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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「喜びと真心をもって」

2022.07.11 04:23

使徒の働き2章43-47節 

43. すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。 

44. 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、 

45. 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

 46. そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 

47. 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 



 礼拝メッセージ

 2022年7月10日 

使徒の働き2章43-47節 

「喜びと真心をもって」


  おはようございます。10年ほど前、病院や銀行などで、順番待ちをしていますと、「次、〇〇さん」と名前を呼んでもらえました。しかし最近では、個人情報保護の関係からでしょうか、「何番のお客様」と番号で呼び出されるようになりました。 

  福井に来る前に私が仕えていた教会の名前は、長野福音教会でした。残念なことに、お店などで「福音」をちゃんと「ふくいん」と呼んでもらえないことがよくありました。「ふくおんさん」と呼ばれてしまうのです。まだまだ「福音」という言葉が、日本の人々にしっかりと認められていないのだなぁと感じました。 

  今日の聖書の箇所、使徒の働き2章47節にはペンテコステの日、エルサレムの町に誕生したキリスト教会が「民全体から好意を持たれていた」と記されています。最初の教会は、教会の外にいた多くの人たちにも、よく知られていたのです。しかも人々は教会に対して大変好意的でした。  

 福井中央キリスト教会も、イエス様の福音をもっと大胆に証ししていきたいですね。イエス・キリストという旗印を高く掲げ、教会の存在を多くの人たちに知って頂きましょう。

  最初の教会は、まず悔い改めることから出発しました。2章36節の「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と、迫るペテロの伝道説教を聴き、多くの人たちが心を刺されました。その日、なんと3,000人もが、自らの罪を認め、悔い改めます。「私の罪のために、イエス様が十字架に架かって死んでくださった。そしてよみがえってくださった」と信じました。

   そうやって生み出された最初の教会は、教会の基本の「キ」に忠実でした。42節「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」 何か奇抜な集会をしたり、派手なイベントをやったりしませんでした。ただ使徒たちの教えを守ったのです。それは、主イエス様が使徒たちに託してくださった福音のメッセージでした。現代の私たちにとっては、聖書のみことばです。みことばを豊かに味わい、みことばに従って生きようとしました。さらに教会は、交わりを大切にしました。兄弟姉妹が互いにいたわり合いました。誰かに弱さや欠けがあれば、補い合い、支え合いました。そしてパンを裂くこと=聖餐式を大切にし、祈りをよくしました。

  使徒の働きの著者ルカは、43節で続けてこう記します。「すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた」人々が救いに導かれ、聖霊が注がれ、ともに主を礼拝している時、彼らの心に恐れが生じたのです。どのような恐れだったでしょうか? 神様の臨在に触れ、ブルブルッと震えが止まらなくなる、そんな恐れだったのではないでしょうか。 皆さんは、そのような恐れを神様に対して抱いておられるでしょうか? もしかしたら、私たちは神様をあまりにも低いレベルに落としてしまっているのかもしれません。あまりにも人間的なレベルに下げて考えてしまっているかもしれません。まことの神様は、ときに身震いするほどの恐ろしさを持っておられます。この世のすべてを造られ、支配しておられる全知全能なる神様です。すべての善悪の基準であられ、悪しき者を罰し、おさばきになり、その者を永遠の滅びへと送られる神様です。さらに、本来は滅ぶべき存在である私たちを、イエス様の十字架の犠牲ゆえに、赦し、救い出し、生かしてくださる神様なのです。 私たちが神様を第一とし、神様を礼拝すること第一とする時、私たちの内側に神様に対する健全な、本来あるべき恐れが湧いてこなければいけないのでしょう。私たちは、神様によって守られ、生かされています。そこには大きな安心があります。同時に、私たちは聖なる神様の御前にあるのだ!という恐れをも、持ち続けていきたいと思います。 

 教会の中に、神様に対する健全な恐れが芽生えたとき、神様の大きな力が働きました。「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた」とみことばは記します。苦しんでいた兄弟姉妹の重い病が癒されたという奇跡もあったでしょう。それも含めて、奇跡は神様の偉大さだけを指し示すものでした。そして何よりも、キリストに背いていた人々が、キリストに出会い、キリストの救いにあずかるという一番の奇跡が、最初の教会では立て続けに起きたのです。 

  さらに最初の教会の「交わり」の様子が、44節から語られています。 

44. 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、 

45. 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。 

46. そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 

47. 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 


  洗礼を受けてクリスチャンとなった人たちは、以前のように、自分の財産・自分の持ち物に固執しなくなっていました。価値観・生き方が180度変えられたのです。これまでは「お金が何よりも大事だった。たくわえて裕福になることで、安心と幸せを手に入れることができる」と考えていたでしょう。けれども、その心がイエス様によって満たされた時から、彼らの生き方は、全く新しいものに変えられたのです。彼らは時間と富、そして彼ら自身を主のために、キリストのからだなる教会の兄弟姉妹のために喜んでささげるようになったのです。 

  今回、私はコロナに感染することを通して、教会の皆さんからたくさんの愛を頂き、皆さんが持ち寄ってくださった食料や様々なものによって、生活を支えられました。私たちの人生は、いつ、どのようになるか分かりません。ある日突然、仕事を失い、収入がなくなってしまうかもしれません。大地震や火事・洪水など天変地異によって、家や財産を失ってしまうかもしれません。そういった時に、家族や地域・行政の支援だけでなく、すぐに動いてくださり、ずっと祈り、ずっと支えてくださる教会の仲間たちが与えられていることは、私たちにとって本当に心強いことです。 

