Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 197 (19/07/22) 旧宜野湾間切 (11) Ganeko Hamlet 我如古集落

2022.07.20 05:20

旧宜野湾間切 我如古集落 (がねこ、ガニク)


もともとは、昨日に外出をし、集落巡りを予定していたが、出発直前に大雨となった。半時間程で終わったのだが、気持ちが萎えてしまい、今日にずれ込んだ。沖縄は梅雨が明けると、スコールの季節となる。一日で数回、大雨のシャワーがふる。それほど長い時間は降らないが、遭遇するとずぶぬれになる。今日も、降るかもしれないと思うが、まだ大丈夫そうなので出発。案の定、我如古集落に着いた際にパラパラと雨が降り出した。スコールはまずはこのようにパラパラと始まり、暫くするとドバーと大雨になる。直ぐに雨宿り場所を探す。閉まっている店舗の軒先に避難。やはり大雨になった。半時間程で止み、快晴となった。ここから集落巡りを開始する。




旧宜野湾間切 我如古集落 (がねこ、ガニク)

我如古は宜野湾市の南端にあり、方言名でガ ニク。 1671年、宜野湾間切が成立するまでは浦添間切に属していた。集落の南側には我如古グスクとよばれる小高 い丘がある。 集落の北側には志真志川、南側には比屋良川と二つの川にはさまれた集落。湧泉も多く、かつては水田の多い集落だった。我如古は沖縄戦の際、日米攻防の最前線であったため大きな被害を受けた地域のひとつで、戦災で文化財は失われたものもあるが、幾つかは残っている。

我如古の人口は比較的多い方で、米軍基地に接収されなかったためか、戦後コンスタントに人口は増え、現在でもその増加は続いている。

明治から大正にかけての人口は、宜野湾市では五番目に多い地域だったが、戦後は帰還できない集落の割り当て地として使用されたため、人口の伸びが鈍っていたが、本土復帰以降は順調に人口が増加している。現在では長田、真栄原に次いで三番目に人口の多い地区となっている。

集落民家の分布が判る地図では戦後の割り当て居住区以外には民家が見られなかったが、元の集落に戻り本土復帰当たりまでに、県道と国道沿いに住宅地が集中している。近年はそれまで、開発されていなかった東側にも住宅地が増えているのが判る。この地域はまだまだ住宅化される可能性があるように思えるので、まだまだ人口の増加は続きそうだ。


我如古集落の拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: なし
  • 殿: 殿 (トゥン)
  • その他拝所: 根所火ヌ神、我如古グスク地頭火ヌ神
  • 拝井: グスクガー産井 (ウブガー 西ヌ井  イリヌカー)我如古樋川 (ヒージャーガー)、前ヌ井 (メーヌカー、消滅)


村としての祭祀行事は三月三日の行事 (サングヮチャー) の拝みが最も重要なもので、我如古グスクの築城祝いに踊られたスンサーミーをこの日に催している。根所火の神、我如古グスク、グスクガー、ウブガー、我如古樋川、殿 (トゥン)、地頭火ヌ神、前ヌ井 (メーヌカー) の順に拝んで行く。昔は、四祭 (二月、三月、五月、六月の各ウマチー) の時には、宜野湾ノロが馬に乗ってきて、殿 (トゥン) の前で降り、殿の庭を七回廻った後に御願をし、帰りにはその逆廻りを七回していた。スンサーミーの御願は現在でも行われている。我如古地区の御願はすべて、新垣の根所火ヌ神から始まる。琉球王統時代から明治にかけては宜野湾ノロが祭祀を司っていた。


我如古集落訪問ログ



上之川 (イーヌカー) 橋

西原村から普天間に至る古道を通り我如古樋川 (ヒージャーガー) へ向かう途中に志真志川にかかる長さ3.5m、幅 2.2mの一枚岩でできた石橋の我如古上之川 (イーヌカー) 橋がある。土砂や雑草で覆われて、昔の姿が見えなくなっている。公民館で話したおじいは整備すれば良い文化財なのだが、行政が協力してくれず手付かずのままになっていると嘆いていた。かつての姿の写真があった。


下之川 (シチャヌカー) 橋

上之川 (イーヌカー) 橋 の下流に当たる場所にはウフミチと交わるところに下之川 (シチャヌカー) 橋があったそうだが、現在は暗渠になっており、橋はもはや無くなっている。暗渠からは水が流れている音が聞こえる。

