奏を聴くわけです。集中力がいりますが、参加している学生のほうがよほど1曲にかける集中力を使っていると思うので、僕は審査用紙にギュウギュウにコメントを書くことにしています。

でも見てるのかなこれ。別にいいんだけど。


今回(に限ったことでもないのですが)学生の演奏を聴いて感じたことをおおまかに分けると、今の音大生の傾向が見えてくると思うので、いくつかピックアップしてみたいと思います。



からだの使い方が演奏と一致してしまう

特に音量変化で顕著なのですが、楽譜にf(フォルテ)と書いてあると、からだまでもがフォルテになっている人が多いです。

ボールを投げるときなどを思い浮かべるとわかりやすいですが、遠くに投げるとか、速い球を投げるからといって、全身の筋肉をバッキバキにしても結果は伴いません。

そしてなによりも、フォルテがイコール「強い力」と単純に考えてしまうと、p(ピアノ)イコール「弱い力」になってしまい、楽器をコントロールしにくくなっている人がとても多かったのが印象的でした。

よく話題になる「脱力」の勘違いですね。




楽譜通りの演奏/優等生的演奏

今回一番多かったのがこれです。


試験とかコンクールとかオーディションとか発表会とか審査というシチュエーションは、どうしても


「ミスしない」「キレイな音」「正しく演奏」


こんなキーワードに取り憑かれて演奏してしまいます。

しかし、音楽というのは、常に理路整然である必要などありません。

コンクールや審査以前に、音楽であり続けることが何よりも大切だと思っています。


要するに音楽は感情やメッセージを感じて伝える手段のひとつです(これを芸術と言います)。


自分の中にある感情を抑えて、礼儀正しくおとなしく、良い子で優等生である必要などないし、そもそも演奏する作品自体がそうではないので(作曲者や作品が、感情むき出しなのが多いのは当然。そのパワーがあるから演奏され続ける作品として残っている)、非常にアンバランスな表現になってしまうのです。


同じ表現するもので置き換えればとてもよくわかると思います。

例えば演劇。劇の中で大げんかするシーンがあったとして、全員が感情むき出しになって怒鳴り、叫び、泣きわめき、物が飛び交い怪我人が出るような台本があったとして、それを演じる役者が、


「わたくし、怒っていますの」
「それは私も同じでございます。憤っております」
(ていねいに花瓶と手に取り、そっと相手の足元へ置く)
「何をするのですか。そのようなことをしたら危険でございます」
「あなたがそのような立ち振る舞いをするから、わたくしは花瓶を投げたのでございますよ」


どうこの演劇。

僕には今回の演奏がこんな感じに見える瞬間が何度もありました。


感情表現もそうですが、楽譜に書いてある「通り」に演奏している人もとても多くて、拍の取り方やテンポの感じ方が、非常に機械的なんです。もちろんそうした意識は必要ではありますが、その前に理解しておきたいことがあります。それは


作曲者は楽譜を残したいのではなく、作品を伝えたいだけ


ということ。楽譜は作曲者がたくさんの人に自分の作品を知ってもらうための方法でしかなく、楽譜には作曲者の持っているすべてを書き込むことはできない、ということです。

それがいつしか楽譜を正しく演奏することが一番大切のような意識を持ってしまい、


「その楽譜から生まれる音楽」


のイメージがないまま演奏してしまうことが多くなった気がします。

演奏技術が高いのにもったいないな、と思います。


もっと自由に、荒れ狂うサウンドから、泣き崩れるような演奏までさくさんの表情を出してこその音楽だと思うのです。


そして最後、



伝えることが使命

演奏者は作品(作曲家)の持つメッセージと自分の思いを「聴いてくださる方」へ伝えることが使命です。

楽器の美しい音色を知ってもらうことも使命ですし、

作品のメッセージを伝達することも使命です。


しかし、それだけでは単なる「カタログ」であって「伝言屋」に成り下がってしまいます。


自分のメッセージ、思いを聴く人へ伝え、そしてその人たちの心が何かしらの力で揺さぶられることを目的、目標としていなければならないのです。



今回の発表会では、演奏者が「審査される側」という意識で「いかがでしょうか...?」という消極的な姿勢の人が大勢いたことが印象的でした。



辛口でストレートなコメントをたくさん書きましたし、この記事もそんな感じで書きましたが、基本的には本当に技術力が高く、そしてよく練習している(よく楽器を吹いている?)んだなあと思う演奏ばかりでした。

だからこそ、その力が上手に発揮できていないことがとてももったいなかったので、もっともっと感情むき出しで音楽をして欲しいな、と思った次第です。


ここに書ききれなかったことを「ラッパの吹き方」ブログでも近いうちに書こうと思います。


では、実技試験頑張ってくださいね。





荻原明(おぎわらあきら)