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伝統絵画 作品紹介

2022.07.10 06:20

http://www.w3art.sakura.ne.jp/exh_traditional/collection11.html 【伝統絵画作品紹介】より

※画像をクリックすると大きな作品の画像をご覧になれます。

雪舟 (せっしゅう) 『山水図(破墨山水図)』

破墨山水図部分 破墨山水図

拡大 全体

制作年 1495

寸法(タテ×ヨコ) 148.6×32.7

技法等 紙本墨画

国宝

東京国立博物館

[情報]

雪舟 (1420-1506)

室町時代に活動した水墨画家・禅僧。京都相国寺で修行し、絵を学ぶ。その後、中国(明)に渡り、約二年間、本格的な水墨画に触れ、特に宋・元時代の画家に興味を持つ。日本独自の水墨画風を確立した存在として評価されるとともに、後の日本画壇へ与えた影響は大きい。

江戸時代には、当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めるようになったことから神格化され、現在でも日本の絵画史において別格の高い評価を受けている。

『山水図(破墨山水図)』は、京都相国寺の塔頭慈照院に伝来し、現在も雪舟の基準作に位置づけられる。

雪舟 (せっしゅう) 『慧可断臂図』 (えかだんぴず)

慧可断臂図制作年 1496

寸法(タテ×ヨコ) 199.9×113.6

技法等 紙本墨画淡彩

国宝

京都国立博物館寄託

[情報]

雪舟 (1420-1506)

『山水図(破墨山水図)』の項を合わせて参照。

『慧可断臂図』は、禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面を描いたもの。雪舟、77歳の作。

雪舟 (せっしゅう) 『秋冬山水図』

冬 秋

制作年 1500年頃

[ 右:秋景 左:冬景 ]

寸法(タテ×ヨコ) 47.7×30.2

技法等 紙本墨画

国宝

東京国立博物館

[情報]

雪舟 (1420-1506)

『山水図(破墨山水図)』の項を合わせて参照。

『秋冬山水図』では、雪舟が確立した作風、すなわち、構築的な空間構成、強調された輪郭線、また細い線による簡略化された皴法(しゅんぽう)が見出せる。

たとえば冬景の画面中央から上端にのびる垂直線は調子が強く、この線と周囲の描写との関係は一見わかりにくい。しかしこれは、中国の山水画によく現れる、オーバーハングする断崖の輪郭線が極度に強調されたもの。

狩野永徳 (かのう えいとく) 『梅花禽鳥図』(ばいかきんちょうず)(四季花鳥図襖)16面中4面

梅花禽鳥図

制作年 1566

寸法(タテ×ヨコ) 175.5×142.5

技法等 紙本墨画

京都国立博物館寄託

[情報]

狩野永徳 (1543-1590)

安土桃山時代の絵師。

室町時代から明治に至る400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった狩野派の4代目に当たる。

狩野派は、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信が初代とされ、次の狩野元信によってその画風は大成し、後の狩野派繁栄の基礎が築かれたと言われている。

永徳は3代目の狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたる。狩野派一族の中でも傑出した存在として名高い。雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる。

狩野派の棟梁として織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を制作した。

『梅花禽鳥図』は、大徳寺塔頭・聚光院(じゅこういん、京都市紫野)方丈の障壁画のひとつとして制作された『四季花鳥図襖』16面の中の梅図。 永徳は方丈の障壁画を父松栄と共に描いた。永徳は『花鳥図』16面および『琴棋書画図』8面を手掛けたとされる。

狩野永徳 (かのう えいとく) 『唐獅子図屏風』

唐獅子図屏風制作年 16世紀後半

寸法(タテ×ヨコ) 224.2×453.3 六曲一隻

技法等 紙本金地着色

宮内庁三の丸尚蔵館

[情報]

狩野永徳 (1543-1590)

『梅花禽鳥図』の項を合わせて参照。

『唐獅子図屏風』は、豪快な迫力性と独特の装飾性が施された、永徳のみならず狩野派一派としての傑作。永徳が築き上げた大画様式の集大であるとともに、安土桃山の気風そのものが表れているよう。

一隻として屏風化されたが、後に狩野常信が右隻の図様にあわせて左隻を制作し、今日は一双として伝わる。

長谷川等伯 (はせがわ とうはく) 『枯木猿猴図』 (こぼくえんこうず)

枯木猿猴図 枯木猿猴図

制作年 16世紀後半

寸法(タテ×ヨコ) 155.0×115.0

技法等 紙本墨画

重要文化財

京都 龍泉庵

[情報]

長谷川等伯 (1539-1610)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。狩野永徳と並び桃山時代を代表する画家。永徳との確執も伝えられる。

等伯は能登半島の七尾の出身。30歳過ぎてから京に上洛する。当時の主流であり、一時はその門を叩いたとも言われる狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち、その様式に学びつつも、千利休ら堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立していった。

『枯木猿猴図』は、千利休との交流から大徳寺に出入りするようになった後、同寺が所蔵する中国鑑賞画中の至宝である牧谿筆「猿猴図」(国宝)の直接的な影響のもとに成った作品と推定されている。

元々は六曲一双の屏風絵として描かれた作品の、右隻右側4扇分を掛け軸2幅に改装されて現在に至る。

狩野永徳 (かのう えいとく) 『檜図屏風』(ひのきずびょうぶ)

左隻 右隻

制作年 1590

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 170.0x230.4 四曲一双

技法等 紙本着色

国宝

東京国立博物館

[情報]

狩野永徳 (1543-1590)

『梅花禽鳥図』の項を合わせて参照。

『檜図屏風』は、もとは襖絵の一部として描かれたもの。永徳が製作の最後まで立ち会えたか否か不詳であるが、観る者を圧倒する巨木中心の構成と金地濃彩の豪華絢爛さは、彼のつくりあげた絵画様式を伝えて迫力に溢れている。

長谷川等伯 (はせがわ とうはく) 『楓図』(旧祥雲寺障壁画のうち)

楓図制作年 1592

寸法(タテ×ヨコ) 177.0×554.0

技法等 

国宝

智積院

[情報]

長谷川等伯 (1539-1610)

『枯木猿猴図』の項を合わせて参照。

『楓図』は、豊臣秀吉の三歳で夭折した長男、鶴松の菩提を弔うために建立された京都の祥雲寺(現在の智積院)の客殿障壁画として、長谷川一門と共に勢力を尽くし制作された作品の中の、雄雄しく大地に立つ楓の巨木を描いた作品。

紅葉の葉や木犀、鶏頭、萩、菊が色彩豊かに入り乱れる装飾的表現や、自然的躍動感に溢れる豪壮かつ繊細な描写、さらに金碧の背景に映える群青色で描かれた流水の流線の優美性、重量感を感じさせる画面下の岩の硬質性、巨木や草花の生命感、長い年月の経過を感じさせる木肌の質感など、画面内における対照性と調和性の見事さも特筆に値する。

