実篤忌水面を磨く微風かな
https://www.bunkamura.co.jp/old/cocoon/lineup/08_wagatamashii/ 【わが魂は輝く水なり-源平北越流誌】より
ここ数年、蜷川は意識的に清水戯曲と向き合っている。その理由を「原点回帰」だと、蜷川は言う。 60年代から70年代にかけて、若い世代の「熱」が世界を大きく揺るがした。ベトナム反戦運動、ヒッピー、ビートルズ……敗戦の傷跡がいまだ色濃く残る日本も、安保、学生運動、連合赤軍の浅間山荘事件と、過激な熱を帯びていた。そんな中、蜷川と清水は、演劇を通して社会を挑発しようとした。しかし、学生運動がそうであったように、蜷川と清水の活動もやがて終局を迎え、それぞれ新たな道を歩むことになった。
80年、清水は劇団民藝に『わが魂は輝く水なり』を書いた。蜷川は公演を観に行かなかったが、台本は読んだ。「これはまるで俺たちのことを書いてるみたいだ」。源平の合戦という枠を借りて、清水は“あの時代”を書いていた。蜷川はその後、複数のプロデューサーからこの作品を演出するよう提案されたそうだが決心がつかず、初演から四半世紀以上たってようやく向き合うことになった。野村萬斎、尾上菊之助という、若い世代を迎えて。
美しい台詞、レトリック、そして緻密な構成。稽古場での蜷川は、いつにも増して、じっくりと腰をすえて、戯曲に向き合っている。まるで台詞のひとつひとつが言霊であるかのように大事に扱い、人物の心の襞を丁寧に表出しようとする。そして、行間に多用される「……」の読み取りを俳優にしっかり期待する。「それは共感なのか嫉妬なのか、言葉の動機をはっきり見せてくれ」、「心が入ってほしい、心で伝えて」。蜷川の一貫した姿勢は、背景に流す音楽の選択にも及び、「そんなワーグナー風の曲だと、今までの俺の芝居みたいだなあ。俺は、スペクタクル性を抑えたいんだ」と、柔らかな口調で要求する。
「稽古場は色々と試みる場所なんだ。とにかくやってみよう」との蜷川の言葉に、ある日、萬斎は粘り強く「森」と自分との距離感を測ろうとしていた、菊之助は、「海面(うみづら)からの風」という言葉の朗誦で、空間を大らかに広げる工夫を繰り返している。そして時折、蜷川の口からこぼれ出る清水邦夫のこと、あの頃のこと。カンパニーの圧倒的多数は、学生運動や浅間山荘事件をリアルタイムで実感してはいないし、アンダーグラウンドと呼ばれた演劇人の活動も目にはしていない。しかし“彼らの時代”の熱さ、強さは、蜷川の言動を通して確実に次世代に伝わっている。いつだったか、蜷川の稽古場を或る若いキャストがこう語っていた。「なかなかこんな体験はないんです。俺、本当に頑張って戦わなきゃなって思う」。
https://shiten3403.exblog.jp/25720875/ 【わが魂は輝く水なり 実盛池】より
実盛ゆかりの地、実盛池へ【福井県坂井市丸岡町長畝36】
歴史書には池の周りは40m、深さ10m、2本の松の大木があり、その下に石搭が一基との記載があります。坂井市の指定史跡。実盛池は、丸岡城の北東にあり。源平合戦に名高い斎藤実盛にゆかりの池である。
伝説によれば、実盛誕生の際にこの池の水を産湯に使ったと言う。
上長畝には、実盛の館と言われる長畝館跡と実盛堂があり、堂内には仏師新井九兵衛作による実盛の武人像が祀られている。
斎藤実盛 生年不詳-1183
平安末期の武将で、藤原利仁将軍の流れをくむと言われ、河合斎藤の子孫であると言う。
実盛は最初源義朝に仕えたが、平治の乱以降は平宗盛に仕え、源平盛衰記や謡曲の「実盛」などで悲劇の武将として伝えられている。寿永2年、篠原合戦にておいて戦死。
石川県加賀市篠原に「篠原古戦場 首洗池」がある。
https://shiten3403.exblog.jp/25888023/ 【わが魂は輝く水なり 実盛の墓・生誕地の碑】より
丹南エリアにある、実盛の墓・生誕地の碑へ【福井県鯖江市南井町】
鯖江市南井町の文殊山には、斎藤実盛生誕の碑と墓所とされる石塔群があり。近くには子孫の住む家があり、庭園には実盛が産湯に使ったといわれる井戸と、実盛が手で植えた樹齢800年のひいらぎがある。
南井町の斎藤家は、平安時代末期に活躍した斎別当実盛の後裔と伝えられます。
南井町を含む片上一帯は十一世紀には藤原摂関家の直轄領であり、斎藤氏はこの方上荘の荘官として定着。開発領主となって武士団を形成していったと考えられています。
南井町は斎藤実盛生誕地として最も有力な地とされています。
まず、この地は御子孫の方の私有地であり。ご自宅の横を通り、ひいらぎ・生誕地の碑・墓所へ進むことになります。
私が訪ねた際も御在宅中であったのでひと言声を掛け、見学させて頂きました。
実盛のひいらぎは、実盛が出征の際、久方ぶりに故郷に帰った際に実家の庭先に植えたものと伝えられていて、斎藤実十郎家ひいらぎとして鯖江市の指定文化財となっている。
ひいらぎはモキセイ科に属し、のこぎりの歯形になった葉に触ると痛いので、ひりひり痛むことから「ひいらぐ」とその名が付いたとされる。
このひいらぎは、地上30cmのところから幹が3つに分かれ、幹回りはそれぞれ170cm、93cm、54cmで樹高7.5m余りの見事な大木である。
ひいらぎの果実 開花翌年の6~7月頃に紫黒色の実をつける。
ひいらぎの花 11~12月にかけて、白色で4裂した香り高い花をつける。
史実に従えば樹齢800年と推定されるが、樹勢はなお盛んである。