会社の借金名義を肩代わりする
曽祖父と父が興した会社は順調に拡大を続け、従業員が2倍3倍と増加していました。しかし、その矢先、バブル崩壊の煽りを受け、多額の借金を背負うこととなり、窮地に立たされました。長男である私が25歳で家業を継ぐことになったとき、会社はそんな状況にあったのです。
家業を継いでから発覚した予想以上の会社の借金。
なんとしても会社を守り抜かなければ、と必死になりすぎて錯乱状態になり、何度自殺を試みたかわかりません。
そうした状況に追い込まれても、すべてを投げ出して自由になるという選択肢は全く考えていませんでした。
そこまでして会社の存続にこだわったのは「里親の喪失体験」があったからだと思います。
里親は私が5歳のときに急に夜逃げしました。そうするしか方法がなかったのかもしれません。
でも、事情を知らない私は「見捨てられた」と心に深い傷を負いました。
もし、ここで自分が逃げたら、家族や従業員や従業員の家族、取引先に、私と同じような苦しみを味わわせてしまう。
そして、誰よりもその苦しみを知る私が、ここで投げ出したら、自分で自分のことを絶対に許せないだろうと思ったのです。
「やるしかない」という思いで朝から晩まで働きました。
やれることは全部やりました。
二二時までだったお店の営業時間を深夜二時まで延ばしました。回収した空ビンは買い取ってもらえたため、従業員には配達先から空ビンを一本でも多く持ち帰ってきてほしいとお願いしました。少しでもコストカットするために、日曜日は従業員の制服を手洗いしました。
月末の支払いのために生きているようなものでした。その月の支払いを済ませ、今月も生き延びられたという安堵感が得られたかと思うと、瞬時に翌月の支払いのことが頭に浮かび、焦燥感が襲ってくる、そんな日々でした。
無我夢中で働き、会社の経営と自分の精神的な病のことで生きるのに必死だったため、この頃の出来事はあまり思い出せません。
「私はなんのために生きているのか?」そんなことを考える余裕すらありませんでした。
借金に追われて、
生きるだけでも精一杯でした。
『大丈夫。そのつらい日々も光になる。』
(PHP研究所)
第3章 外に出るのが怖い
P102〜P104 より