長谷川等伯 (はせがわ とうはく) 『松林図屏風』

右隻

左隻

制作年 16世紀末期

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 156.8×356.0 六曲一双

技法等 紙本墨画

国宝

東京国立近代美術館

[情報]

長谷川等伯 (1539-1610)

『枯木猿猴図』の項を合わせて参照。

『松林図屏風』は、日本美術史上の最高傑作の一つ。日本美の究極の姿ともいわれる。1999年にNHKが美術関係者を対象に行った「日本美術100選」のアンケートでは1位に選ばれている。

本作はその伝来、製作の事情など不明な点が多いが(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)、極限にまで切り詰めた筆数と黒一色をもって松林の空間的ひろがりとそこにただよう湿潤な大気とを見事に表現した、400年前の作とは思えない斬新な作品。静謐な詩情性と精神性に満ち溢れており、従来の様式に無い、画家独自の絵画様式・絵画世界といわれる。

岩佐又兵衛 (いわさ またべえ) 『官女観菊図』

官女観菊図制作年 17世紀前半

寸法(タテ×ヨコ) 131.0×55.6

技法等 墨画淡彩

重要文化財

山種美術館

[情報]

岩佐又兵衛 (1578-1650)

戦国武将の荒木村重の子として摂津・有岡城(現兵庫県伊丹市)で生まれた。翌年、村重が主君・織田信長に謀反を起こして失敗し、 一族の多くが処刑されたが、又兵衛は落城間際に救出され、石山本願寺にかくまわれた。 その後は母方の姓「岩佐」を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。40歳くらいの時、越前福井藩に招かれて福井へ移住し、20年あまりをこの地で過ごし、60歳くらいの時に3代将軍徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住んだ。 多くの名作を残し、江戸で没している。

俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、卓越した技巧と独特の妖しさで、大和絵から漢画、人物から動物まで、あらゆる絵画に通じていた。

「浮世又兵衛」とも俗称され、初期風俗画の先駆者の一人であったことなどから、浮世絵の始祖とされる。

『官女観菊図』は、元々、福井の豪商金谷家に伝わっていた紙本・六曲一双の押絵貼屏風(屏風の一扇一扇に一枚ずつ絵を貼ったもの)の内の一扇。旧金谷屏風とも通称され、現在は一扇ごと軸装され、諸家に分蔵されている。

俵屋宗達 (たわらや そうたつ) 『風神雷神図屏風』

左隻 右隻

制作年 1635年頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 154.5×169.8 二曲一双

技法等 紙本金地着色

国宝

京都国立博物館寄託

[情報]

俵屋宗達 (ca.1570-ca.1640)

京都の富裕な町衆に属し、この時代の上層文化において重要な役割を担ったと考えられるが、その生涯については未詳の部分が多い。〈俵屋〉を屋号とする絵屋(扇絵や巻物、色紙等を製作する工房)を主宰する傍ら、町絵師として斬新でユニークな造形による作品を自らも描き、金銀泥を駆使した装飾性のつよい生命感あふれる新様式を確立。また「たらし込み」の手法を試み、水墨画にもすぐれた作品を残している。

『風神雷神図屏風』は、モチーフ自体は古くからのものだが、この絵が風神と雷神の特徴とその関係をイメージさせるほどインパクトの強い作品であり、宗達の独創性が示された作品ともいえる。金箔、銀泥と墨、顔料の質感が生かされ、宗達の優れた色彩感覚を伺わせるほか、両神の姿を強烈に印象付ける。

俵屋宗達 (たわらや そうたつ) 『松島図屏風』

右隻

左隻

制作年 16世紀末期

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 166.0×369.9 六曲一双

技法等 紙本金地着色

フリーア美術館

[情報]

俵屋宗達 (ca.1570-ca.1640)

『風神雷神図屏風』の項を合わせて参照。

『松島図屏風』は、堺の豪商が作成を依頼し、堺の祥雲寺に寄贈されていたが、明治時代後半にアメリカに流出してしまった。宗達の代表作の一つだが、江戸時代後期から明治時代にかけては宗達の評価は高くなく、1960年代までは存在さえあまり知られていなかったらしい。日本に残っていれば間違いなく国宝に指定されていたといわれる。

かつては荒磯屏風(あらいそびょうぶ)と呼ばれていたことがわかっており、日本三景の松島を描いた作品ではない。

俵屋宗達 (たわらや そうたつ) 『鶴下絵和歌巻』(部分)(下絵・宗達、書・本阿弥光悦)

鶴下絵和歌巻制作年 17世紀

寸法(タテ×ヨコ) 34.0×1356.0

技法等 絵巻物

京都国立博物館

[情報]

俵屋宗達 (ca.1570-ca.1640)

『風神雷神図屏風』の項を合わせて参照。

『鶴下絵和歌巻』は、本阿弥光悦の書蹟の代表作としても知られている。

長大な巻物の冒頭から繰り広げられる鶴の群れは、一様に金と銀の泥で表現される。単純そのものの筆使いで捉えられていながら、シルエットが美しい。

狩野探幽 (かのう たんゆう) 『雪中梅竹遊禽図襖』

雪中梅竹遊禽図襖

制作年 1634

寸法(タテ×ヨコ) 191.3×135.7 四面

技法等 紙本淡彩金泥引

重要文化財

名古屋城

[情報]

狩野探幽 (1602-1674)

江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。永徳の孫にあたる。早くから画才を発揮し、永徳の再来と賞賛される。

祖父永徳が築き上げた戦国武将好みである画面からはみ出さんばかりの絢爛かつ豪壮な桃山様式から、画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした小気味の良い軽妙で詩情性豊かな表現を用いて独自の美の世界を確立。天下太平の世となった江戸時代に相応しいその美の世界は同時代の美意識に決定的な影響を与えたと同時に、江戸幕府の御用絵師として狩野派一族の地位を不動のものとした。

『雪中梅竹遊禽図襖』は、名古屋城に徳川家光が上洛の途中で立ち寄った時の迎賓の部屋として新築された、≪上洛殿三の間≫の装飾襖の北側4面として制作された作品。

程好く画面内へ収められた全体の構図、余白部分による抒情性と緊張感の構築に、絵師が築き上げた独自の美の世界観が表れている。

狩野探幽 (かのう たんゆう) 『桐鳳凰図屏』

右隻

左隻

制作年 17世紀中頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 158.2×377.6

技法等 紙本金地着色

サントリー美術館

[情報]

狩野探幽 (1602-1674)

