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Okinawa 沖縄 #2 Day 195 (08/07/22) 旧宜野湾間切 (8) Aragusuku Hamlet 新城集落

2022.07.09 12:12

旧宜野湾間切 新城集落 (あらぐすく)


前回、喜友名集落訪問ではスマートフォンの暴走と軽い熱中症で、訪問途中で断念したので、今日は喜友名集落の残りの文化財と隣村の新城 (あらぐすく) 集落巡りをする。スマートフォンの復旧を試みたが、暴走は続いており、古いスマートフォンに必要なデータを詰めこんで写真を撮る予定。古いスマートフォンではネットワークには接続していないのだが、走行ログを取得するGPSは使えるので、地図データをあらかじめダウンロードして、地図に従って巡る。喜友名集落の訪問記は前回のレポートに含め、ここでは新城集落のみを記載する。



旧宜野湾間切 新城集落 (あらぐすく)

新城は宜野湾市の北側に位置し、キャンプ瑞慶覧沿いを走る県道81号線と普天間飛行場沿いのいすの木通りの間に現在の集落住宅街が広がっている。北側のキャンプ瑞慶覧と南側の普天間飛行場との間は狭い地域で、そこにぎっしりと民家が密集していた。県道81号線沿いには飲食店が多くあり、 かつての外人住宅を利用した飲食店などが目立っている。旧新城集落は現在の普天間飛行場の中に位置していたが、戦後米軍基地として接収されたため、新城住民は、後に解放された土地に新たに集落を造り現在に至っている。今だ、旧集落は基地内で返還されていない。

もともと、新城集落は下原泉 (シンバルガー) あたりに七世帯から始まったという。先日はこの下原の集落にあった下原井 (シンバルガー) を訪れた。付近は発掘調査が行われており、住居跡が見られた。昔は、新城と安仁屋の集落は近くにあったそうで、新城と安仁屋の間にあった岩 (ものいう岩、カンナシー) が 「アンナグワークンケーラシ、 アラグスクグヮークンタバリ (安仁屋をひっくり返せ、 新城をしばりつけろ)」 と叫んだため、新城はそこから南の現在の普天間飛行場のあたり、宜野湾並松 (ジノーシナンマチ) 沿いに移動し、 安仁屋はもとの集落から北側のほうに移ったという伝承がある。伝説の場所では集落跡が発見されている。これは伝説で、後に造られた話だろうが、この下原から現在の普天間飛行場敷地へ移住したのは、おそらく祭温の農業政策によるものと思われる。戦前の集落は碁盤状になっているので、18世紀前半には肥沃な下原から移住させて、下原は水田や畑に利用されたと思われる。


戦後、戦後は集落の北側をキャンプ瑞慶覧、南側は普天間飛行場として新城全体を米軍に接収され、人々は帰る場所を失った。ようやく、1959年 (昭和34年) に、旧新城の一部返還が実現し、元の集落の場所ではないのだが、1963年 (昭和38年) に、その北側に帰還がかなっている。1964年 (昭和39年) に新城区、喜友名の一部、普天間三区の一部が合併して新生新城区が誕生となった。沖縄戦から実に24年もの年月が経っていた。

新城集落の人口は帰還が許される1963年 (昭和38年) までは一進一退の状況だったが、新しく村造りをして急増している。帰還の年の1963年には1,700人と戦前から5倍程の人口になっている。これは、元々新城集落住民だけでなく、他の地域からの人たちもいると思われる。それ以降、本土復帰までに急増し1972年には3,400人、それ以降は増加率は少し落ちるが1984年には4,400人まで伸びた。それ以降は小康状態が続くが、2010年から徐々に人口は減少に転じている。世帯数も横ばい状態となっている。新城は普天間と瑞慶覧の二つの米軍基地に挟まれた狭い地域しか居住空間がないのが、人口の伸び悩みの原因と思われる。キャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区は返還されて現在は住宅地建設工事が始まっている。これが完成すれば、少しは活性化が図れるだろう。残りの基地返還でさらなる開発を期待したいところだが、返還時期については不透明な状態だ。


宜野湾市の中で新城は明治時代から戦前までは人口の少ない地域だった。土地の一部が返還された1963年から1972年にかけては人口が急増したことで、宜野湾市の中では人口は真ん中程に伸びたがそれ以降の人口の伸びは止まったことで、現在は以前と同じように人口の少ない地域となっている。

