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斎藤別当にて候ひけるぞや

2022.07.09 14:04

https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2018/01/%E5%AE%9F%E7%9B%9B.html 【斎藤別当にて候ひけるぞや】より

「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」という芭蕉の句があるが、キリギリスが重い兜に押しつぶされたのかと思っていた。ちがう。兜の下でコオロギが鳴いているのだ。その兜とは…。調べると、そこには諸行無常の世界が広がっていた。

「甲」は『平家物語』に登場する斎藤実盛のもので、実盛の死後、木曽義仲が多太神社(小松市上本折町)に奉納した。それから五百年ほど後に、芭蕉が神社を訪れ兜を拝観した。「むざんやな」は実盛の故事を思い起こした芭蕉の感慨であると同時に、謡曲『実盛』の「あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞや」や、『平家物語』の「あな無慚や、斎藤別当で候けり」という樋口次郎の嘆きでもある。

寂しいかのように鳴くコオロギ、この小さな命は冬を越すことはあるまい。戦場に散った数多の武者の命もまた儚い。せめてもの弔いに一句献じよう。芭蕉はそんな心情だったのではあるまいか。

浅口市寄島町に「斎藤別当実盛の墓」がある。

斎藤実盛は寿永二年(1183)5月21日、加賀篠原の戦いで木曽勢と戦い討死した。その様子は『平家物語』巻第七「実盛」に詳しい。歳をとり白髪になっているはずの実盛ならば髪が黒いはず…。義仲は不審に思って、実盛と親しかった樋口次郎兼光に訊いた。すると兼光は、実盛は生前次のように言っていたと答えた。

六十に余て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚(びんひげ)を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原(わかとのはら)に争ひて、先を懸んも長(おとな)げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべし

六十を過ぎて合戦に臨むときには、髪やひげを黒く染めて、若々しく振る舞おうと思う。それは若武者と争って先駆けするのも大人げないし、老武者とあなどられるのも悔しいからだ。

歳はとっても気持ちは若く保つよう心掛け、一人の誇りある武者として最後まで戦った。その実盛を討ち取ったのは手塚太郎光盛で、マンガの神様・手塚治虫のご先祖様だという。

さて、本日の史跡に話を戻そう。ここは実盛が討死した加賀から遠く離れた備中寄島である。だが、五輪塔には「實盛之墓」と刻まれている。どのような事情があるのか。昭和61年発行の寄島町文化財保護委員会『寄島風土記』では、次のように説明されている。

斉藤別当実盛は東国武士で、初め源氏に仕えたが後に平氏に迎えられ、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に討たれた。その子信実主従は藤戸合戦に敗れ、平家の荘園であった大島庄を頼ってこの地に落ちのび、柴木の実盛の里に隠れ住んだといわれている。狭い山間にある十九戸の集落はみな斉藤姓を名のり、同族の先祖として、斉藤別当実盛の墓を建立して子孫が現在も年に一回集って供養を続けている。

実盛の子、信実は寿永三年12月7日(1185)の藤戸合戦に敗れ、この地に隠れ住んだという。貴種流離譚の一つ、隠れ里の伝承である。しかも、ここは「実盛」という地名で、ほとんどの家が「斎藤」姓だという。

先祖実盛の墓を建立して供養を続けることで、地域のアイデンティティを確認してきたのだろう。実盛の生き方は数百年の時を隔てて、地域づくりの原動力となっているのだ。


http://yuusuke320.blog115.fc2.com/blog-entry-2053.html?sp 【斎藤実盛と「直実vs敦盛」】より  

 「妻沼聖天」の貴惣門と寺を建立した斎藤実盛像です。

1913(大正2)年5月文部省編集『尋常小学唱歌』第五学年用に「斎藤実盛」を称える歌が生まれました。

    一、年は老ゆとも、しかすがに     弓矢の名をばくたさじと、

       白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ、    若殿原と競ひつつ、

       武勇の誉を末代まで  残しし君の雄々しさよ。

     二、錦かざりて帰るとの   昔の例(ためし)ひき出でて、

       望の如く乞ひ得つる   赤地錦の直垂(ひたたれ)を

       故郷のいくさに輝しし  君が心のやさしさよ。 

 手鏡に追いゆく己を写し、戦の日々でも思う出しているのであろうか?

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。

 本拠地の武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を守るため、転戦しており、墓が石川県加賀市篠原町(実盛塚)・福井県鯖江市南井町・同坂井市丸岡町(堂)・静岡県熱海市伊豆山岸谷に残されています。

 斎藤実盛の生涯は天永2年(1111年)ー寿永2年6月1日(1183年6月22日)ですが、同時代に長井庄隣りには熊谷直実・永治元年2月15日(1141年3月24日)ー建永2年9月4日(1207年9月27日)がいます。 

 熊谷駅・北口には(長崎平和の塔作者)の北村西望氏のブロンズ像。

     熊谷直実(Wikipedia)  250px-Kumagai_Naozane_Statue_01.jpg

 秋の夜長、10分くらい、熊谷直実vs平敦盛との一騎打ちの『平家物語・敦盛』をじっくり聴いてみませんか?