『雪中梅竹遊禽図襖』の項を合わせて参照。

『桐鳳凰図屏』は、麒麟、霊亀、応龍と共に四瑞(四霊)として慶事の画題に重宝された≪鳳凰(四瑞では平安を意味する)≫を描いた屏風絵。余白と曲線的な構成要素の配置に、軽みの極みとも言える瀟洒淡白な探幽様式の典型を見出すことができる。

宮本武蔵 (みやもと むさし) 『枯木鳴鵙図』(こぼくめいげきず)

枯木鳴鵙図制作年 1645年以前

寸法(タテ×ヨコ) 125.5×54.3

技法等 紙本墨画

重要文化財

和泉市久保惣記念美術館

[情報]

宮本武蔵 (1584-1645)

言わずと知れた剣豪・宮本武蔵は、書画においても一流であった。

『枯木鳴鵙図』は、武蔵が晩年、熊本に滞在していた頃に描かれたと思われる。荒涼とした草むらから鋭く上へと伸びた一本の枯木。枝の先には一羽の鵙。そして、枯木を登る一匹の芋虫。武芸者として剣の道を究めんとし、生と死の狭間に横たわる緊張と無常なる命運を誰よりも身近に見つめてきた武蔵ならではの一枚。

尾形光琳 (おがた こうりん) 『燕子花図』(かきつばた 英語ではアイリス)

右隻

左隻

制作年 18世紀初め

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 150.9×338.8 六曲一双

技法等 紙本金地着色

国宝

根津美術館館

[情報]

尾形光琳 (1658-1716)

後代に「琳派」と呼ばれる画派を生み出しその始祖と位置付けられるが、知られるようにその系譜は宗達に遡る。琳派とは、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させたものであり、直接・間接的な影響を受けた、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称とされる。

光琳は京都の呉服商の生まれであり、その環境から強くデザインの影響を受け、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。作画に斬新な構図や画面展開を取り入れ、明瞭かつ装飾的でありながら革新的な独自の様式を確立。その革新性の高い独自の様式は、当時最大の画派であった狩野派とは一線を画し、今なお琳派最大の絵師のひとりとして高い評価を得ている。作品には雅かつ明快なセンス、都市的な感覚と意匠があふれ、現代に至るまで、日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。

なお、生来遊び人であったとされ、光琳が画業に傾注したのは家業の経営難で激減した収入を絵で補うという面が大きかったためともいわれる。

『燕子花図』は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。平安時代に成立した、最も著名な日本の歌物語のひとつ≪伊勢物語(著者不明)≫の第九段「八橋」の場面を描いた作品で、光琳は生涯でしばしば、この燕子花を意匠とした作品を手がけていることが知られている。(例えば、メトロポリタン美術館蔵の『八橋図』六曲屏風二隻。)

尾形光琳 (おがた こうりん) 『風神雷神図』

左隻 右隻

制作年 18世紀初め

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 166.0×183.0 二曲一双

技法等 紙本金地着色

重要文化財

東京国立博物館

[情報]

尾形光琳 (1658-1716)

『燕子花図』の項を合わせて参照。

『風神雷神図』は、尾形光琳の屏風絵の中でも特に重要視される作品のひとつ。本作は光琳が深く感銘と影響を受けていた17世紀を代表する絵師俵屋宗達が手がけた傑作『風神雷神図屏風』を模作した作品であるが、細部では光琳の解釈に基づいた独自性が示されている。

尾形光琳 (おがた こうりん) 『紅白梅図屏風』

左隻 右隻

制作年 1710年頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 156.0×172.2 二曲一双

技法等 紙本金地着色

国宝

MOA美術館

[情報]

尾形光琳 (1658-1716)

『燕子花図』の項を合わせて参照。

『紅白梅図屏風』は、光琳が晩年に手がけた代表作であり、琳派芸術の最高傑作ともいわれる。

光琳梅と呼ばれ輪郭と花弁のみで構成される非常に単純化された梅花の表現、梅の樹幹の写実的な表現手法として用いられた≪たらし込み≫技法、また光琳波と呼ばれるS字に屈曲し渦巻模様に図案化された独特の水流部分など、特筆すべき点が多い。

更に、金地の明と水流の暗、老熟した白梅の樹の静と若々しい紅梅の樹の動、写実性とデザイン性など多くの対照性が認められ、見るものを魅了するのと同時に想像力を喚起させ、本作に込められたテーマについて様々な説が唱えられている

尾形光琳 (おがた こうりん) 『松島図』

松島図制作年 18世紀初め

寸法(タテ×ヨコ) 150.2×367.8 六曲一隻

技法等 紙本金地着色

ボストン美術館

[情報]

尾形光琳 (1658-1716)

『燕子花図』の項を合わせて参照。

『松島図』は、宗達が描いた作品を模したものであるが、『風神雷神図』と同様、構図や細部において光琳の独自の表現が試みられている。何度か模作しているようであるが、ボストン美術館にある本作が有名で、これはアーネスト・フェノロサが買い求めたもの。これを含めた光琳の作品が海外に渡ることにより、光琳が世界的に高い評価を得ることに繋がった。

伊藤若冲 (いとう じゃくちゅう) 『動植綵絵』の内三枚

芍薬群蝶図 老松白鶏図 南天雄鶏図

制作年 1757-1766

寸法(タテ×ヨコ) 141.8~142.9×79.0~79.8

技法等 絹本着色

重要文化財

宮内庁三の丸尚蔵館

[情報]

伊藤若冲 (1716-1800)

美術史家、辻惟雄によって「奇想の画家」として取り上げられ、現代に再評価された画家の一人。同時代では他に、曾我蕭白と長沢芦雪が「奇想の画家」として知られる。

若冲は、生前こそ「平安人物志」で円山応挙に次ぐ絵師として記されるほど人気が高かったが、明治時代には奇抜な作風から不当に評価を下げられ忘れられた存在となっていた。20世紀後半から再評価が進み、1990年代には独創性豊かな京都を代表する絵師として広く認められている。

1716年、尾形光琳が死去したその年に京都の裕福な青果問屋「桝屋(ますや)」の長男として生を受ける。早くから絵画に興味を抱き、狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)に学び模写に励んだことが伝わっている。さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したとされている。

30代中頃には参禅して「若冲居士(こじ)」の号を与えられ、40歳で隠居して絵を描くことに本格的に専念する。生涯独身であり、酒や芸事など世間の雑事には全く興味を示さなかったと伝えられる。

ちなみに1716年には与謝野蕪村も誕生している。二人に直接的な交流があったかどうかは認められていないが、二人の共通の知人を通してお互いを知っていたことは確実だと考えられる。

『動植綵絵』は、40歳を過ぎて画業に専念後、10年近くの歳月をかけて完成させた30幅におよぶ大作。相国寺に寄進され、明治天皇に献納された後、現在は宮内庁が管理している。鳥、鳳凰、草花、魚介類などが、さまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す華麗な作品群であり、綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂う。また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。

