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yoyo

言葉を聞きたい

2022.07.08 14:45

ニュースを見て、先日読んだ「くるまの娘」と「あくてえ」のことを思い出す。いずれの作品も家族の地獄が描かれていて、その地獄の根元の一つとして共通で取り上げられていたのが「言葉が届かないこと」だった。


「くるまの娘」で母はハンドルを手にし、「あたしの病気のせいって、あたしのせいって、言うのなら(略)あたしが、終わらせる」と必死に言葉で訴えるも、父は母を小突いただけで何でもないことのように丸めこむ。車は斜面に乗り上げ、父がふたたびハンドルを握り、車は走り出す。言葉は無かったことにされる。

「あくてえ」では身体の内側に怒りを抱え悪態をつくしかなかったゆめが、祖母と父に、どれだけ自分と母が祖母に尽くしているか、父はそれを見て見ぬふりしているか、泣きながらもきちんと言葉にして訴えるシーンがある。なのに父も祖母も「どうしちゃったの」「疲れてるんだよ」と言い、ゆめと真剣に取り合わない。

言葉を投げかけた相手は、都合が悪いと分かればしらばっくれ、しらけ、うすら笑いし、真剣に投げかけた言葉を無かったことにする。


人と人は完全には分かりあえない。それはそうだ。けれどもその「分かりあえない」にすら到達できず、ループする地獄がいずれの作品でも描かれていた。分かりあえないことは絶望だ。けれども分かりあおうとしないことは、もっともっと絶望なのだ。


声なき声という言葉がある。けれどもそれを「声なき声」だと名づけるのは、いつだって強い立場にいる、伝えてもらう側の人間だ。本当はその人は声で、言葉で、ちゃんと伝えていたことだってあったかもしれないのに。それを受け止めなかったからそれは「声なき声」になってしまったかもしれないのに。「言葉にする」という行為にどれほどの気力体力が必要か。そしてそれが他者に受け止めさえしてもらえなかったとしたら。


もちろん言葉でなく暴力で訴えることはいけない。特に今回の行為は、言論の自由・民主主義を脅かす行為でもありあってはならない。その一方で、彼があの行為に至るまでに、どれだけの言葉が無かったことにされてきたのかと想像してしまう。

言葉は無かったことにされる。人によって。ときに仕組みによって。


私は、目の前にいる人の言葉を、きちんと聞くことができているだろうかと、今日ずっと考えていた。理解できなくても、私は差しだされる言葉に対して腕を広げていたい。手の届く人たちの言葉を聞きたい。

言葉を聞くことが暴力をなくすことだと今は思う。