第10回世界家庭大会 ミサ説教(2022年6月25日:年間第13主日前晩)
[試訳。小見出しは訳者のもの]
(第一朗読)列王記上19・16 b、19-21
(第二朗読)ガラテヤ5・1、13-18
(福音)ルカ9・51-62
*大いなる「奉献(offertorio)」として
第10回世界家庭大会の中で、今、「感謝」の時を迎えています。感謝をもって、今日、神のみ前に――大いなる奉献として――聖霊があなた方の中に蒔いたすべてのものを運びましょう。
あなた方の中には、ここバチカンで、考察と分かち合いのときに参加した人も、またそれぞれの教区で、ある種の広大な星座の中で、それを盛り上げ、経験した人もいるでしょう。経験、決意、夢の豊かさを想像します。同時に、心配や不安も尽きないでしょう。
今、私たちはすべてを主に差し出し、ご自分の力と愛をもって支えてくださるよう、主に願いましょう。
あなた方は、父親、母親、祖父母、伯父叔母です。大人、子供、若者、高齢者です。それぞれが家庭について異なる経験を持っています。けれど全員が、祈りとなった同じ希望を持っています。神があなた方の家庭と、世界中のすべての家庭を祝福し守ってくださるようにと。
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*最も大きな自由は、内的自由
聖パウロは、第二朗読の中で、私たちに「自由」について語っています。自由は、近代、現代の人間が最も重視し、探し求めている善の一つです。
すべての人が自由でありたいと願っています。条件に縛られず、制限されないこと、ゆえに、あらゆる種類の「牢獄」――文化的、社会的、経済的――から解放されることを熱望しています。
しかし、多くの人が、最大の自由を欠いています。それは「内的自由」です。最も大きな自由は、内的自由です。
*自由は何よりも先ず「賜物」である:キリストが私たちを自由にしてくださった
使徒パウロは、私たちキリスト者にとって、自由は、何よりもまず賜物であることを思い起こしています。「キリストは、わたしたちが自由であるようにと、わたしたちを自由にしてくださったのです」(ガラテヤ5・1)と叫んだときに。
自由は私たちに賜物として与えられました。私たちは皆、内的、外的に、さまざまな条件をもって生まれてきました。特に、利己主義の傾向――つまり、自分を中心に置き、自分が好きなことをするという傾向――をもって。けれど、キリストは、この奴隷状態から私たちを解放してくださったのです。
誤解を避けるために、パウロは私たちに警告しています。神から私たちに与えられた自由は、この世の偽りの自由、空しい自由ではない、と。実際そのような自由は、「肉のための機会(口実)」(ガラテヤ5・13)です。
違います。キリストがご自分の血の代価として私たちに獲得してくださった自由は、すべて愛に向けられています。使徒パウロが今日、言っているように、「愛をもって互いに仕え合う」(同)ために。
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*家庭は、愛することを学ぶ最初の場
夫婦の皆さんは、あなた方の家庭を形づくりながら、キリストの恵みにより、この勇気ある選択をしました。自由を、自分自身のために使うのではなく、神があなた方の傍らに置かれた人々を愛するために使うこと。
あなた方は、「島」として生きるのではなく、「互いに仕え合う」ことに身を置いたのです。このようにして、家庭の中で自由を生きるのです!
それぞれが自分の軌道で移動している「惑星」や「衛星」は存在しません。家庭は、出会い、分かち合いの場、自分自身から出て相手を迎え入れ、相手に寄り添う場です。それは、愛することを学ぶ最初の場です。これを決して忘れないでください。家庭は、愛することを学ぶ最初の場です。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは大いなる確信をもってこのことを主張しますが、現実には、さまざまな理由や異なる状況によって、必ずしもそうではないことを知っています。ですから私たちは家庭の美しさを明言すると同時に、これまで以上に家庭を守らなければならないと感じています。
家庭が、利己主義、個人主義、無関心の文化、使い捨ての文化といった毒に汚染され、このようにして、受容(受け入れること)と奉仕の精神という家庭の「DNA」を失うことがないようにしましょう。家庭の特徴は、受容、家庭の中での奉仕の精神です。
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*世代間の関係:「証しの通過」
第一朗読で示された、預言者エリヤとエリシャの関係は、私たちに世代間の関係、親と子の間の「引き継ぎ(証しの通過)」を考えさせます。
今日の世界において、この関係は簡単ではなく、しばしば心配の原因となります。すべてが混沌とし、不安定に見えるこの社会の複雑さと混乱の中で、親は、子どもたちが自分の方向を見つけられず、最後には道を失ってしまうのではないかと恐れています。この恐れは、親たちを心配性にしたり、過保護にしたりします。時には、新しい命を誕生させようという望みを阻んでしまうことさえあります。
