ZIPANG TOKIO 2020「文化庁【重要無形民俗文化財の指定】文化審議会答申 決定!」
この度、文化審議会(会長 馬渕明あき子)は,1月19日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,重要無形民俗文化財として6件を指定すること及び登録有形民俗文化財として2件を登録することについて文部科学大臣に,また,記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として7件を選択することについて文化庁長官に,それぞれ答申しましたので今回は、重要無形民俗文化財6件についてご紹介いたします。
松前神楽
松前神楽は、旧松前藩が、かつて城中で行わせたところから「お城神楽」ともよばれ、江戸時代に神職によって盛んに行われたものが後に広がり、現在では函館市、小樽市、松前郡松前町、福島町はじめ北海道の日本海沿岸地域や道南地域など広い地域で伝承され、各地の神社例大祭等で公開されている。
伝承される演目は「榊舞【さかきまい】」「鈴上【すずあげ】」「福田舞【ふくでんまい】」「二羽散米舞【にわさごまい】(庭散米舞)」「四箇散米舞【しかさごまい】」「三番叟舞【さんばそうまい】」「翁舞【おきなまい】」「神遊舞【かみあそびまい】」「七五三祓舞【しめはらいまい】」「獅子舞【ししまい】」などと数多く、それらの内容や名称などに各伝承地で若干の違いがあるが、いずれも神事性、儀式性が強い神楽であり、余興的な部分が少ないことが共通の特色である。
松前神楽は、旧松前藩主が福井県若狭地方の出身とされるところから、京都の舞楽や出雲地方の神楽との関連や、また直接的には地理的に近い東北地方の山伏神楽や番楽の影響が指摘される。
この松前神楽は、北海道において江戸時代以来の伝統を引継ぎ、さらに道内各地で、それぞれの地域の特色を加えつつ広く行われるようになったもので、芸能の変遷の過程および地域的特色を示す重要なものである。
秩父吉田の龍勢
「秩父吉田の龍勢」は祭りに際し、「龍勢」と呼ばれる打ち上げ式の煙火を奉納する民俗行事で、この地域での歴史は少なくとも江戸時代末期まで遡ります。現在行われている秩父市下吉田の椋神社に奉納される龍勢は明治8年には記録があり、今日では毎年10月第2日曜日に開催される秋季例大祭に際して、五穀豊穣や天下泰平を祈願して行われています。 龍勢の製造及び打ち上げは、かつては「耕地」と呼ばれる地縁集団によって担われていましたが、現在は地縁を基礎としながらも地域外も含めた有志が集まった「流派」と呼ばれる団体によって行われています。 龍勢の製造は、松丸太を縦に二つに割って中を刳(く)り抜き、そこへ火薬を詰め、再び二つを合わせて竹のたがをはめた火薬筒に、導火線を通し、青竹の矢柄(やがら)を取り付けます。火薬筒の口径は約10cm、長さは約60cmで、全長は約20mです。 打ち上げは、専用の打ち上げ櫓を用いて行われます。打ち上げ櫓に龍勢を掛けて点火すると、龍勢は白煙を残しながら空高く打ち上がります。 今回の答申は、秩父吉田の龍勢が、打ち上げ式の煙火の典型例であり、奉納煙火の習俗の変遷や地域的な展開を考える上で重要である点が高く評価されたもので、打ち上げ式の煙火の国指定文化財としては、全国初のものとなります。
村上祭の屋台行事
山鉾屋台が巡行する行事は全国各地に見られ,江戸時代に城下町で発展し,継承さ れてきた行事も多い。村上祭の屋台行事も,江戸時代の村上城下で行われた屋台が巡行する行事を 継承しており,二層 二輪 の大型屋台の形式は,周辺の同種の行事にも大きな影響を与 えてきた。また,城下で 培われてきた木工 漆工等の職人技術で作られた豪華絢爛な 屋台は3種あり,形態の変遷を読み取ることもできる。 村上祭の屋台行事は,我が国の山鉾屋台行事,特にこれまで指定がなかった新潟県下越地方にお ける典型例であり,我が国の城下町祭礼や山鉾屋台行事の地域的な展開を考える上で重要である。
江戸時代より城下町として栄えてきた村上に伝承されてきた大規模祭礼であり,旧村上城下の総鎮守 である西奈彌羽黒神社の例大祭において,神輿の巡行に合わせて19 基の屋台,14 騎の荒馬,4基の笠鉾等が旧城下を巡行するものである。
6日は宵祭まつりで,各町が屋台や笠鉾を組み立てて自町内を巡行する。7日は本祭まつりで,早朝から各町の屋台,荒馬 ,笠鉾が神社前に集まった後,順に旧城下を夕方まで巡行する。夕方に神輿が還御すると,荒馬,笠鉾,屋台も自町内に戻るが,その際,屋台は提灯を灯し,賑々しく帰町する。
屋台は,新潟県下越地方によく見られる二層二輪形式で,一層目に囃子方が乗り,
二層目に乗せ物と呼ぶ人形類を乗せる。形態は,ニワカ屋台,お囃子屋台,シャギリ屋台の3種があり,ニワカ屋台からお囃子屋台,あるいはニワカ屋台やお囃子屋台からシャギリ屋台へと展開してきたことが知られている。