新城集落にあった拝所は以下の通り

  • 拝所: 殿 (トゥン)、上ヌ殿 (イーヌトゥン)、下ヌ殿 (シチャヌトゥン)、地頭火ヌ神、上門毛 (イージョーモー)、石原ヌ拝所 (普天間基地内)、松堂ヌ拝所 (普天間基地内) 
  • 井泉: 村井 (ムラガー、産井 ウブガー、シマヌカー 普天間基地内)、下原井 (シンバルガー)、ナークガー (所在不明)
  • 石獅子: 集落の南東端の屋号 前比屋根の前、集落の北西の端の屋号 首里畑の前、集落の北のチンマーサーの場所の三体あった。

新城誌 (2000 字新城郷友会) にこの新城で行われていた祭祀が載っていたのだが、なぜか9月までしか載っていなかった。沖縄のほとんどの集落では11月は冬至 (トゥンジー) があり、12月は鬼餅 (ムーチー)、御願解き (ウガンブトゥチ)、大晦日 (トゥシヌユルー) などが村行事として行われていた筈なのだが...

琉球王統時代から明治時代にかけては野嵩ノロによって祭祀が執り行われていた。

宜野湾市ホームページで最近この新城の紹介マップが掲載されていた。数か月前にはまだなかったのだが...

この新城訪問の際に参考にした文献の中で、佐喜真興英が記した「シマの話」という本がある。大正14年に出されたもので、沖縄では最初の郷土誌と考えられている。佐喜真興英は、1893年 (明治26年) に、ここ新城で生まれ、幼少時に大金持ちの佐喜真家本家の養子となった。幼い頃から体が弱かったのだが、中学を首席で卒業するほど成績は優秀だった。 東京帝国大学法学部在学中に、柳田国男との交流で忍俗学に興味を持ち「霊の島々」を執筆、多数の論文を発表、 その後 、裁判官司法官試補、判事 (福岡県、宮崎県、岡山県) を務め「南島説話」 や「シマの話」などの著書を出版、活躍が期待されていたが、1925年 (大正14年)、肺結核のため、31歳の若さで亡くなっている。

1925年に出版された「シマの話」は、故郷の新城のシマ (島=村) の民俗を書き綴った沖縄最初の単一村落の民俗誌。 明治時代末期の新城の生活や文化を

  • アラグスクのシマ
  • 村落共産体としてのシマ
  • 島人の私有財産的法律関係
  • 島の家々
  • 島人の飲食物
  • 島の年中行事
  • 出生
  • 死後
  • 島人の言葉遣い及び呼称
  • トキ、 ユタ及びマジナイ

の項目に分け細かくまとめている。 民俗誌として、当時ではとても画期的なものだった。今は、多くの集落で字誌、村誌が発行されているが、ほとんどがこの「シマの話」の形式で記されている。大きな影響を残したことは確かだ。図書館でこの本を借りて呼んだ。旧仮名遣いで、少々読みづらいのだが、非常に興味深いものだった。新城の事を書いてはいるが、多くは当時の沖縄の集落共通の習慣文化を当時の青年がどう見ていたかがわかる。


新城集落訪問ログ


新城地域は戦後、1963年 (昭和38年) に元々集落があった場所の北に新しく村づくりをしているので、現在の集落内には戦前からの文化財はなく、そのほとんどは米軍基地内にあり消滅してしまっている。残っているのは先日訪れた下原井 (シンバルガー) だけで、それ以外は戦後に造られたものだ。



下原井 (シンバルガー)

先日、喜友名井を訪問した際に喜友名七井を巡った追加でこの下原井 (シンバルガー) を訪れた。表示はあるのだが、どれが下原井 (シンバルガー) なのかはよくわからない。この場所には水路がありその脇に水槽が置かれていた。ここで農業用として置かれたのだろう。かつての新城集落とは少し距離があるので、当時も水田用に使っていた井泉かもしれない。


新城上ヌ殿 (ウィーヌトゥン ) 遺跡

下原井 (シンバルガー) の北東は琉球王統時代前半に集落があった場所で、この近くには上ヌ殿 (ウィーヌトゥン) と下ヌ殿 (シチャヌトゥン) があった。この付近からは屋敷跡や石畳道が発掘されている。この屋敷跡は戦前の新城集落 (現在は普天間基地内) に移転する前の集落とされ、このことは佐喜真興英の「シマの話」に触れられている。また遺跡からはグスク時代の土器や中国産の陶磁器が見つかっていて、 グスク時代の集落も想定されている。 ここに住んでいた人々は、眼下に広がる水田跡の主であったかもしれない。