エリヤとエリシャの関係を考えて見ることは、私たちにとって役に立つでしょう。エリヤは、危機感と将来への恐れのときに、神から、後継者としてエリシャに油を注ぐよう命じられます。
神はエリヤに、世界が自分で終わるのではないことを理解させ、彼の使命を他の者に引き継ぐよう命じます。これが、テキストの中で描写されている仕草(行為)の意味です。エリヤは自分のマントをエリシャに投げかけ、その時から、弟子は先生の後を継いで、イスラエルにおいて預言的務めを続けるのです。
*神は、心配性でも過保護でもない
神はこのようにして、若いエリシャに信頼していることを示します。年老いたエリヤは、役割、預言的召命をエリシャに渡します。この仕草の中には希望があります。希望とともに、務めを明け渡す(バトンタッチする)のです。
親にとって、神の行い方を観想する(見つめる)ことは、どんなに大切でしょうか。神は若者たちを愛していますが、だからといって、あらゆる危険(リスク)、あらゆるチャレンジ、あらゆる苦しみから彼らを保護(予防)しようとはしません。神は心配性でも過保護でもありません。
このことをよく考えてください。神は心配性でも過保護でもありません。それどころか、彼らを信頼し、一人ひとりを命と使命に応じて招きます。
少年サムエル、青年ダビデ、若いエレミヤを考えてみましょう。特に、イエスを宿した16か17歳の少女、おとめマリアを考えてみましょう。神は少女に信頼したのです。
親である愛する皆さん、神のみ言葉は私たちに道を示しています。子供たちを、あらゆる不便さや苦しみから保護するのではなく、彼らに人生に対する情熱を伝え、彼らの中に、自分の召命を見出し、神が彼らのために計画した偉大な使命を抱きしめる願望の火を付けることです。
この発見こそが、エリシャを勇気づけ、決心させ、大人にするのです。両親との別れと牛を犠牲(いけにえ)として捧げることは、まさにエリシャが、今度は「自分の番」であり、神の呼びかけを受け入れ、自分の先生が行なうのを見たことを引き継ぐ時が来たことを理解したしるしです。そしてそれを、人生の最後まで勇気をもって行うのです。
愛する皆さん、もし、子供たちが自分の召命を見出し、それを受け入れるよう助けるなら、あなた方は、彼らがこの使命に「捕らえられ(afferrati)」、人生の困難に立ち向かい、それを克服する力をもつのを見るでしょう。
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*イエスは、エルサレムに向かうことを「断固として決心」する
また、教育する者にとって、相手が自分の召命に従うのを助ける最上の方法は、自分の召命を忠実な愛をもって受け入れる(抱きしめる)ことであることを付け加えたいと思います。
これが、弟子たちが見た、イエスが行ったことです。今日の福音は私たちに、象徴的なときを示しています。イエスは「エルサレムに向かって旅立とうと決心」されます(ルカ9・51)。エルサレムで断罪され殺されることを知りながら。
そしてエルサレムに向かう途中、イエスは、サマリアの人々から拒否されます。その拒否は、ヤコブとヨハネの怒りに満ちた反応を引き起こします。けれど、イエスはそれを受け入れます。なぜならそれは、ご自分の召命の一部だからです。最初、ナザレで拒否され――あの日、ナザレの会堂でのことを思い起こしましょう(マタイ13・53-58)――、今、サマリアで、そして最後に、エルサレムで拒否されるでしょう。
イエスはこのことすべてを受け入れます。なぜなら、ご自分の上に私たちの罪を背負うために来られたからです。同じように、子どもたちにとって、自分たちの両親が、結婚や家庭を使命として生きていること、困難や、悲しい出来事、試練があっても、忠実と忍耐をもって生きている姿を見る以上に、励みになることはないでしょう。
して、サマリアでイエスに起こったことは、家庭の召命を含む、あらゆるキリスト者の召命の中で起こることです。
私たちはみな、このことを知っています。人間の心から生じる抵抗、閉鎖、誤解を自ら引き受け、キリストの恵みによって、それらを、無償の愛のうちに、他者を受け入れることに変える(変容する)必要があるときが来ることを。
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*イエスに従うとは、イエスとともにつねに「旅の中に」いるということ
そして、エルサレムに向かう道で、ある意味で「イエスの召命」を描いたこのエピソードのすぐ後で、福音は私たちに他の三つの呼びかけ、イエスの弟子となることを熱望する三つの召命を示します。
最初の人は、「先生」に従うことで、安定した住まい、安全な定住を求めないよう招かれます。実際イエスは、「枕するところもない」(ルカ9・58)のです。
イエスに従うということは、自分自身を動きの中に置くということ、つねに動きの中にいるということ、日々の出来事を通してイエスとともに「旅の中に」いるということです。結婚生活をしているあなた方にとって、これは何と真実なのでしょう!