浦佐毘沙門堂の裸押合
新潟県の中越地方には,裸押合が色濃く分布し,南魚沼市域をはじめ,長岡市や小千谷市,十日町市 等で広く行われていたが,行事が途絶えたところが少なくない。浦佐の毘沙門堂では,今なお多くの参拝者を集め,裸押合が厳格な儀礼を伴って盛大に行われており,中越地方の他の裸押合にも影響を与えてきた。浦佐毘沙門堂の裸押合は,この地方に伝わる裸押合の典型例であり,行事の運営には地域の年齢集団が関与し,多くの講中の参詣や奉納も見られる等民俗的要素も豊かである。我が国の民間信仰や修正会に由来する民俗行事の変遷や地域差を理解する上で重要である。
毎年3月3日に浦佐にある普光寺の毘沙門堂で行われる行事で、寒冷のなか上半身裸の男たちが除災招福や五穀豊穣などを願って道内で激しく押し合う。行事の運営は、浦佐多門青年団が大きな役割を担っていて、浦佐地域の青年たちの通過儀礼ともなっている。また毘沙門天の信仰を支える講中も新潟県内を中心に各地にあり、行事に際して、大きなローソクや餅が奉納されている。当日は、参加する男たちが夕方から境内で水行を行ったあと、毘沙門堂に集まり深夜まで押し合いを行う。押し合いの最中には、餅や盃などの福物の参与があり、これを裸の男たちが奪い合う。行事の最後には、年男という祭りを主催する井口家の当主が入堂し、五穀豊穣を祈願するササラスリが行われて行事が終了する。
輪島の海女漁の技術
石川県輪島市に伝承される,女性たちの素潜による漁撈の技術である。
岩 礁のある沿岸を主たる漁場とし,貝藻類等を対象に,息をこらえて潜水し,その身
一つと簡易な道具によって,伝統的な採取活動を今日に伝えている。同種の技術としては,昨年度指定した「鳥羽・志摩の海女漁の技術」に続き2件目で,従事者数では全国で2番目(約 200 人)となる。
技術の特色としては,身体能力に個々の差異はあるにせよ,様々な漁獲物の採取方法や自然環境の認知の仕方等,常に集団を基本に継承している点にある。また,それらに伴う周辺習俗もよく残しており,我が国の海女漁を理解する上で重要である。
輪島の海女については,既に『万葉集』や『今昔物語集』等にその存在が散見され,
特に,近世においては加賀藩による庇護を長らく受けてきた。また,その技術のあり様は,素潜り漁という比較的簡潔明瞭なものであることから,古態をとどめた伝統的な漁撈と解されている。
主な漁場としては,能登半島沖の舳倉島や七ツ島 ,嫁礁よめぐり等がある。漁法には,カチカラ,イソブネ,ノリアイの3種があり,カチカラは海女が直接陸から泳いでいって行うもの,イソブネは夫婦・親子等が船に乗り込み,漁をしている女性を男性が綱で引き上げるといった,役割分担して行うもの,ノリアイは1隻の船に男性の船頭と複数の海女たちが乗り合わせ,目的とする漁場でそれぞれが組になって共同作業で行うものである。
また,漁獲物としては,アワビ・サザエをはじめ,ナマコ,イワガキ,カジメ,イワノリ,ワカメ,テングサ,イシモズク,エゴ等があり,そのため,ほぼ年間をとおして行われているが,10 月のみ休漁としている。
勝手神社の神事踊
三重県内に伝承されるかんこ踊りの一つである。伊賀地域のかんこ踊りのなかでも多くの役を必要とする構成となっており,音楽面でも複雑な旋律やリズムを有するほか,伝承形態にも特徴がある。また近県に分布している太鼓踊との関連もうかがわれ,地域的特色や芸能の変遷過程を示して重要である。
伊賀市山畑の勝手神社の秋祭の日に行われる芸能で,胸にカッコと呼ぶ桶胴太鼓(かんこ)を付けた「中踊り」,歌を歌う「歌出し」(立ち歌い、地歌い),大太鼓を打つ「楽打ち」等,計20数名の人数と構成を要する踊りとなっている。 現行演目は「式入(しゅくいれ )」「御宮踊り」「神役踊り」「 左舞の式入 」「津島踊り」の5演目で,歌のある部分と,歌がなく大太鼓のリズムに乗せて踊る部分とが交互に繰り返される構成となっており,かつ複雑な旋律やリズムを有する。また中踊りが背負う飾り(オチズイ)は,牡丹花の作り物から,紙製の花葉を貼り付けた細い竹(ホロバナ)が多数枝垂る美麗なものである。これをなびかせつつ中踊りが踊るほか,立ち歌いが団扇を手に踊り,楽打ちも立ち居を繰り返したり,太鼓の桴(バイ)を回転させたりする等複雑な所作を見せる。なお各役は,適性の高い若者を「コ」として後継者とし,自らは「オヤ」となって教えた後,現役の役を退くという伝承形態を有している。 また除災・雨乞いを目的とする近隣の滋賀県,京都府,奈良県等に分布する太鼓踊との関連をうかがわせる等,地域的特色や芸能の変遷の過程を示して重要である。
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