新城下原 (シンバル) 第二遺跡

新城上ヌ殿 (ウィーヌトゥン ) 遺跡の西側はイシジャーの下流域になり、標高 4 ~ 6mほどの平地に広がっている。 約6,000~約 7,000 年前の爪形文土器や貝塚時代前期の土器が見つかっている。 その他には、貝塚時代後期 (約 2,000年前 弥生時代相当) のイモガイ集積 (日本本土との交易品) や土器等、グスク時代 (約700年前 鎌倉時代相当) の水田跡が見つかっている。とりわけ水田跡は県内での初めての事例として注目されている。これから判断すると、この近くに住んでいた新城集落住民がこの付近で稲作をしていたことが判る。


あらしろの塔

新城の慰霊碑は、あらしろ児童公園の南側の区画の字新城郷友会敷地内に建てられている。

この字新城郷友会は新城復興に大きな役割を果たし、1960年以降中断されていた総踊りも 1972年 (昭和47年) に復活し、今では郷友会と自治会の協力開催となっている。多くの集落では、自治会と昔から住んでいる門中組織の郷友会とか向上会とか名付けられている組織がある。沖縄の集落は明治時代のある時期までは移動が禁じられており、集落は門中中心の血縁集団だった。それが戦後拡大し、寄留民 (他地域からの転入者の事) が増え、このような富津の組織がある。 自治会はその地期に住んでいる誰でもが加入できるのだが、郷友会、向上会は元々の集落に住んでいた門中住民に限られている。集落によってその加入資格はまちまちだ。集落外に住んでいる元門中の日とも加入できるところもあり、自治会と郷友会とか向上会のすみわけもまちまちだ。この新城の郷友会は比較的緩やかな加入資格となっている。佐喜真興英の「シマの話」では新城の閉鎖性が記されているが、新城集落の再建が昭和34年と戦後14年後と遅い時期に始まった事で、元の住民はそれぞれの土地で生活基盤を固め、帰還しなかった人もいるのだろう、そのため寄留民の割合が高く、昔の閉鎖性が薄まったとも考えられるのではないだろうか?

米軍の北谷上陸まじかの1945年 (昭和19年) 3月末には部落民のほとんど (300人) が自然壕があった村井泉 (ムラガー) のシマヌカー (アラグスクガー) に避難していた。この洞窟には入り口付近に炊事場、奥の水が流れている場所にはトイレも造られていた。4月4日に米軍に見つかり、一部住民は竹槍で戦う覚悟をしていたが、米国帰りの宮城蒲上と宮城トミが住民を説得し、米軍とも交渉をして、殆ど無傷で捕虜となり命拾いをしている。これにより、新城は宜野湾村内で最も犠牲者が少なかった地域の一つだ。当時の新城の住民は320人、死者行方不明者は39人。慰霊碑には37柱の名が刻まれている。その後の死亡者などを含めた糸満の平和の礎では52人となっている。記録されている戦没者はほとんどが、従軍兵士や日本軍に協力しともに行動をした人たちで、集落に住んでいた人たちの犠牲はほとんどないそうだ。ここで登場する宮城蒲上は野嵩収容所ではリーダーとして住民組織をまとめ、蒲上主 (カマジョースー) と呼ばれ、住民から頼りにされていた。多くの集落を巡り、沖縄戦の悲劇を聴いてきたが、明暗を分けたものは幾つかのポイントがあるようだ。まずは大きいのは、日本軍の陣地あったかどうか、日本兵が集落に残っていたかだ。当然米軍の攻撃は陣地に向けてなされるので、戦争の激しさは陣地の有無によって大きく変わってくる。日本兵が避難壕にいる場合は投降は許されず、多くん犠牲者を出している。米軍上陸後の時期もかかわっている。前田高地の戦い以降は米軍にも大きな被害が出ている。南部の糸満での戦闘では米軍兵士もパニックに陥り、日本人に対しての憎しみも増大し、軍人民間人区別なく射撃対象となっている。もう一つが、指導者だ。徹底抗戦か、自決か、投降かなどの決定を下せたリーダーが住民内にいたかどうかも大きなポイントだったと思われる。この新城の様に住民側に宮城蒲上の様に、幅広い見識があり、説得力のあるリーダーがいたことが新城住民を救っている。