あなた方もまた、結婚と家庭への召命を受け入れながら、あなた方の「巣(故郷:nido)」を離れ、旅を始めました。この旅のすべての段階を、前もって知ることは出来ませんでした。この旅はあなた方を、つねに新しい状況、予期しない出来事―驚きや、時に痛みを伴う出来事―とともに、動きの中に置きます。
主とともに歩むということはそのようなものです。ダイナミックで、予想不可能で、いつも素晴らしい発見があります。覚えていましょう。イエスのあらゆる弟子の休息は、まさに、日々神のみ心を行うことにあります。それがどんなことであっても。
二番目の弟子は「死者は死者に葬らせなさい」(59-60節)と招かれます。これは、第四の掟――つねに有効であり、私たちを大いに聖化する掟――を守らないということではありません。むしろ、何よりも先ず、あらゆることを超えて神を愛しなさいという第一の掟に従うようにという招きです。これは第三の弟子にも言えることです。彼は、「後ろを振り返る」ことなく、家族にいとまごいをすることさえせず、断固として、心を尽くしてキリストに従うよう招かれます(61-62節参照)。
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*後ろを振り返らず、前を見つめて進む
愛する家族の皆さん、あなた方もまた、他のことを優先させないよう、「後ろを振り返らない」よう、つまり、以前の生活、以前の自由を、その欺きの幻想をもって惜しんで嘆かないよう招かれています。神の呼びかけの新しさを受け入れないとき、人生は、過去を惜しんで嘆きながら、化石化します。過去を惜しんで嘆き、神が私たちに送る新しさを受け入れない道は、私たちを化石にします。いつも。私たちを硬くします。人間らしくさせません。
イエスが呼ぶとき、結婚や家族に呼ぶときも、イエスは前を見るよう求め、歩みにおいて私たちの先を行きます。イエスは「いつも私たちの先を行きます」。愛において、奉仕において。イエスに従う人は、失望の内に留まりません!
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*「家庭の愛:召命と聖性への道」
愛する兄弟姉妹のみなさん、今日の典礼の朗読は、すべて、摂理的に召命について語っています。召命はまさに、この第10回世界家庭大会のテーマです。「家庭の愛:召命と聖性への道」
この命のみ言葉の力とともに、私はあなた方に勧めます。決意をもって家庭の愛の道を再開し、家族全員でこの呼びかけの喜びを分かち合ってください。
それは、簡単な道ではありません。簡単ではありません。暗いとき、すべてが終わったかのように思われる困難なときもあるでしょう。あなた方が互いに生きている愛が、つねに開かれていて、外に向けられ、あなた方が道で出会う最も弱い人、傷ついた人――体や霊において弱い人――に「触れる」ことが出来ますように。実際、愛は――家庭の愛も――、それが与えられるとき、清められ、強化されます。
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*子供たちに飛び立つことを教え、促す
家庭の愛に賭けるのは勇気がいることです。結婚するには勇気がいります。私たちは、結婚する勇気のない若者をたくさん見ます。ひじょうにしばしば母親が私に言います。「何とかしてください。私の息子と話してください。もう37歳になるのに結婚しないのです!」「でも、奥さん、彼のシャツにアイロンをかけないでください。あなた自身がまず、彼を少し遠ざけ、巣から出るようにしてください」。なぜなら、家庭の愛は子供たちを羽ばたくよう促します。飛び立つことを教え、促すのです。
[家庭の愛は]所有欲ではありません。それはつねに自由な愛です。そして、困難のとき、危機のとき――すべての家庭はそのようなとき、危機の時があります――、お願いです、「ママのところに帰る」という安易な道を選ばないでください。だめです。この勇気ある賭けで、前に進んでください。
困難なときがあるでしょう、つらいときがあるでしょう、でも、前に進んでください、いつも。あなたの夫、あなたの妻は、あなた方が最初に感じた、あの愛のきらめきをもっています。それが、内側から出てくるに任せてください。愛を再発見してください。そしてそれは、危機のときに大きな助けとなるでしょう。
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教会は、あなた方と「ともに」います。教会はあなた方の「中に」あります。実際、教会は、「家庭」から、ナザレの家庭から生まれ、家庭を中心に形造られています。主が、一致、平和、喜びのうちに留まることが出来るよう、あなた方を日々、助けてくださいますように。また、忠実にしっかりと留まることを助けてくださいますように。それは、困難なときに、私たちをより良く生きさせ、すべての人に神は愛であり命の交わり(コムニオ)であることを現します。