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薔薇と脳髄の向こう

弥勒忌憚2

2018.01.19 03:01

嗚呼。

やってしまった。

白い背中に、噛み痕と吸い痕が赤い花のように散っている。とてつもなく美しい絵画を見ているような気分になった。髪の隙間から覗くうなじが艶めかしい。

その背中を見下ろして、酷く心が満たされたような気がする。

夢にまで見た、弥勒と体を交えるという行為。その余韻は白い弥勒の肌に鮮やかに残っていたのだった。

もう、夜中か。

目にかかる前髪を軽くかきあげてベッドサイドの時計を見る。猫っ毛はあちこちに跳ねているが構わずに惣次郎は上半身を起こした。程よくついた筋肉が呼吸に合わせて上下する。肌寒いような気がした。

丑三つ時。

疲れ果てた弥勒はもうほぼ気絶して眠っている。枕に埋まっている寝顔すらも愛おしくて仕方がない。

弥勒の明日の訓練はどうだったっけ。

自分は体力があるから割と大丈夫なのだが、弥勒は体力がない。明日の訓練を考えると可哀想なことをしてしまったかもしれない、と罪悪感に駆られた。

穏やかに眠る弥勒の黒い艶やかな髪に口づけを落として、惣次郎も弥勒の横で眠りについた。

 

目が覚めると、布団の中には自分しかいなかった。隣はもう冷たくなっている。早々に起きだして逃げたのだろう。なんとなく予想できていたけれど。

寂しさは心のどこかで感じてはいたが、弥勒のことだから当たり前か、と思い直して起き上がった。

ぐちゃぐちゃになったシーツを剥がすと、洗濯籠の中へ押し込んだ。

惣次郎は、今日は非番だった。

昨日そのまま眠ってしまったので、お互いの汁やら唾液やらが体に残っている。弥勒のものは良いのだが、自分のものは洗い流したかった。

風呂に入りたい。

落ちていたシャツを着ると立ち上がる。時計の針は、昼の十時を指している。薄手のカーテンを開けると、容赦なく日の光が差し込んでくる。眩しさに目を細めた。

ゆっくり弥勒の帰りを待とう。適当に手拭いをつかむと風呂へ向かった。

軽い木でできている引き戸を開けると湯気が押し寄せてきた。惣次郎を挟んで冷気と熱気がぶつかり合う。中に入ってすぐに扉を閉めると、熱気だけになった。

脱衣所のなんだか妙に湿った空気を肌で感じながら適当に羽織ったシャツを脱ぐ。一つボタンが掛け違えていた。

この時間の大浴場は空いている。まあそうだろう。朝風呂なんて洒落た文化が陰陽寮の中にあるとは思えなかった。

いつもは男たちで一杯だけれど今日は誰もいない。気持ちがよかった。体に湯をかけながら、広い風呂は良いな、と思った。

湯船も、汚くない。たいていは訓練後の隊士たちで湯船が汚れている。惣次郎はいつも浸からずに出ていたけれど、今日はのんびり浸かれそうだと思った。

弥勒は大浴場に来るのを嫌がる。細いし、変に潔癖だし、女みたいだとかでからかわれるのが厭なのだろう。惣次郎はそれが十分安心できる要素だった。弥勒の裸なんて、誰にも見せたくない。遊郭の女郎にすら嫉妬する。男風呂に入って他の奴らが弥勒に触ろうものなら、どうなるかわからない。

少し前はちゃんと抑制できていたというのに、この頃は駄目だ。

自分のものに出来そうだからとか、一度体を交えてしまったからだとか、わけのわからない根拠で自分を納得させてこの胸のもやもやを解決しようとしている。

良くないなあ。

深く息を吐いて湯船から上がった。

 

弥勒は、大丈夫だろうか。

結構無茶をしてしまったから。

いや、無茶をさせたのは自分だけれども。

ぐるぐると考えながら廊下を歩く。誰もいない廊下に木の板がぎしぎしともう壊れてしまいそうな音がこだます。

「よう、惣次郎。」

「…こんにちは。」

同じ隊の、一つ上の上官が前から歩いてきた。廊下の端によって、敬礼する。

首から手拭いを下げて、白いシャツにズボン姿の惣次郎を見て上官は微笑んだ。

「珍しいな、この時間に風呂なんて。」

「…昨日夜、寝落ちてしまって…」

「規則正しい君が珍しいな。体調には気をつけろよ。」

「はい。」

「嗚呼そう。なんだか弥勒の元気がないんだが、昨日はよく寝てたか?」

びくり、とした。弥勒が何か言ったのかと思ったが、プライドの高い弥勒が、昨晩のことを言いふらすとは考えにくい。風邪ひいたことすら言いたがらないのだから。

「さあ…あまり意識はしなかったです。」

あいまいに答えると、上官はふうん、と言った。

相変わらず何を考えているかわからないな、とこの異国の血が入った部下を見て思った。真面目で優秀。体術も隊の中で強い。少しだけ愛想がないけれど、それを払拭するような見た目と、頭脳を持っているのにもかかわらず、人とあまり一緒にいたがらない。

不必要な関わりを絶っているようにも見える。でも冷たいわけではない。興味のない顔をしていつも居るのだ。まだ若いのに、妙に達観している青年だと上官は思っていた。

「あの、洗濯があるので、俺はこれで。」

黙り込んでしまった上官になんと声をかけていいか迷ったものの、弥勒以外の人間と二人で喋るのは好きではない。ましてや、このあと一緒に昼食でも、なんて言われてしまったら地獄だ。そう思った惣次郎は逃げるようにして敬礼をするとその場を去った。

こんな時、弥勒に良く「お前は本当愛想ねえよな、世間話ぐらいしとけよ。」と言われたのを思い出す。世間話と言っても、何も話すことはないし、どうでもいい話をするくらいだったら一人の時間とか、弥勒と一緒にいる時間を長く取りたい。

そんなことを思っているといつの間にかもう自室の前に来ていた。

 

軽く部屋の掃除をして、洗濯を済ませた。汚してしまった弥勒のシーツも綺麗に洗ったので、許してくれるだろう。床に落ちっぱなしだった軍服や弥勒のシャツも整えておいた。

もうそろそろ帰ってくるかな。

どんな顔をして会えばいいかわからなかった。でも、普通にしていれば大丈夫だと何故か妙に安心している自分がいた。

部屋の中が薄暗くなってきたので、ランプを点ける。ガスの匂いが少しだけ鼻につく。

弥勒が来るまでの間、本でも読もう。

本棚からラテン語で書かれた本を手に取るとランプの傍で読み始めた。何かに没頭して時間が経つのを早めようとしたのだ。

昔から好きだった読書は今も変わらないみたいで、みるみるうちに本の中へ没入していった。

本を捲る音と時計の秒針だけがコンクリートの壁にこだます。惣次郎の長いまつげが揺れると時計のほうへと目線をやった。

九時。

もうとっくに終わっているはずだ。可笑しいな。

やっぱり、昨日のこと怒って帰ってこなくなったのかもしれない。連れ戻しに行ったほうがいいかもしれない、と思った。

目に光がなくなった惣次郎が立ち上がると同時に部屋のドアが開いた。

弥勒か。

猛った気分は一瞬にしてしぼまされた。

「おーう、惣次郎!弥勒からの伝言、あいつ今日から暫く遊郭で夜は過ごすってさ。もてるよな~」

お調子者の同僚が何かを言っているがもう頭には入ってこない。ずっとぺらぺらと喋っている。さっさとどこかに行ってほしかった。

なんだかやり場のない怒りが沸いてきて、本の項を握りつぶした。