かつての写真が残っている。ここを流れていた川は後ヌ川 (クシヌガーラ) と呼ばれていたが、現在は暗渠になって、先程の上ヌ橋に向かう道になっている。


我如古樋川 (ヒージャーガー)

上之川 (イーヌカー) 橋を過ぎると、南側は丘陵地の我如古東高地になっており多くの墓が造られている。その中に目的の我如古樋川 (ヒージャーガー) がある。部落発祥以来、村人の命の水として親しまれてきたが、井泉への入口が岩盤に閉ざされ使用に不便であった。その為、この涌井を1892年 (明治25年) に、二人の石工の指導のもと住民総出で半年をかけて整備されたもの。 石灰岩の切石で整備され、昔から住民の生活用水や若水、産水として利用され、集落の重要な聖地になり、村の水神を祭った拝所であり、村の祭祀はここを起点になされたという。湧泉の石積みの一部が、長い歳月の間に崩れてしまったため、1991年 (平成3年) から2年がかりで、復原工事を実施している。

案内板に当時の様子を描いたイラストが紹介されている。

我如古集落はこの丘陵の上にある。樋川 (ヒージャーガー) へは石畳の階段を降りて水汲みをしていた。

この場所は沖縄戦での激戦区になった場所で、1945年4月1日に北谷に上陸した米軍が、4月7日にはこの地に到達し、この丘陵の上、我如古集落に陣取っていた日本軍と激しい戦闘が行われた。


我如古公民館

樋川から階段を登ったところが公民館が置かれている。戦後、公民館は県道沿いにあったが、1987年 (昭和62年) に現在の地に移転している。


我如古平松 (ヒラマーチャー)

公民館の広場には二代目平松 (ヒラマーチャー) が植っていた。

二代目というからには初代があったのだが、それはケンドー(県道) 沿いに樹齢300年を誇る立派な平松だったそうだ。この平松があった所はアシビナー (遊び庭) があり、旧暦三月三日にはサングヮチャー行事 (拝所、御嶽拝み) が行われ、スンサーミーが催されていた。また平松の下には前ヌ井 (メーヌカー) があり、普天間参詣に行く人の休憩所になっていたが、井戸は埋没して無くなっている。

初代平松は沖縄戦で焼失しまったのだが、公民館のおじいの話では、この二代目は初代の子供だといっていた。焼け残っていた初代平松の根っこを移植して、奇跡的に再生したそうだ。おじいの話ぶりから住民のこの松への愛情が分かる。初代と同じ様に立派に枝が広がっている。おじいかは初代平松の写真を見せながら、嬉しそうに話してくれた。二代目平松は1964年 (昭和33年) に、この初代平松があった場所に建てられた旧公民館に植樹され、1987年 (昭和62年) に公民館が現在地に移ってくる際に、移植されている。


地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、殿山小(トゥンヤマグヮー)

公民館広場の隣も広場になっており、そこに瓦葺きコンクリート造りの祠が建っている。ここは我如古集落の合祀場になる。この祠には地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、殿山小(トゥンヤマグヮー、殿 トゥン) が祀られている。祠の中は左右に仕切られ、左側に火之神、右側に香炉が二基置かれている。トゥンの左が火の神(女神)、右が(男神)で、火の神(女神)の方から拝むそうだ。

祠と右側の壁の間にも香炉が一基置かれている。


我如古慰霊之塔

祠の隣には沖縄戦で犠牲者を祀った慰霊之塔が建立されている。1989年 (平成元年) に我如古自治会によって建立されたもので、沖縄戦で犠牲になった401名の名前が刻まれている。台座裏には64名が追加され、更に35名の戦没者が平成23年に追加されているので合計500名となる。別の資料では463名となっており、平和の礎報告では501人となっている。我如古では6月23日前後の日曜日に慰霊祭が毎年行われている。


我如古・西原高地の戦闘

この地での沖縄戦は昭和20年4月6日頃から開始された。西から宇地泊嘉数、我如古、南上原、和宇慶を結ぶ複廓陣地第一線に於ける攻防戦が行われ、この我如古はその右翼の激戦区の一つだった。右翼は独立歩兵第14大隊 (石3595) が守備を担い、我如古附近には同大隊 第2及び第4中隊と共に、独立速射砲第22大隊 (球15576) の第1中隊が所在し、普天間街道を機動、南下する敵を迎えていた。日本軍は米軍の攻撃によく耐えていたが、4月19日には我如古ラインは突破され、比屋良川を渡り、西原集落北側まで侵攻している。4月21~23日には嘉数高地西原も陥落して、米軍は4月25日から本格的に前田高地攻略にかかっている。

