Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Site Hiroyuki Tateyama

歌舞伎町 青春記

2022.07.04 03:58

 2000を超えるキャパシティの大型劇場だった新宿コマ劇場(1956年~2008年)は、昭和の時代、歌謡ショーの殿堂として多くの、特に演歌ファンに親しまれた。写真中央に縦長なのは、その新宿コマ劇場跡に建てられた新宿東宝ビルである。

 ここに記すのは、我が心の奥底に沈殿する一握の砂。攪拌すると静かに舞い立つ青春の一コマだ。

 1988年だったと思う。一度はやめた俳優に復帰した20代半ばのこと。先輩俳優からコマ劇場への出演を打診された。演歌歌手Yさんの歌謡ショーで1ヶ月公演だという。ギャラに釣られて二つ返事でお受けした。

 コマ劇場の楽屋口は新宿区役所(写真右手)側にあった。歌舞伎町はあちこちに眼光鋭いお兄さんが立っていたが、初日、二日とコマ劇場に出入りするうち、こちらが俳優だと察したらしく挨拶を交わすようになった。歌舞伎町の一員として認められたような、何だか威勢のいい人になった気分だった。

 稽古は二日間。演出はYさんの師匠で大御所演歌歌手のKさん。稽古初日、Kさんは細かく芝居をする私に動かなくていいとのダメ出し。見渡すと、俳優はYさんのセリフの間、微動だにせず、まるで書き割りのよう。生きた大道具としての役割に最初は戸惑った。

 

 20人程の俳優が犇めく楽屋は畳敷きで、中で二間に分かれていた。隣の化粧前は父と同い年の浅黒いずんぐりした方で、筋肉隆々のスタント要員もいた。いわゆる大部屋である。

 

 大部屋俳優は日がな博打に耽っている。競馬や麻雀は当たり前、野球賭博は暴力団絡みだったかもしれない。メイク前にスポーツ新聞を隈なく読む者がいたし、誰かが必ずラジオの競馬中継を聴いていた。タバコの煙が途切れることもなかった。

 ギャラは大部屋のボスが現金で支給する。ボスは痩せた50絡みの役者で、時折、楽屋に寝泊まりしていた。文字通り主だ。いつもこざっぱりしたステテコ姿で、七三に分けた髪型だけ見れば几帳面そうだったし、実際そうだったかもしれぬ。ただ酒癖が悪かった。

 公演中、度々、座長であるYさん主催の酒席があったが、Yさんが大部屋俳優に小遣いを配り(私はいただかなかったが)どこぞの親分よろしく恭しく見送られるとネチネチ始まった。ボスは、私のプロフィールにある蜷川幸雄さんの舞台歴に、そもそも私自身が気に入らなかったらしく標的になった。ただ、私をよく知るわけではないので、1時間もすると矛先はいつもの叱られ役の俳優に向いた。

 面白いことにボスは翌日必ず謝った。「昨夜はごめん」と、喧嘩した小学生のようだった。かような人間を許容する大らかな時代だったが、やはり面倒なもの。私は千秋楽を待ち侘びた。

 中日(なかび)前後だったと思う。本番中にスタント俳優のSさんがセットの屋根から飛び降りる芝居で頭部打撲。お客様は演出と思われたろうが騒然とする舞台裏。意識はある。念のためにと病院へ。その日の出番が終わっていた私が付き添うことになった。楽屋口にタクシーが着くと、東京女子医大へ。一通り検査を受けた後、異常なしとの診断でそれぞれ帰宅する。

 Sさんは翌日以降も何事もなかったかのように、屋根から飛び降りては楽屋へ戻って来た。

 

 Sさんはマチネ(昼公演)とソワレ(夜公演)の間をトレーニングの時間に充てていた。病院へ付き添った翌々日、何となくSさんのトレーニングに付き合うことになる。

 コマ劇場は7階建てだったかと思うが、高層ビルの屹立する新宿西口とは距離もあり、それまで知らなかった見晴らしの良い屋上があった。昼休みの社員が寛いだり弁当を食べたりのベンチもある。Sさんは腕立て伏せや腹筋を一通りこなすと、私を残して楽屋へ戻った。

 

 その日以来、私は自分の出番が終わると文庫本(『ニューヨークの奴隷たち』だった)を掴み、犬のように屋上へ駆け上がるのが日課になった。ベンチに寝転がる。空は高い。歌舞伎町の喧騒や、日によっては騒乱もあったがどうでもいい。CDウォークマンで聴くエンヤで頭から演歌を追い出した。

 時々、Sさんのトレーニングと重なることもあったが互いに干渉することはない。お釈迦様が蜘蛛の糸で引き上げて下さったかの如く、(娑婆で)束の間の孤独を満喫した。

 空席のある日は客席でショーを観ることもあった。三日月型のゴンドラなどコマ劇場の機構に感心したり、マチネとソワレのお客様の反応の相違を観察したりで、何とか千秋楽まで耐えた。

 

 コマ劇場の屋上は、現在の位置に置き換えるとゴジラが顔を突き出している辺り。久しぶりの歌舞伎町に大部屋俳優を経験した四半世紀前の1ヶ月が、眠りから覚めたゴジラのように蘇る。Yさんの演歌は未だに口ずさめる。