曾我蕭白 (そが しょうはく) 『琴棋書画図』

右隻

左隻

制作年 1760

寸法(タテ×ヨコ) 174.8×390.8

技法等 

ボストン美術館

[情報]

曾我蕭白 (1730-1781)

江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた。流派に属さず、自由な制作活動を行ったことが知られている。ときに画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。1774年の『平安人物志』には、20人中15番目に載っている。

京都の商家の子として生まれているが、若くして両親と死別している。生涯については不明な点が多い。7歳年上の南画家池大雅と親交があったと伝えらえ、一方、当代随一の人気絵師であった円山応挙には思うところがあったらしく、ある時戯れに「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と語ったという。

明治時代には忘れられており、多くの作品が失われたり破損したりしていた。そのため、ビゲローによってこうした作品の多くがボストン美術館に持ち込まれることになり、現在は同美術館が最大の蕭白コレクションを所有している。。

『琴棋書画図』は、琴と碁と書と画の四芸を画題として描かれた絵。琴棋書画は、昔の中国において知識階級や官僚らが身につけるべきとされた余技のこと。蕭白は、濃墨を用い、荒々しい筆致で樹木や岩をデフォルメして描く作風を得意としているが、最大の特徴は、どうしても絵に表れてしまうその気魄とユーモアだといえるのかもしれない。

曾我蕭白 (そが しょうはく) 『雲龍図』(旧祥雲寺障壁画のうち)

雲龍図制作年 1763

寸法(タテ×ヨコ) 165.6×135 襖八面(内二面。展覧コーナーでは全図紹介)

技法等 紙本墨画

ボストン美術館

[情報]

曾我蕭白 (1730-1781)

『琴棋書画図』の項を合わせて参照。

『雲龍図』は、横10メートル以上に及ぶ襖絵として描かれた巨大な水墨画。画面いっぱいに、大胆な構図で描かれた迫力満点の龍。クローズアップされた龍頭に度肝を抜かれる。墨特有の滲みと濃淡が生み出すスペクタクル。水墨画のあらゆる技法が駆使され、蕭白の最高傑作といわれている。

曾我蕭白 (そが しょうはく) 『群仙図屏風』

右隻

左隻

制作年 1764

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 六曲一双

技法等 紙本着色

国宝

文化庁

[情報]

曾我蕭白 (1730-1781)

『琴棋書画図』の項を合わせて参照。

『群仙図屏風』は、蕭白の代表作で、日本美術史上類を見ない奇想天外な作品。水墨を主体として描かれた景観に奇怪な八人の仙人が濃彩で描かれているが、奇抜な形態、波を描く特異な線質などの蕭白画の特質に加え、強烈な色彩が妖しい印象をより深めている。

池大雅 (いけの たいが) 『楼閣山水図屏風』

右隻

左隻

制作年 1765年頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 168.7×745.2 六曲一双

技法等 紙本金地着色

東京国立博物館

[情報]

池大雅 (1723-1776)

与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。

京都で役人の下役の子として生まれる。早くに父を亡くすが、幼い頃から漢文や書道に優れた才能を示す。柳沢淇園(きえん)の影響をうけ、文人画を独学。日本各地を旅し、詩情豊かな作品を生み出した。

ところで文人画とは、画風や画法だけでなく、知識人が余技として絵を描くというスタイルや、優れた絵画は優れた精神・人格によって生み出されるという考え方についても中国の南宋画に由来し、日本では「南画」とも称される。技巧だけでは表現し得ない内面性や精神性が重視され、おおらかな画風や抒情的な絵画表現にその本来の特色があるとされる。

江戸時代後期には一大画派となったものの、明治時代には美術界を主導するフェノロサや岡倉天心から「つくね芋山水」として低く評価され、やがて衰退していく。

『楼閣山水図屏風』は、中国がら伝わった小画帖中の2図が原図になっている。池大雅は、インスピレーションに基づきながら原図を一挙に金地の大画面に拡大し、緑青、群青、朱などの濃彩を用いて独自の画風を編み出した。

与謝蕪村 (よさ ぶそん) 『柳堤渡水』『丘辺行楽図』

右隻

左隻

制作年 18世紀

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 139.0×363.0 六曲一双

技法等 紙本墨画淡彩

ボストン美術館

[情報]

与謝蕪村 (1716-1784)

大坂の農家に生まれ、20歳頃に江戸へ出て俳諧を学ぶ。27歳の時、俳諧の師匠の逝去を機に、北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴し、その後40歳頃から京都へ移り俳諧と絵画のふたつの分野で活躍した。画業においては、国内のさまざまな流派はもとより、中国諸家の作品や版本類を研究して自己の画風を形成した。

作家としては、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。

『柳堤渡水』と『丘辺行楽図』は、二つで一双をなす蕪村の大作。唐人物を題材としながら、蕪村特有の俳諧に通じる軽妙洒脱な趣致がみられる。

白隠慧鶴 (はくいん えかく) 『布袋吹於福図』(ほていおふくをふくのず)

布袋吹於福図制作年 18世紀後半

寸法(タテ×ヨコ) 135.0×75.0

技法等 

大洲市立博物館

[情報]

白隠慧鶴 (1686-1769)

白隠は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。仏教の世界では、五百年に一人の禅僧としてたたえられる。広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いたことでも知られる。

『布袋吹於福図』は、右幅では煙管を手にした布袋が煙を吐き出し、左幅ではその煙の中からお福が現れる。お福は美醜の判断を超越し、人々に福をもたらす象徴として白隠がよく描いたキャラクターであり、着物には梅鉢の模様と「寿」の紋が入る。愛媛県の大洲市の禅寺に伝わった作品。

白隠慧鶴 (はくいん えかく) 『半身達磨(朱達磨)』

朱達磨制作年 1767年頃

寸法(タテ×ヨコ) (190×113)

技法等 

萬壽寺

[情報]

白隠慧鶴 (1686-1769)

『布袋吹於福図』の項を合わせて参照。

『半身達磨(朱達磨)』は、80歳を越えての最晩年作で、禅宗の開祖である達磨大師を描いた作品。縦2メートル近くある大作。「朱達磨」と通称される。背景を墨で塗りつぶすことにより、朱の衣を着た大達磨がぐっと浮かび上がり、鑞(ろう)引きで「直指人心、見性成仏」の賛が入る。「自分の心にこそ仏が宿り、それを自覚することで仏になる」と白隠は説いている。

円山応挙 (まるやま おうきょ) 『群鶴図』

右隻

左隻

制作年 1772

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 170.8×349.9 六曲一双

技法等 

ロサンジェルス・カウンティ美術館

[情報]

円山応挙 (1733-1795)

