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#備忘録保存用_信頼している ちひろさんの記事を共有します 【人の死をおもちゃにする】

2022.07.09 21:52

信頼している ちひろさんの Facebookタイムラインを共有します。

一国の元首相が劇的な亡くなり方をしたというので、さまざまな感情が入り乱れ、集合意識が大きく揺れ動いていた。


人の生き死には敬意をもって受け止めるべきだ。しかしこの二年半というもの、人の死というものが集団的なパニックを引き起こすために、あまりに頻繁に利用されてきたという事実がある。本当には亡くなってなどおらず、死に瀕してもいないのに、エキストラまで使って病院で亡くなっていく人々、瀕死の人々の画像が撮影され、メディアで現実のものとして報道されていた。ウクライナでロシア軍が軍事行動を始めたとき、戦闘の起こっていない首都が爆撃に遭っているといって、過去のどこかの戦争の映像やコンピューターゲームの画像までが使われていた。ウクライナ東部でウクライナ軍が爆撃した建物の映像が、ロシア軍のしわざとして報道されたりもしていた。


テレビで一斉に報じているのならば、真実を伝えているはずだと、私たちは思わされてきたのだけれど、実は世界中のほとんどのメディアはグローバル金融会社が資金を出していて、自在に操ることができる。そして、折々のタイミングでパニックを引き起こして、世論を望むように誘導しているのだということがわかってきた。


二年半前にパンデミックが始まったときは、あまりにもまわりの現実とかけ離れていたので、テレビが一斉に嘘をつくことがあるのだと、気がついた人も多い。しかし、こうしたことはそのときに始まったことではなかった。そのうちウクライナでの戦争が始まって、これまでの多くの戦争も、多くが虚偽の報道で印象操作が行われていたことがわかってきた。攻撃者が正義になり、自衛の戦いをしている側が暴虐を働いていると報道された。そして、外からの暴力的な政権交代や経済制裁が正当化されていったのだ。


人が亡くなったという報道があると、それがいかに不自然なものであっても、疑うのは不謹慎だと私たちは思ってしまう。あるいは虚偽なのかもしれないけれど、もし本当だったら亡くなった人や遺族の人たちに失礼だ。だから、報道されたままに受け取るべきなのだと思わせられる。だけど、そうやってパンデミックの虚偽の報道がまかり通り、感染対策のために世界中で多くの犠牲が出たことを考えると、たとえ人の生き死ににかかわることであれ、おかしいと思われるときにはやはりおかしいと言わなければならないのではないかと思う。


少なからぬ人が予測していたことだとは思うけれど、元首相の銃撃の報道が出るやいなや、もうフェイクではないかという情報が次々と拡散され始めた。情報通の多くの人は、もうフェイク映像を見破る目が鍛えられていて、偽物を示す徴をすぐさま見つけ出してしまう。現実の人の死がどのようなものであるかを知っている人、人の心理をよく知っている人は、現場の人の反応やものの言い方やしぐさを見たら、それが本物であるか演技であるかはだいたい見当がつく。最初からニュースは真実を伝えているはずだと思い込んでいなければ、たいていの場合、見抜くのにそれほどの探偵眼を必要とするわけでもない。


人の波動を読み取ることに慣れている人ならば、瀕死の人なのか、そういう演技をしている人なのかは、身体から出ている生命エネルギーでかなりはっきりと見分けることができる。クライシスアクターを使って撮影した遺体の山の映像と、ウクライナの前線から送られてくる遺体の映像は、外見は同じようでも、身体から発している死の生々しさがまったく違う。前線に転がっている本当の遺体は、魂の抜けた袋のようだ。少し前まで生きて動いていたはずの人間が、そのような抜け殻になってしまうということにこそ、死というものの本当の真実がある。だけど、クライシスアクターが演じている遺体の山には、そんな真実味はない。生々しく血の痕がついていても、その人の波動はそんな苦しみを経験している人間のものではない。


有名人の死を偽装することなどは、これまでも何度も行われてきたことが知られている。悪の組織に命を狙われている場合などでは、証人保護プログラムというので、死を偽装することで追っ手を逃れ、別の名前、別の身分証明が与えられて、新しい人生を歩むことができるようになっている。それで、遺体が確認できないような状況での死が演出されたこともよくあったようだ。こうしたことは昔から行われていて、日本では源平合戦のあとで、平家の落ち武者が源氏の追っ手の手から逃れるために、入水自殺したことにして、山里に隠れたりしたこともあった。


一方、社会的なパニックを作り出し、世論を誘導するために、死が演出されることもある。別な原因で亡くなった人を、危険なウィルスで命を落としたということにしたり、あるいは、不名誉な処刑をカモフラージュするために、別な原因での死が偽装されることもある。


主流メディアでのフェイク報道が日常茶飯事になっているような状況で、真実を見抜く目を養うのは、かなり重要なことになってきていると私は思う。フェイク報道が伝えることを現実だと思っていると、第一に真実を見る目が鈍ってしまい、現実から乖離してしまう。嘘っぽい悲哀の演技や、苦悩の演技を真実として受け取っていると、本当の現実のもつ重さや味わいというものがわからなくなってしまう。私たちはそうやって偽の現実を見せられ続けて、現実の認識がおかしくなってしまい、真実を見抜くことができなくなって、いいように誘導される大衆になってしまったのではないか?


人の死は、厳粛に受け留めるべきだ。しかし、それを報道しているメディアが、人の生き死になどおもちゃのように扱って、都合のいいように演出し、報道し、そうやって人々を誘導していることを、まず意識に入れなければならない。そうやって人の生き死にの重さを利用して、私たちを黙らせ、従わせようとしているのだということを、まずは考えなくてはならない。報道されている死がフェイクなのかどうかを疑うことと、一体どちらが人の死をおもちゃにしているのか?


パンデミックが始まってから、まさにこの死のタブーが操作に利用されていると私は感じてきた。だからこのタブーを破って、本当の死、本当の命に触れることが課題になっているのではないかと思った。パンデミックが始まってから2年半、その間にウクライナでの戦争もあり、私たちは絶えずこのテーマを突きつけられてきたような気がする。それが今、この元首相の死の報道で、臨界点に達した感がある。


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画像は、ニュージーランドのタウポ湖