Nさんへありがとう
二五歳の頃、初めてパニック障害の発作が起こりました。それ以降活動できる範囲は段階的に狭まり、とうとう家の敷地を出られなくなりました。その三年後、家から出たいという思いで28歳から始めた車トレーニングは、二年半掛かって、ようやく自宅から二キロ離れた橋の上まで行けました。それから六年後にK社長の社葬に出るんだと決めて、七年後の三五歳でやっと自宅から三十分の距離にあるT市まで行けました。
初めてパニック障害の発作が起こったT市に十年振りにK社長の社葬がきっかけで行けたことは大きな自信になり、その出来事をきっかけに一気に回復のスピードが上がりました。
その日を境にT市までは問題なく行けるようになったり、初めて通るような道でも取り乱さずに運転できたり、思い切って乗った高速道路もなんとかなりました。毎日のトレーニングが成長に繋がっているのが楽しくて、毎日運転していた気がします。
そして、とうとうK社長の社葬から半年後、車で東京の上野駅までたどり着きました。
駅の近くの駐車場に車を駐めて、駅前の高架下でたくさんのすれ違う人の多さに、ようやく東京にたどり着いたことを実感してきました。二十代前半で電車にも乗れなくなり、食事を食べる元気もなくて体重も落ち込み、実家に帰るしか生きていく方法がなくて二四歳で泣く泣く実家に帰る前までは生活していた場所。三六歳になり、十二年越しに東京へ帰ってこれたのです。「やっと来れた」と一人わんわんと泣いていました。
上野までこられたことで私の中で大きく認識が変わりました。
それまでの自分は、完全なベスト(=理想)を求めていました。今までの自分は、理想の結果に届いていないことに満足できず、「もっとできるはず」と現状を受け入れることを拒み続けてきました。「自分は、まだ上野にしかこれないんだ」ましてや、「高校のときには1人で海外にも言ったじゃないか」と思っていたでしょう。
それが、このときは不思議と「ここまでこれた」と素直に喜ぶことができたのです。
「ただ今の自分のベストを尽くすだけ。そのあとの結果はただ受け入れるだけ。」
心の底からそう思えた時、誰かと比べたり、過去の自分と比べたり、理想の自分とも比べる必要がなくなりました。
ありのままの自分を受け入れることの大切さにやっと気がつけた瞬間でした。
ここまで来れた喜びを素直に受け入れられるようになると、感謝の念が湧いてきました。どうしても感謝を伝えたくなり、今まで私を支えてくれていた、従業員のNさんへ電話しました。
Nさんが電話に出るなり「Nさん、今どこにいると思う〜?」「今、上野にいるんだよ。東京まで来れたんだよ!」と泣きながら伝えました。Nさんはその言葉を聞いただけで全てを理解してくれました。「ありがとう」そう伝えると、彼女は一緒になって泣いてくれました。
私のそばで誰よりも私の辛さを分かってくれて、誰よりも私のそばで助けてくれたNさん。彼女にやっと、十数年分の「ありがとう」を心の底から言えた瞬間でした。
この出来事をきっかけに、回復のスピードが上がり、どんどん心の病から解放されていきました。
Nさんとの出会いは小学時代まで遡ります。
姉の同級生だったNさんは家に何度か遊びに来ていました。一緒に遊んだりはしませんでしたが、少し話したことはある程度で、私にとっては「スポーツが得意な姉の友達」という認識でした。
そんな彼女が難病で入院していると聞いたのは一年ぶりに実家に帰った十九歳のときでした。
都内で料理の専門学校に通った後、六本木のお蕎麦屋さんで働いていた彼女は、急に倒れたらしいのです。救急車で運ばれて検査を受けたら難病が発覚し、そのまま入院。生死をさまよっているということでした。
私の幼い頃の中の記憶ではスポーツが得意で元気なイメージしかなかったので驚きましたが、自分も倒れるくらいつらい毎日を過ごしていたので、「早く元気になるといいね」くらいにしか他人のことを考えられる余裕はありませんでした。
その後、実家に帰るたびに、Nさんの状況は噂で聞いていました。
入退院を繰り返しているNさんが中島家の事務の仕事を手伝うようになったのは彼女が二十三歳のときでした。当時、大学生だった私は実家に久しぶりに帰ると、そこには、かなり痩せた彼女の姿がありました。小学校以来に顔を合わせたので、当時の印象とだいぶ違って見えましたが、笑うと過去の面影が見えました。
彼女と深く関わるようになったのは私が家業を継ぐために戻って来た二十四歳の頃でした。
その頃も事務の仕事をしながらも病弱な彼女は入退院を繰り返していました。そんな彼女だからこそ私の苦しみを感じ取ってくれたのでしょう。いつも絶妙なタイミングでお茶を出してくれるのです。孤独を感じているときには他愛もない言葉を投げかけてくれもしました。
私が言わずとも、私の状況をなんとなく察してくれていたのだと思います。自宅から出れない私の代わりに薬を買いに行ってくれたり、私がどうしても動けない時にはうまくごまかしてくれたり、ワインパーティーを自宅で開催した時にも手伝ってもらいました。たくさん話も聞いてもらいました。
彼女の優しさと笑顔には何度も救われました。
三十八歳で私が恵比寿にエステを開業した際にも、彼女について来てもらい、買い出しや身の回りのことを手伝ってもらうことにしました。
恵比寿に出て来るときに、茨城から恵比寿に行くには、地下鉄の日比谷線で六本木駅を通過します。「次は〜、六本木」と車内アナウンスが流れた時に、「あ〜、私はまた東京で働けるくらい元気になったんだ〜」と感動していました。彼女にしてみれば二十年ぶりの出来事でした。
開業の準備が終えてひと段落すると、彼女自身にもアロマやエステの先生になってもらいました。そして、「これから一緒にこのサロンを大きくしていこうね」と夢を膨らませている最中に彼女は再び倒れました。
その後、一年持たずして彼女は急逝してしまいました。脳梗塞でした。
私は自分を責めました。「こんなことになったのは自分が恵比寿に連れ出したからだ。彼女に無理をさせたからだ。」でも、どんなに自分を責めても彼女が生き返るわけではありません。
「Nさん、ごめんね。ありがとう。」私にはそう言うことしかできません。
「Nさんに助けてもらった恩は必ず返すからね。」私には彼女の分まで生きることしかできません。
里親のママ、K社長、Nさん。
私にとって大切な人たちはみんな灰となって、この宇宙のどこかへと消えていきました。
私は彼らに感謝しています。だから、私は感謝の気持ちとして命ある限り、この宇宙に恩返しをしていきます。
人からもらった恩を感謝で受け取り、感謝で恩を返していく
人から与えられた愛を感謝で受け取り、感謝で愛を与えて行く。
この世界であなたが恩を感じたとき、それは脈々と受け継がれた人間の謙虚さに触れているのかもしれません。
この世界であなたが愛を感じたとき、それは脈々と受け継がれた人間の優しさに触れているのかもしれません。
あなたが今の自分を受け入れて、感謝の心で生きることは、人類の財産となるのです。
あなたが感謝をすれば、
感謝の循環は生まれていく。
<オリジナル原稿>