近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖。現在の京都府亀岡市に農家の次男として生を受ける。十代の後半には上洛し、丁稚奉公しながら狩野派の絵師のもとで学ぶ。写生を重視したことで知られ、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。

『群鶴図』は、様々な形態の17羽の鶴を金地の背景に描いた作品。応挙の卓越した画技と平明で親しみやすい画風といった特色がよく表れている。

円山応挙 (まるやま おうきょ) 『藤花図屏風』

右隻

左隻

制作年 1776

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 156×360 六曲一双

技法等 紙本金地着色

根津美術館

[情報]

円山応挙 (1733-1795)

『群鶴図』の項を合わせて参照。

『藤花図屏風』は、たらし込み(琳派の絵師たちが用いたことでも知られる)に類する技法を用いて、奔放に曲がりくねる藤の幹や蔓が描写されている。また、花弁や葉ひとつひとつの表現には応挙の得意とした≪付立て(幅広の筆に墨を浸ける際、微妙な濃淡の変化が生まれるよう工夫し、輪郭線を用いず、墨の濃淡でのみ対象の形状と立体感を表現する技法)≫技法が用いられている。

池大雅 (いけの たいが) 『春景山水図』

春景山水図制作年 18世紀

寸法(タテ×ヨコ) 158.7x69.20

技法等 

クリーブランド美術館

[情報]

池大雅 (1723-1776)

『楼閣山水図屏風』の項を合わせて参照。

『春景山水図』は、淡い彩色、やわらかな筆線、墨色の濃淡、くにゃくにゃとした景観の描写に、如何にも大雅風の表現が表れている。

与謝蕪村 (よさ ぶそん) 『夜色楼台図』

夜色楼台図制作年 18世紀

寸法(タテ×ヨコ) 27.9x130.0

技法等 

国宝

個人蔵

[情報]

与謝蕪村 (1716-1784)

『柳堤渡水』『丘辺行楽図』の項を合わせて参照。

『夜色楼台図』は、蕪村晩年の傑作。柔らかな稜線の山々や木々、切妻の家が立ち並ぶ京都の町並みにしんしんと雪が降り積もる光景が、縦28cm、横約130cmという日本画としては珍しい横長の画面に描かれている。家々の障子からは明かりが漏れ、雪夜の底では人々の暮らしが息づいている。

日本で最初に描かれたパノラマの夜景図といわれる。まるで絵をかくように句を詠み、句を詠むように絵をかくと言われる蕪村独自の世界観ならではの一枚。その絵の前に立てば、唯一無二の、歴史的な傑作に出会うということの意味が分かるだろう。

円山応挙 (まるやま おうきょ) 『雪松図屏風』

右隻

左隻

制作年 1776

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 155.5×362.0 六曲一双

技法等 紙本金地着色

国宝

三井記念美術館

[情報]

円山応挙 (1733-1795)

『群鶴図』の項を合わせて参照。

『雪松図屏風』は、応挙の最高傑作といわれる作品。右隻雄松の幹部分では、応挙の代表的な表現技法とも呼べる≪付立て≫を用いて、松の自然的な質感と立体感を描写しており、また幹や枝葉部分では雌雄の松共に≪片ぼかし(墨色の濃淡によって片方のみを暈す技法)≫を用いて降り積もる美しい白雪が表現されている。さらに画面下部では朝日を反射し輝きを帯びる新雪を、金泥を刷いた黄金の粒によって表現している。

勝川春章 (かつかわ しゅんしょう) 『雪月花図』

雪月花図制作年 1785年頃

寸法(タテ×ヨコ) 93.0×32.3×3

技法等 肉筆画

重要文化財

MOA美術館

[情報]

勝川春章 (1726-1793)

江戸時代中期を代表する浮世絵師。勝川派の祖。特に役者絵においては、それまでの鳥居派の典型を破って写実的似顔絵を始めた。本人はやがて肉筆画に専念してゆき、肉筆画において優れた美人画を数多く残した。

なお、葛飾北斎は勝川春章の門下としてその画道をスタートしている。(勝川春朗。後に破門される。)

『雪月花図』は、春章の肉筆美人画の代表作として知られる作品。雪月花の三幅対を平安王朝の三才媛(清少納言、紫式部、小野小町)の見立絵とし、これを当世市井の婦女風俗に描き替えている。

鳥居清長 (とりい きよなが) 『吾妻橋下の涼船』

吾妻橋下の涼船制作年 1785年頃

寸法(タテ×ヨコ) 38.7x26x3

技法等 大判錦絵三枚続き

メトロポリタン美術館

[情報]

鳥居清長 (1752-1815)

鳥居清長は、すらりとした8等身の美人群像で一世を風靡した。特に大判の続物によるワイド画面を積極的に採用し、写実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称された。

『吾妻橋下の涼船』は、隅田川の初夏の川遊びの一場面を描いた作品。この絵には若い男女が舟遊びをしているさまが描かれているが、こんな遊びが出来たのは年配の金持ち(例えば、清長の別の代表作『隅田川船遊び』 )に限るようで、この絵は江戸人の夢と憧れをかき立てたフィクションらしい。

鳥居清長 (とりい きよなが) 『柳下美人図』

柳下美人図制作年 1785年頃

寸法(タテ×ヨコ) 87.5x34.4

技法等 肉筆画

ボストン美術館

[情報]

鳥居清長 (1752-1815)

『吾妻橋下の涼船』の項を合わせて参照。

鳥居清長は、女性を細身で優雅に描くことによってエレガントで気品のある表現を確立したが、そのスタイルは、19世紀のヨーロッパやアメリカにおいて、日本画を収集しそこから学ぼうとした多くのアーティストに影響を与えた。

『柳下美人図』は、浮世絵ではよく取り上げられるテーマの一つで、柳と納涼する美人の組み合わせによって夏の暑さをしのぐ日本的な情緒を描いている。

長沢芦雪 (ながさわ ろせつ) 『丹頂鶴図』

丹頂鶴図制作年 18世紀

寸法(タテ×ヨコ) 122.5×47.4

技法等 

ボストン美術館

[情報]

長沢芦雪 (1754-1799)

円山応挙の高弟。師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した。「奇想の絵師」の一人。

その絵は伝えられる性格そのままに、自由奔放、奇抜なもので、黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など師である応挙の作風から逸脱している。

『丹頂鶴図』は、写実的に描かれた芦雪にしてはまともな作品であるが、その基礎である画力の確かさを伺い知ることができる。

喜多川歌麿 (きたがわ うたまろ) 『品川の月』

品川の月制作年 1788年頃

寸法(タテ×ヨコ) 202.2x356.0

技法等 肉筆画

フリーア美術館

[情報]

喜多川歌麿 (1753-1806)