我如古では大きな激しい戦闘が行われた。我如古集落では疎開者は少なく、殆どの住民が集落に残り、激戦の真っ只中でも集落内にあったガマに避難していた。その様な事もあり、我如古では多大な被害が出ている。住民の半数の人が犠牲になっている。宜野湾市の中では長田区についで犠牲者が多かった地域だった。


我如古ヌ前 (ガニクヌメー)

沖縄戦後、捕虜となった宜野湾村民は各地の収容所を経て1946年2-3月頃に野嵩収容所に移り、その後、1946年8月以に米軍が割り当てた我如古ヌ前 (ガニクヌメー) の土地に11月までに移されている。この割り当て地には、我如古、志真志、佐真下、真栄原、大謝名の地域住民が生活をしていた。この場所は、戦前は我如古集落住民の耕作地だったが、割り当て地となったため我如古集落住民は農業はできず、軍作業などで生計を立てていた。割り当て地から各集落が帰還するに伴って、1950年に我如古集落住民も元の集落に戻ることができた。

現在の我如古ヌ前 (ガニクヌメー) は県道34号線 (宜野湾西原線) 沿いは商店が並び、割り当て地だった場所は少し低くなったところで住宅地になっている。写真は我如古集落住民が割り当てられていた地区。 


村屋跡、砂糖屋 (サーターヤー) 跡

戦前は県道34号線 (宜野湾西原線) 沿いに村屋があり、その隣は砂糖屋 (サーターヤー) になっていた。


沖縄念法寺

公民館のすぐ東側、かつての集落の外れに、立派な仏教寺院があった。念法寺という。沖縄ではこれ程立派な仏教寺院は珍しい。沖縄では檀家の習慣はなかったので、多くに仏教寺院は廃寺になっている。調べると、この念法寺は1925年 (大正14年) に始まった右翼色の強い新興仏教で念法真教が布教目的で建立した支院だった。ちょうどこの辺りが沖縄戦の激戦区だった。



我如古集落内に残っている文化財を見ていく。



西ヌ井 (イリヌカー)

我如古集落の産井泉 (ウブガー) として住民に利用されてきた。我如古の拝所にもなっている。

湧き出た水は西側のガマに吸い込まれて、水は産井 (ウブガー) ヌシッティへと流れているという。


産井 (ウブガー) ヌシッティ

西ヌ井 (イリヌカー、産井) から流れ出た水は、クシヌカーラ (志真志川) 沿いにあったガマに通じている。ガマの地下に大きな池 (クムイ) があったという。アパートの後ろの崖下にガマへの入り口が残っていた。


チンガーガマ

集落内には幾つものガマがあった様だ。その中でも規模が大きかったのがチンガーガマと呼ばれるガマで、井戸掘りの際に発見されたもの。 部落の地下を東南から北西に発達している鍾乳洞で、洞長は約170m、洞幅は2~6m、天井の高さは1~2m程で、入口は5ヶ所あり、井戸として利用されていた。沖縄戦の際には避難壕として利用され、佐真下、志真志、大山、真志喜、浦添の前田の人びとも、このガマに避難していた。戦場が南部へ移動し、野嵩収容所も設けられている頃にも、まだ我如古の井戸内に住民が避難していたので米軍は、収容所で働いていた我如古出身の宮城氏の協力を得て、井戸におりて避難している住民に呼びかけ、壕内から救出している。この宮城氏とは蒲上主 (カマジョースー) と呼ばれた人で新城集落を訪れた際にも新城でガマに避難していた人を説得して人命を救っている。ガマで二か月間過ごした30人全員が生存できている。5ヶ所あった入り口の二つが残っている。一つは民家の入り口にあり、蓋がされていた。

もう一つは先程の入り口から、それ程離れていないマンションの一画に井戸跡として残っていたので

我如古集落は比較的水が豊富な集落だった様で、多くの家が自前の井戸を設置していた。集落内の所々に井戸跡が見られた。


仲里家

集落の真ん中あたりに我如古集落の旧家の仲里家の屋敷跡があった。今は綺麗に庭として整備され、昔のヒンブン、ウヮーフール、釣瓶井戸跡が残されていた。また、この屋敷には屋敷シーサーが置かれていたが、その石獅子も駐車場の一画に残っている。