  そして、そのつながり(ネットワーク)は一教会の中だけにとどまりません。日本各地、世界中のクリスチャンたちと、実は私たちはつながっています。そのことを実体験したのが、3年前の洪水被害の後でした。2019年10月、猛烈な台風19号が日本各地で大きな痛みをもたらしました。長野県でも千曲川(新潟県に入ると「信濃川」と名前が変わる川)の各地の堤防が決壊し、甚大な被害をもたらしました。長野福音教会のお一人暮らしの姉妹宅の2階近くまで泥水が入り込みました。その姉妹は、事前に友人宅に避難していて、無事だったのですが、変わり果てたご自宅を見て、茫然自失となっておられました。「教会の皆さんに片付けなど手伝ってほしい」という姉妹の申し出を受けて、まず教会内と地域の牧師たちにヘルプを出しました。翌日大勢の仲間たちがボランティアに駆け付けてくださいました。 その後、諸教団・キリスト教諸団体の助けと、地域の牧師たちが協力して生み出した「災害対策室」によって、11月の1か月間、その姉妹宅の泥出しや片付け、お掃除がなされました。全国各地の兄弟姉妹が、毎週入れ代わり立ち代わりにボランティアが駆けつけてくださったのです。韓国からも兄弟姉妹が駆け付けてくださいました。被災された方のご自宅は、本当にきれいにして頂いて、その後、大工さんに引き継がれ、住宅再建に導かれました。 私たちは、地方の小さな教会かもしれません。しかし、実はキリストにあって日本中の、また世界中の神の家族の一員なのです。そしてキリストにあって日本中、世界中の神の家族とつながっているのです。何かあれば、助けてくれる兄弟姉妹たちを私たちは世界中に持っているのです! 

 最初のクリスチャンたちも、互いに分かち合っていました。互いに支え合っていました。うるわしい交わりが教会にはありました。さらに信者となった者たちは、毎日、心を一つにして宮に集まっていました。宮は、当時エルサレムにあった神殿です。まことの神様を礼拝する場所です。彼らはそこに毎日集い、決められた祈りの時間に、祈りをささげていました。時間と身体と心、すべてを主のために喜んでささげていました。祈ること、礼拝することが何よりも楽しかった!うれしかった!!のです。強いられてではなく、命じられてでもなく、自発的に、喜んで、彼らは宮に集まっていたのです。 

  私たちはどうでしょうか? そんな喜びがあるでしょうか? 洗礼を受けてすぐの頃は、あったなあ。毎日のように教会に入りびたっていたかった。でも、今は・・・。もしかしたら、あの頃の喜びや感動を失ってしまい、マンネリの信仰生活になってはいないでしょうか? もう一度、自らの歩みと自らの内面を見つめ直していく必要があるのかもしれません。 

  うわべだけ、外見だけを立派に見せることは、がんばればできるでしょう。けれども、そこに心、内側からの動機が伴わっていないとしたら、その外見に、どれほどの価値があるでしょうか? 「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」 (Ⅰサムエル16:7)と言われる神様です。 献金をささげること、奉仕をすること、貧しい方たちや弱い立場の方たちのために一生懸命仕えること。被災者のために義援金を送ること。そういった行いは、もちろん大切ですし、私たちが実践していかなければいけないことです。けれども、そこに喜びや純粋な動機が無いとしたら、神様はそれを喜ばれるでしょうか? 反対に「自分のことを良く見せたいとか、人にほめられたい」といったゆがんだ思いがあるならば、神様は私たちの歩みを、残念だなあと思われるのではないでしょうか? 

  私たちは簡単に偽善者になってしまいます。自らをかえりみても、そう思います。腹黒い人間だなあと思う時があります。自己保身に走りますし、損得で考え、動いてしまうこともあります。私がこのことをしたいと思う、その本当の理由は何なのか、そんな心の動きに、私たちは注意を払っていく必要があるのでしょう。 

  ルカは、最初の教会のクリスチャンたちの心の動きに注目し、そこに感動を覚えています。行ったことも立派でした。けれども、それ以上に、その行為に至った彼らの純粋な動機に感動しています。46節 「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」 心を一つにし、喜びと真心をもって歩み出しました。宮に行って祈る時、クリスチャンたちの思いが一致していたのです。さらにパンを裂くこと=聖餐式を執り行い、食事=愛餐会をともにする時、彼らは、喜びと真心であふれていました。 

 この「喜び」という言葉は、元々のギリシャ語の単語を調べてみますと、「大喜び」、とか「小躍りして喜ぶ」といった意味がありまあう。また「真心」という単語には「単純さ」、「純真さ」、「素朴さ」といった意味があります。ふた心や腹黒さのない、純真な心です。 どこから、そんな喜びや純真さが湧いて来たのでしょうか? 主イエス様からです。イエス様の十字架によって赦して頂き、イエス様の復活のいのちにつながった喜びを知った者たちの喜びと感謝の思いでした。 

  最初のクリスチャンたちは、毎日のように集まっては、主のみことばを聴き、喜び感動し、主を礼拝しました。また主の恵みを覚えるために聖餐式にあずかり、兄弟枚のために祈り、食卓を囲みました。 

  何かと忙しい私たちですから、毎日のように教会に集まるというのは、難しいでしょう。それでも置かれた場所で、日々、主のみことばを聴き、喜び感動し、主を礼拝する生活をしていきたいと願います。置かれたところで祈り、感謝し、歩んでまいりましょう。 


 祈ります。   


みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 


 1. 私たちの信仰生活。喜びと真心を失わずに、主と教会に仕えていくためには、何が必要だと思いますか? 



 2. 教会が、地域の人々に好意を持たれていく、そのために私たちに出来ることは何でしょうか? お


祈りの課題など