写楽、北斎、広重らと並び国際的に高名な浮世絵師。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家。

『品川の月』は、栃木の豪商の依頼で制作された三幅の大作「深川の雪」・「品川の月」・「吉原の花」(「雪月花」) のうちの一枚。画面の大きさや制作年代は少しずつ異なるものの、いずれも紙本着色の大幅。

現在、「花」はアメリカのワズワース・アセーニアム美術館に、「雪」(近年、再発見され話題に)は神奈川県箱根町の岡田美術館にそれぞれ所蔵されている。

呉春 (ごしゅん) 『白梅図屏風』

右隻

左隻

制作年 1789年

寸法(タテ×ヨコ) (171.1×372.7) 六曲一双

技法等 絹本墨画淡彩

国宝

逸翁美術館

[情報]

呉春 (1752-1811)

四条派の始祖。最初は趣味や余技として絵を学び始めたが、与謝蕪村の内弟子となったころから本格的に俳諧師や絵師として身を立てていく。俳画や俳諧での号は「月渓」。

師・蕪村の死後、次第に師匠の南画とは対照的な画風である円山応挙に接近してゆき、文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転進していく。この頃、呉春は応挙に弟子入りしようとしたが、蕪村と交流があり呉春の画才を認めていた応挙は、呉春を莫逆の友として遇し、「ただ共に学び、共に励むのみ」と答えたという逸話が残る。応挙が亡くなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。

円山派の写生画が、時に生真面目すぎて窮屈な感じを与えるのに対し、呉春の写生画には平明で都会的な洒脱な要素が加味されている。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。

『白梅図屏風』は、蕪村様式から応挙様式へと移行をはじめた頃の制作と考えられている。藍染の色糸で織った絹地を絵絹に用い、幹や枝は墨の付立であらわし、胡粉により無数の花弁を浮き立たせている。

伊藤若冲 (いとう じゃくちゅう) 『樹花鳥獣図屏風』 (じゅかちょうじゅうず びょうぶ)

右隻

左隻

制作年 1789年

寸法(タテ×ヨコ) 右 137.5×355.6 左 137.5×366.2cm

技法等 紙本着色

静岡県立美術館

[情報]

伊藤若冲 (1716-1800)

『動植綵絵』の項を合わせて参照。

『樹花鳥獣図屏風』は、江戸時代の絵とは思えない斬新さで目を奪われる、若冲ならではの独創性が如何なく発揮された作品。「枡目描き」と呼ばれる奇想天外な描法が用いられているが、西陣織の下絵から着想を得、織物の質感を絵画で表現しようとしたのではと考えられている。

先に「枡目描き」を使用して描かれた絵に『白象群獣図』(墨画淡彩)があり、こちらの「枡目」の仕上がりの確かさと比較すると本作品は丁寧さに欠けるといわれ、若冲自作ではなく、若冲の下絵を元に弟子たちが描いた工房作との批評もある。そのデザイン志向や意匠性の高さから、何らかの染織品の下絵として制作されたとの見方もある。

また、「枡目描き」として知られるもう一枚の絵に、プライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』があるが、こちらは『樹花鳥獣図屏風』と同様な構図と色彩で描かれていることもあり、作者不明の模倣作といった指摘があるなど、未だ論争に絶えない。

喜多川歌麿 (きたがわ うたまろ) 『寛政三美人(当時三美人)』

寛政三美人制作年 1793年

寸法(タテ×ヨコ) 39.3×26.3

技法等 大判錦絵

リンク

[情報]

喜多川歌麿 (1753-1806)

『品川の月』の項を合わせて参照。

歌麿は蔦屋重三郎の援助を得て抜群の才を発揮、大首半身物の美人画や「美人大首絵」で特に人気を博した。

『寛政三美人』は、寛政期に実在した評判の美人娘3人を描いた作品。

東洲斎写楽 (とうしゅうさい しゃらく) 『役者大首絵』より3枚

役者大首絵 役者大首絵 役者大首絵

制作年 1794年

寸法(タテ×ヨコ) 36.8~38.3×23.6~25.7

技法等 大判版画

東京国立博物館 / ボストン美術館 / ボストン美術館

[情報]

東洲斎写楽 (1763-1820)

約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる。現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力となっている。

なお、写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された。

『役者大首絵』は、デフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性を大胆かつ巧みに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品。その個性的な作品は強烈な印象を残さずにはおかない。

歌川豊国 (うたがわ とよくに) 『遊女と禿(かむろ)図』

遊女と禿(かむろ)制作年 1795年

寸法(タテ×ヨコ) 89.7×27.8

技法等 肉筆画

ボストン美術館

[情報]

歌川豊国 (1769-1825)

清長風や歌麿風を取入れて独自の様式を模索しながら、理想の美しさを表現した役者絵や美人画で絶大な人気を得た。

多数の門人を抱え、歌川広重も入門を希望したが門生満員で断られたという。歌川派の中興の祖として浮世絵界における最大派閥を形成した。

『遊女と禿(かむろ)図』は、多くの浮世絵師が描いている浮世絵のテーマの一つ。(例えば、喜多川歌麿 『Courtesan with Child Attendant』 )

禿とは、遊郭に住み込む幼女のこと。最上級の太夫や花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学んだ。

歌川豊国 (うたがわ とよくに) 『吉原大門内花魁道中図』

吉原大門内花魁道中図制作年 1795年頃

寸法(タテ×ヨコ) 46.0×69.0

技法等 肉筆画

ボストン美術館

[情報]

歌川豊国 (1769-1825)

『遊女と禿(かむろ)図』の項を合わせて参照。

『吉原大門内花魁道中図』は、初代歌川豊国の肉筆画の傑作。太鼓持、若旦那、花魁と禿らのそれぞれの表情や立ち居振る舞いが鮮やかに描かれ、吉原大門内の道中の情景をパノラマの風景の中に配すことによって、吉原の華やかな別世界を強調している。

伊藤若冲 (いとう じゃくちゅう) 『象と鯨図屏風』

右隻

左隻

制作年 1795

寸法(タテ×ヨコ) 159.4×354.0

技法等 紙本墨画

MIHO MUSEUM

[情報]

伊藤若冲 (1716-1800)

『動植綵絵』の項を合わせて参照。

『象と鯨図屏風』は、若冲の最晩年の作。北陸の旧家に伝わったもので、2008年夏に存在が知られた。海の王者と陸の王者とがエールを交換しているような情景は、奇抜さを特色とする若冲の絵の中でも他に例をみない。

長沢芦雪 (ながさわ ろせつ) 『山水唐人物図屏風』

右隻

左隻

制作年 1795-99年

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 171.1×372.7 六曲一双

技法等 紙本金地墨画

メトロポリタン美術館

[情報]

長沢芦雪 (1754-1799)