戦後、戦後は集落の北側をキャンプ瑞慶覧、南側は普天間飛行場として新城全体を米軍に接収され、人々は帰る場所を失った。昭和22年末から野嵩に収容されていた各村住民の帰還が始まったが、新城旧部落はまだ米軍基地として接収されていたため、帰還が叶わず、収容所があった野嵩や普天間に住むしかなかった。 1959年 (昭和34年) に、米軍高射砲跡の新城西原と普天間石川原の一部の返還を陳情し許可がおり返還された。翌年には新城、普天間、喜友名、野嵩で帰還準備組織を作り、地主45人で解放された土地 22,000坪の区画計画が始め、宅地建設を行い。ようやく1963年 (昭和38年) に帰還が完了。1964年 (昭和39年) に新城区、喜友名の一部、普天間三区の一部が合併して新生新城区が誕生となった。沖縄戦から実に24年もの年月が経っていた。


合祀拝所

あらしろの塔の広場の一画に合祀拝所の祠が建てられている。旧新城集落内にあった拝所、殿、井泉などは戦火で灰になってしまい、この地に集めて祀っている。祠内には6つ拝所が香炉が置かれて祀られている。左から、火の神之殿、豊作之神、根屋之神、上ヌ御嶽之神、御嶽之神、根屋之神と書かれている。それぞれが戦前のどの拝所に当たるのかは定かではないが、上ヌ御嶽之神と御嶽之神はキャンプ瑞慶覧内にあった上ヌ殿 (ウィーヌトゥン) と下ヌ殿 (シチャヌトゥン) だろう。それ以外は普天間飛行場内にあった新城古集落の拝所と思われる。新城古集落には石原の拝所、松堂の拝所、上門毛 (ウィージョーモー) があり、先ほどの普天間第二小学校ないには地頭火の神と殿 (トゥン) の合計5つの拝所があった。おそらく、その拝所にあったものを祀っているのだろう。この合祀拝所の前にはチンマーサー (沖縄集落内の休憩所のようなもの) があり、そこに石獅子が置かれていたと戦前の地図には記されている。ここが新城古集落の北の端で、石獅子がこの場所で村を守っていたわけだ。戦前の新城には石獅子が三体あったそうだ。残りの二体は集落の南東端の屋号 前比屋根の前、集落の北西の端の屋号 首里畑の前 (普天間第二小学校の南校庭あたり) 。


闘牛場 (ウシナー)

合祀拝所の目の道を少し北に進んだところには、かつては闘牛場とアシビナー (遊び庭) があったそうだ。今はその面影はなくなっているのだが、闘牛場 (ウシナー) は辻としては珍しく四角い形をしていたそうだ。当時、闘牛用の牛を持っている家は集落内に五軒あり、ほとんどが闘牛大会の前に牛を買い、大会が終わると売っていたという。戦前は9月9日に闘牛大会が行われていた。戦後もニ度ほど闘牛大会を行ったが、それ以降は廃れてしまった。


地頭火ヌ神、殿 (トゥン)

普天間第二小学校の敷地内には、戦前には、地頭火ヌ神、殿 (トゥン) があったそうだ。現在は、消滅してしまっている。この辺りは戦前集落 (新城古集落) の北の端にあたる。ここから現在の普天間飛行場内には琉球王府時代にできた計画的な碁盤目型集落が存在し、戦前までは新城集落住民の生活の場だった。 新城下殿遺跡 (下原) からここに移ったと伝えられてる。普天間第二小学校の敷地南側には基地のフェンスが張られている。基地に挟まれた集落となっている。


新城公民館

戦前までの村屋 (ムラヤー) はかつての集落の南端にあったが、そこは普天間基地内になる。戦後、元の集落は基地に接収されたので、1968年に、現在の場所に公民館を設置した。1979年に建て替えたものが現在の公民館になっている。



前回は軽い熱中症の症状があらわれていたので、今日はあまり無理を歩道の日陰を探しながらの行き帰り、2リットルの麦茶をこまめに摂取、日陰で休憩など注意して巡った。その効果があったのか、暑く汗はしたたり落ちてはいるのだが、気分も悪くならず、足もつらず無事に集落見学を終えることができた。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 新城誌 (2000 字新城郷友会)
  • シマの話 (1925 佐喜真興英)