我如古グスク

比屋良川沿いの丘陵の麓には我如古公園あり、丘陵斜面は墓群になっている。頂上からは棚原グスクのある丘陵 (写真右下) が見える。

丘陵の頂上まで上と平坦部があり、ここが我如古グスク跡になる。伝承では我如古大主が築城したといわれており、この我如古大主を祀る祠が置かれている。土地の伝承では武寧王の三男とされる我如古大主 (察度王三男の孫という言い伝えもある) が武寧が尚巴志に討たれた際に我如古に逃げてきて我如古グスクを築城し、そこに住んでいたという。我如古集落の根屋 (ニーヤ) にあたり、浦添の安波茶から移ってきた新垣 (アラカチ) はこの我如古大主の子孫といい、ここには新垣家の墓もあったそうだ。(墓は旧公民館の東に移されている)

我如古グスク築城の際のお祝いの踊りが「我如古スンサーミー」であったという。女性だけで踊られ、そろいのキーチリー (かすり) を身にまとった女性が、円陣を組み、地方 (じかた) のうた三線に合わせ舞を披露する。かつては豊年や子孫繁栄を願って、旧暦8月17日に踊 られていたが、いつの頃からかサングッチャーと言われる旧暦三月三日に踊られるように なった。昔、スンサーミーが披露されなかった年に、若者の死があいついだという言い伝えがあり、欠かしてはならない行事として受け継がれ、現在でも行われている。戦時中は、中断を余儀なくされたが、「ワカムンビカリ (若者の死) があってはならない」という女性たちの強い思いに支えられ、戦後間もない昭和22年に復活した。我如古では大切に守られている文化だ。


グスクヌカー

我如古大主の祠の前方には井戸があり、グスクヌカーと呼ばれて、我如古集落の拝井となっており、香炉が置かれていた。


チブガー (未訪問)

我如古グスクのある丘陵の斜面は今でも畑が残っており、その中に集落の拝井でもあったチブガーがあると案内板に載っていた。水タンクの写真 (写真右下) もあるので、畑の中を探すが、結局見つけることはできなかった。ただ畑には水を引く水路などは残っていた。我如古ヌ前 (ガニクヌメー) に住んでいた人々がよく利用していた井泉だそうだ。


我如古の陣地壕群

我如古グスクがある丘陵の南側の斜面を下り比屋良川沿いには、沖縄戦時に構築された日本軍の陣地壕が残っている。迫撃砲中隊の砲座と壕群で複数の出入り口があり、内部でつながるように構築されていた。何とか行ってみたく思いグスクからの道や我如古橋からの道を探すが、道はわからない。我如古橋からはその場所 (写真左上) が見えるのだが、樹々で覆われ、中に入るのは大変そうなので、近くまで行くのは断念した。勇敢にも林の中まで入って見学した人が様子をアップしていた。(写真右上、下)


メーヌワイトゥイ (前の切通し)

我如古集落の東の端は現在は広い国道330号線が南北に走っている。この国道の東側沿いは上之毛 (イーヌモー) と呼ばれた丘になっていた。その一つが我如古から志真志や西原町に向かうために三ヶ所の切り通し (ワイトゥイ) が造られていた。その一つ、南側には前の切通し (メーヌワイトゥイ) があった。


ナカヌワイトゥイ (中の切通し)

集落南東側の切通しでナカヌワイトゥイ (中の切通し) があった。 ワイトゥイの手前には、サトウキビのしぼりかすを干すためのくぼ地があり、カーグヮーと呼ばれた井泉もあった。現在は埋められて無くなっている。 


クシヌワイトゥイ (後の切通し)

集落の後方 (北東) から東側へと続く道沿いにクシヌワイトゥイ (後の切通し) があった。現在の中部商業高校正門前の通りにあたる。


本部御殿 (ウドゥン) 墓

我如古集落から南に外れた所、メーヌワイトゥイ (前の切通し) から志真志集落に向かう途中に本部御殿の墓が残っている。本部御殿は、第二尚氏王統第10代尚質王の六男尚弘信、本部王子朝平を元祖とする王族にあたる。ここには亀甲墓が残っており、内部には10基の厨子 甕が確認されている。子孫の

五世の朝求は歌人として活躍し、八世の朝章は琉仏修好条約の締結において総理官を務め、十世の朝勇は一子相伝の本部御殿手の使い手で、その弟に最強空手家として名高い朝基を排出し、名門の家だ。現在は改修調査中で、作業者が測量をしていた。石垣の一つ一つに番号札が貼られていた。見学再開は9月からになると言っていた。その時に再訪することにする。


これで2日間にかけた我如古集落訪問は終了して、志真志集落訪問に移る。訪問記は別途。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)