『鶴図』の項を合わせて参照。

『山水唐人物図屏風』は、左隻には長江に穿かれた絶壁の荒々しさを、右隻には穏やかな景色の中に隠遁した老詩人と若い弟子を描くことで、動と静を対比させた作品。

歌川豊国 (うたがわ とよくに) 『Plum-Blossom Viewing Party Imitating a Boating Party』

梅見船遊び制作年 1803年

寸法(タテ×ヨコ) 39×74.9

技法等 錦絵

ボストン美術館

[情報]

歌川豊国 (1769-1825)

『遊女と禿(かむろ)図』の項を合わせて参照。

『Plum-Blossom Viewing Party Imitating a Boating Party』は、観梅の様子を梅に囲まれた船に見立てた風流な作品。ボストン美術館の優品の一つ。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『二美人図』

二美人図制作年 1805年頃

寸法(タテ×ヨコ) 110.6×36.7

技法等 肉筆画

MOA美術館

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表したといわれる。また、齢90にして死を迎えたとき、「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし」と語ったといわれる。生涯に改号を繰り返したが、最後の15年程は 「画境老人」「卍」を用いた。さもありなん。

『二美人図』は、北斎画歴前半期の肉筆画の優作。丹念で上品に仕上げられており、北斎の代表作として、また、浮世絵絵師たちが競って健筆を揮った華やかな肉筆美人画にあって、勝川春章、喜多川歌麿に伍して独自の位置を占める美人画として、高く評価される。

酒井抱一 (さかい ほういつ) 『柿図屏風』

柿図屏風制作年 1816年

寸法(タテ×ヨコ) 143.7×143.8 二曲一隻

技法等 

メトロポリタン美術館

[情報]

酒井抱一 (1761-1829)

伝統的な大和絵を祖とする雅で装飾性豊かな琳派的表現と、江戸文化独特の叙情性や粋を凝らした瀟洒な美意識、文学趣味などを融合させた独自の様式を確立。江戸琳派の祖といわれる。

名門武家である姫路城主酒井家の次男として生を受ける。狩野派や南蘋派、浮世絵、円山四条派、土佐派など様々な流派を学習する一方、俳諧や能楽、書画、茶、狂歌など様々な文化に親しみ、兄の庇護のもと、若いころから奔放な生活を送りながら文化人としての素養を身につける。

37歳で出家してからは益々芸術や文芸に専念するようになり、やがて尾形光琳に私淑して光琳百回忌を催すなど、光琳の事績の研究や顕彰に勤め、自らも絵師として大きく成長し次々と大作に挑んでいく。

『柿図屏風』は、寂寥感の漂う一本の柿の木を描いた作品。柿の老樹と重々しく熟した実、右下へ傾斜する地面、余白には11月のひんやりとして透明な大気。但し、この絵は左隻として描かれ、早春の梅や桜が描かれた右隻との一双であったとする見方もある。

酒井抱一 (さかい ほういつ) 『雪月花図』

雪 月 花

制作年 1820年

寸法(タテ×ヨコ) 91.4×35.1 三幅対

技法等 画

MOA美術館

[情報]

酒井抱一 (1761-1829)

『柿図屏風』の項を合わせて参照。

『雪月花図』は、日本の季節感を端的に物語る画題として江戸狩野派の画人などに早くから取り上げられてきたが、抱一は、三幅を並置したときの各幅相互の画面構成を考慮し、雪松は画面上部に、雲井の月は中央に、桜花は下部に描いて、三幅を通して対角線に構図をまとめている。

酒井抱一 (さかい ほういつ) 『風神雷神図』

左隻 右隻

制作年 1820年頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 170.7×170.2 二曲一双

技法等 紙本金地着色

出光美術館

[情報]

酒井抱一 (1761-1829)

『柿図屏風』の項を合わせて参照。

『風神雷神図』は、尾形光琳による俵屋宗達の模写作品『風神雷神図屏風』を写した作品。抱一は原図となる宗達の『風神雷神図屏風』は見たことが無く、あくまでも光琳の『風神雷神図屏風』がオリジナルであると考え、その模写をおこなったと推測されている。原図である宗達の『風神雷神図屏風』に存在していた濃密な神格性や威厳性を見出すことはできないものの、江戸琳派独特の洒脱性や、より顕著になる装飾性など抱一の光琳に対する賛辞的な研究や独自の美意識・趣味性が表れている。

酒井抱一 (さかい ほういつ) 『風雨草花図』(通称:夏秋草図屏風)

左隻 右隻

制作年 1821年頃

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 164.5×181.8 二曲一双

技法等 紙本銀地着色

重要文化財

東京国立博物館

[情報]

酒井抱一 (1761-1829)

『柿図屏風』の項を合わせて参照。

『風雨草花図(夏秋草図屏風)』は、尾形光琳による『風神雷神図屏風』の裏面へ表装として描かれた作品で、現在は剥離、別装されている。「雷神図」の裏には驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草と、にわかに増水した川の流れを、「風神図」に対しては強風にあおられる秋草と舞い上がる蔦(つた)の紅葉を描く。「風神・雷神図」の豪華明瞭な金地着色への対比として閑寂で侘寂の趣の強い銀地着色が用いられているなど、光琳の動的な作品と美意識に対する敬意を込めた回答が示されている。

抱一の得意とした俳諧の感覚に通じる風雅な趣にあふれ、抒情性と装飾表現の自然な統合を目指した、おそらく抱一画の到達点を示す一作ということができる。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『富嶽三十六景』の内「神奈川沖浪裏」

神奈川沖浪裏制作年 1831-1835

寸法(タテ×ヨコ) 27.0×39.0

技法等 大判版画

リンク

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

『二美人図』の項を合わせて参照。

『富嶽三十六景』は。富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物。当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼ぶ。落款は北斎改為一筆。

「神奈川沖浪裏」は北斎の作品の中でも最も有名であり、世界で知られる最も有名な日本美術作品の一つでもある。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『千絵の海』の内「総州銚子」

総州銚子制作年 1833年頃

寸法(タテ×ヨコ) (24.8×36.2)

技法等 大判版画

リンク

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

『二美人図』の項を合わせて参照。

『千絵の海』は、各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁労にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。落款は前北斎為一筆。

「総州銚子」は、太平洋に鋭く突き出す銚子の荒波と、その中で漁をする二艘の漁船を描いた作品。岩肌を噛むように引く波と、飛沫をあげて打ち寄せる波が激しく交差する。「神奈川沖浪裏」の<大波>とも一味違う、波の表情を描いた北斎の代表作のひとつ。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『諸国滝廻り』の内「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ滝」

木曽路ノ奥阿弥陀ヶ滝制作年 1760

寸法(タテ×ヨコ) (36.1×23.1)

