偉人『エドウアール・マネ』
フランスの印象派の父と呼ばれる画家であるエドウアール・マネは私の中では黒の光沢のある絵の具を使用した印象派とは一線を隠した作風の画家である。彼の作品の中で何が好きかと問われれば、間違いなく圧倒的に黒を多用し描いた義理の妹ベルト・モリゾの肖像画である。印象派の明るい陽光をイメージした配色から想像し難い黒を基調とした画家が、なぜ印象派の父と呼ばれているのかを彼の恵まれた育ちから考えてみる。
この厳つい風貌と鋭い眼光からは想像し難いのであるが、ブルジョア階級の裕福な家柄で、父は司法省の裁判官であったオーギュスト・マネ、母は外交官の娘であったウジェニ=デジレ・フルニエの長男として誕生した。写真は彼の生家である。
その後12歳で名門家の子息が通うコレージュ・ロランへ入学するも学業は芳しくなく、叔父の砲兵官士エドウアール・フルニエ大佐に連れられルーブルに通ううちに美術にのめり込んでいく。
しかし両親は彼が司法の道へと進むことを望んだのであるがことごとく失敗し、海兵試験にも落ちたため父を説得し絵画の道へと進むことを渋々了解してもらったのである。
その後父の理解を得るためにサロンでの入選を願い出展するも願いは果たされず、さらに酷評を受け苦しい画家時代を送ることになる。しかしモネやルノワールのような貧しい画家時代ではなく、ブルジョワ階級で父の援助を受けながら画家生活を送り、父の死後はその遺産で同じ画家を援助しながら人生を送ったのである。両親の肖像画も黒を基調に描いている。
今でこそ彼を語るときに外せない以下の作品を発表したときには酷評された。裸婦のモデルが実際の娼婦であったこと、遠近感などの画力不足、歴史画の巨大なサイズで人物を描き上げてしまったこれまでの常識を覆したことが批判の的になったのである。絵画は崇高なるものを描くという概念が常識であった美術界において、彼はパリの底辺で生きる娼婦の裏の世界を描いてしまったのである。彼が印象派の父と呼ばれるのはこれまでの常識を破ったからであろう。
マネは時代を少しだけ先取りした改革者であったのである。
しかし彼はその酷評にも動じず描き続けていくのであるが、その折れない心はどこから来るかを考えてみよう。
彼はもともと精神が強いわけではなく、酷評が続き打ちひしがれたときにドイツ・イタリア・オランダと巨匠たちが描いた作品から答えを見出そうと旅に出たのである。そこで彼なりの答えを見つけて挑んだのがこの作品である。保守的なフランス美術会を納得させたのは当時一世を風靡していたスペイン的要素を盛り込んだ『スペインの歌手』という作品である。この優秀賞を皮切りに自分自身の道を歩み出していく。
彼の言葉の中に『真実とは他人の意見に惑わされることなく、己の道を進むことだ』がある。彼が印象派の画家とは大きく異なるのが経済的に恵まれていたことである。だからこそ売れる絵を描かずに自分自身の作風を追求できた。同じ時代を生きたモネは金銭面で苦労し作風の酷評を受けながらもパトロンを見つけて道を極め、ルノワールもまた同じように酷評を受けながらもブルジョワ階級の子女の肖像画を描き生計を立て、ドガに至ってはブルジョワ階級でありながら家業の銀行倒産を受けコレクションを売り払い生計を立てていた。しかしマネは父の莫大な遺産で金銭的に苦労することなく画家として自分自身の作風を全うできたことが彼らと決定的に違うことである。
その金銭的に不自由のない生活がパリの表と裏を見る行動に繋がり、晩年梅毒を患い50歳で筆を折り51歳という若さで亡くなった一因であると思うと、その恵まれた環境が良かったか否か判断は難しい所である。彼の遺作となった『フォリー・ベルジェールのバー』では自分自身が拘った黒に新しい息吹となる印象派の色彩と構図、筆致を盛り込んだ作品となっている。
自分自身の持ち味を活かし革新的な絵画の追求を成し得たマネの作品は、まだまだ完成の域に達していなかったのではないだろうか。恵まれた環境というものは革新的なものの歩み出し、また足枷にもなったのではないかとさえ彼の作品を見て感じるのである。もし彼が他の画家と同じように無から何かを生み出す力を発揮せざる得ない環境に生まれていたら、志半ばで命を落とすこともなく更に劇的変化を生み出す芸術が誕生していたのではないかとと考える。
やはり子供には親が残す莫大な遺産ではなくほどほどなもので、自分自身で生き抜く力を獲得する教育を与えるべきだと考える。日本では3代で財産を食い潰すという相続性や所得税の仕組みがあるのだから、やはり逞しく生きる力の元となる教育というものを重要視すべきではないかと思うのである。
彼の作品の中で私が唯一完成度が高いと思っているのが黒服を纏うマネの弟の妻ベルト・モリゾである。彼女については2022年4月29日『ベルト・モリゾ』を読んでみてほしい。