技法等 大判版画

リンク

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

『二美人図』の項を合わせて参照。

『諸国滝廻り』は、落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた大判錦絵による名所絵揃物全8図。落款は前北斎為一筆。 「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ滝」は、岐阜県北端に位置する名瀑。抽象的に処理された上流の流れと、滝壺まで一気に落下する水との異なる表情を大胆な構図で描き上げている。写実、キュービズム、抽象が融合した作品。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『芥子』(西村屋版大判花鳥集より)

芥子制作年 1833-1834年

寸法(タテ×ヨコ) 24.8×36.2

技法等 大判版画

リンク

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

『二美人図』の項を合わせて参照。

『芥子』は、西村屋横大判シリーズの花鳥画揃物全10図中の1図。落款は前北斎為一筆。<大波>の力強さを連想させる最高の構図と評される1枚で、強風のなかでも吹き散らされることのない芥子の花の、しなやかな生命力が伝わってくる。

歌川広重 (うたがわ ひろしげ) 『東海道五十三次』の内「蒲原」「庄野 白雨」

蒲原 庄野 白雨

制作年 1833-1835

[ 左:蒲原 右:庄野 白雨 ]

寸法(タテ×ヨコ) 22.5×34.9 24.8×36.2

技法等 大判版画

蒲原 庄野 白雨

[情報]

歌川広重 (1797-1858)

日本絵画史上最高の風景画家といわれる。対象をありのままに捉える写実的描写の中に四季時節の抒情性を醸し出す独自の景観表現を試み、民衆から高い支持を集める。また遠近を巧みに強調した独特の構図や鮮烈な色彩表現などは、ジャポニズムとして19世紀の欧州を席巻し、世界的な名声を獲得した。

江戸幕府の御家人の長男として江戸で生を受け、幼少期から絵に興味を示す。子供のころに両親を亡くし家督を継ぐ。15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、歌川豊広に入門。その後、絵師に専念していく。

『東海道五十三次』は、風景画家としての広重の名声を決定的なものにした浮世絵木版画の連作。東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。

鈴木其一 (すずき きいつ) 『夏秋渓流図』

右隻

左隻

制作年 19世紀前半

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 165.8×363.20 六曲一双

技法等 紙本金地着色

根津美術館

[情報]

鈴木其一 (1796-1858)

江戸琳派の祖・酒井抱一の高弟でその後継者。宗達、光琳、抱一と継承された琳派の造形を、個性的な感覚によって近代につないだ。

紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として生まれる。子供の頃から抱一に弟子入りし、故あって酒井家の家臣・鈴木家の養子となり家督を継いだ。抱一死後、京都の古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなど視野を広げ、雅趣豊かな抱一の作風とは対照的に、明快で鮮やか、かつ機知的な趣向によって、先鋭で近代的な画風へと転換していく。それは、尾形光琳や酒井抱一の表現を意識しながらも、全く違う個性豊かな表現だった。

『夏秋渓流図』は、檜の林と岩間を流れる渓流が連続する六曲一双屏風に、山百合の咲く夏景と柿葉の紅葉に染まる秋景を描いている。限定されたモチーフによりながら、鮮やかな緑青や群青と金地の強烈な対比、複雑なかたちの岩肌をねっとりとアメーバのように這う水流、樹皮や百合の花、柿の葉の克明な描写に対して極端に単純化された岩笹など、生々しくも非現実的な感覚をたたえた作品。

鈴木其一 (すずき きいつ) 『朝顔図屏風』

右隻

左隻

制作年 19世紀前半

[ 上:右隻 下:左隻 ]

寸法(タテ×ヨコ) 178.3×379.7 六曲一双

技法等 紙本金地着色

メトロポリタン美術館

[情報]

鈴木其一 (1796-1858)

『夏秋渓流図』の項を合わせて参照。

『朝顔図屏風』は、金地に鮮やかなブルーの朝顔の花弁と緑の葉を豊かに配置し、連鎖しながら拡散する朝顔の躍動を大胆かつ慎重な構図で描いた作品。

鈴木其一 (すずき きいつ) 『菊図(Chrysanthemums)』

Chrysanthemums制作年 19世紀前半

寸法(タテ×ヨコ) 66×165.1

技法等 絹本彩色

ボストン美術館

[情報]

鈴木其一 (1796-1858)

『夏秋渓流図』の項を合わせて参照。

『菊図(Chrysanthemums)』は、小品であるが丁寧に作成された優品。満開の白い菊の花弁にほんのり紅がさしている。花も葉も余白も、隙のない無駄のなさが美しい。

葛飾北斎 (かつしか ほくさい) 『柳に烏図』

柳に烏図制作年 1841年

寸法(タテ×ヨコ) 84.7×42.5

技法等 肉筆画

ボストン美術館

[情報]

葛飾北斎 (1760-1849)

『二美人図』の項を合わせて参照。

『柳に烏図』は、柳が風にあおられるそばで舞飛ぶ烏の一群を描いた作品。連続写真のようでもあり、一羽一羽の特徴が丁寧に描かれている。

歌川国芳 (うたがわ くによし) 『相馬の古内裏』

相馬の古内裏制作年 1845-1846年頃

寸法(タテ×ヨコ) 大判3枚続

技法等 大判版画

[情報]

歌川国芳 (1798-1861)

江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

作品は役者絵、武者絵、美人画、名所絵(風景画)から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、大判3枚つづりの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。

『相馬の古内裏』は、平将門の遺児とされる滝夜叉姫の妖術によって相馬の古内裏に呼び出された骸骨の妖怪が、大宅太郎光国に襲い掛かる場面。 ヨーロッパの医学書の骨格図に基づいた非常に写実的な骸骨はそれまでの浮世絵には無い凄みを画面に与え本作品を国芳の傑作たらしめている。

歌川広重 (うたがわ ひろしげ) 『名所江戸百景』の内「大はしあたけの夕立」「亀戸梅屋舗」

大はしあたけの夕立 梅

制作年 1857年

寸法(タテ×ヨコ) 36.1×23.1 36×23.5

技法等 大判版画

大はしあたけの夕立 亀戸梅屋舗

[情報]

歌川広重 (1797-1858)

『東海道五十三次』の項を合わせて参照。

『名所江戸百景』は、広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作。最終的には完成せず、二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行された。目録1枚と、118枚の図絵から成る。

「大はしあたけの夕立」、「亀戸梅屋舗」は、それぞれゴッホが模写を試みたことで有名な作品。前者では、俯瞰的な視点による近景と遠景の抒情的な構成が、雨の秀逸な表現と相まって心地良いリズムを与えてくれる。後者では、遠近を巧みに強調した独特の構図や鮮烈な色彩表現などによって、観る者を驚かせると同時に強く心を惹きつける。いずれも、斬新さの中に日本的な美意識を感じさせる作品。