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Okinawa 沖縄 #2 Day 196 (15/07/22) 旧宜野湾間切 (9) Maehara Hamlet 真栄原集落

2022.07.16 04:35

旧宜野湾間切 真栄原集落 (まえはら)


最近、スマートフォンが暴走しはじめ使えなくなった。集落訪問の際やレポート編集はほとんどがスマートフォンで行っているので不便だ。古いスマートフォンで前回は新城集落を巡ったが、古いため同じようには作業が進まない。暴走下スマートフォンの復旧を試みたが、暴走はおさまらず、修理も考えたが、結局、中古のiPhoneを注文した。ようやくそれが届き集落巡りを再開する。以前のものはiPhone6Sだったが、今回はiPhone8にした。中古品はバッテリーが古いので、近くのショップで交換する。あわせて2万5千円程ですんだ。最新機種新品でなくとも、これで不便なく使える。また数年すれば、その時の中古品が安く手に入るので特に新品は必要ない。

宜野湾集落訪問再開で、今日からは普天間飛行場の東側にある集落を巡ることにした。この東側には12の集落があるのだが、そのほとんどは明治以降にできた屋取集落で、元ん集落は普天間基地に接収されている。文化財として残っているものは限られているので、一日に2~3集落を巡ることになるだろう。今日は真栄原集落と佐真下集落を予定している。



旧宜野湾間切 真栄原集落 (まえはら)

真栄原は宜野湾市の南部の集落で、元々は、嘉数に属した屋取集落だったが、 大正期から十字路 (現 真栄原十字路) を中心に嘉数尋常小学校をはじめ民家や雑貨店などが集中し、宜野湾村の南の玄関として発展した。域内に沖縄国際大学ができると、学生アパートが立ち並び、一戸建分譲住宅が建設されて、閑静な住宅地となっている。戦前の真栄原には宜野湾、我如古、嘉数、大謝名にまたがっての屋取 (ヤードゥイ) 集落で、佐真下との境界で童氏の玉寄一族が多く住む玉寄 (タメーシ) 屋取、大謝名との境で璩氏の仲里小一族が多く住む仲里小 (ナカザトゥグゥー) 屋取、浦添市にまたがった比良川 (ヒャーガーラ)・橋南 (ハシフェー) 屋取などが存在していた。またケンドー沿にはそれ以降に 雑貨店、建材店、薬局、醤油屋、馬蹄打屋、料亭等が立ち並ぶ小さなマチ屋的な地域もできていった。この地域が真栄原集落の中心地で比較的新しい集落だった。これらが 1939年 (昭和14年) に、それまで所属していた嘉数から分離し、真栄原として独立した。その後、1943年 (昭和18年) には、真栄原の北側部分の屋取が佐真下として分離独立している。1964年 (昭和39年) の行政区再編で、佐真下区と統合し、 真栄原区となった。

真栄原の人口は戦後、帰還が完了した1948年以降、一貫して増加しており、現在でも増え続けている。宜野湾市の中でも人口が多い地域となっている。地域全体が軍用地として接収されなかったことや、元々屋取集落の集まりだったことで、伝統的な沖縄特有の血縁集落とは異なり、住宅地開発が比較的スムーズに行えたことにあると思われる。

真栄原の人口増加率は宜野湾市の中では最も高く、字として独立した1939年 (昭和14年) 頃には395人だったのが、現在では9,657人で24倍にもなっている。多くの地域では戦後本土復帰以降増加率は鈍化しているのだが、この真栄原は増加率は継続して断トツで、現在では宜野湾市の中で人口の多い地域のトップ2となっている。

集落民かの分布の変遷を見ると戦前までは普天間街道沿いに小さな真栄原集落があっただけでその他はほとんどが荒れ地と農地だったのが、戦後急速に住宅地が広がり、現在ではほぼ全域が住宅地となっている。

真栄原で行われていた祭祀についてまとまった資料はないのだが、旧暦2月2日のクシッキー (腰憩い) 行事を行い、各班で集まり天ぷらや肉などのご馳走を食べたとある。ウブガー拝みもあり、これは現在でも行われているそうだが、真栄原自治会の年間行事予定表には祭祀は記載されておらず、慰霊祭のみが村行事となっている。琉球王統時代から明治時代にはこの真栄原は嘉数に属していたので、宜野湾ノロの管轄地域だった。屋取集落だったので、御嶽や殿などは存在していないので、実質上宜野湾ノロが祭祀を行う祭礼はなかった。


真栄原集落訪問ログ



橋南 (ハシフェー) 屋取集落

真栄原地区の南には比良川 (ヒャーガーラ) が流れている。

この川が嘉数集落 (5月7日訪問済)との境になっているのだが、川を越える道は嘉数集落では並松 (ナンマチュー) と呼ばれた松並木が浦添と普天間を結ぶ普天間街道だった。真栄原ではケンドーと呼んでいる道だ。

この道の西側が嘉数で、東側が浦添西原になっている。この並松の東側、現在の県道241号線沿いに橋南 (ハシフェー) 屋取があった。比良川 (ヒャーガーラ) に架かっていた橋の南にあったのでこう呼ばれていた。地番は浦添市西原になっており浦添では西原 (イリバル) と呼ばれている。戦前には10世帯程の小さな集落で、橋南屋取集落の生活は真栄原との関係が強かった。


ケンドー

比良川 (ヒャーガーラ) には戦後は宜野湾南風原線 (県道241号線) が通りこれが幹線道路となっているが、戦前はこの県道241号線の東に並行に走る細い道路が主な幹線道で普天間と浦添を結ぶ街道だった。真栄原ではケンドーと呼ばれていた。比良川 (ヒャーガーラ) には比良川橋 (ヒャーガーラ橋) がかかっている。この橋は沖縄戦で日本軍が米軍の侵攻を遅らせる為に破壊されたが、米軍は嘉数高地攻略後、ここに橋を仮設して首里方面に進んでいった。この辺りから普天間ままでは松並木道だったが、松並木は沖縄戦で失われた現在では残っておらず住宅街となっている。


産井 (ウブガー)

橋南 (ハシフェー) 屋取跡からケンドーに入るとすぐに比屋良川 (ヒャーガーラ) になる。比良川橋 (ヒャーガーラバシ) から川沿の小径に入り進むと、奥に祠が見えてきた。あれが産井 (ウブガー) を祀った祠だろう。比屋良川両岸は石積みがあり、この奥まで続いていたそうだ。そこはクンチャーラと呼ばれていた。現在では、石積みや石畳は失われているのだが、上流と下流には子どもたちが水浴びをして遊ぶ場所があった。

この川の南河岸には真栄原集落の産井 (ウブガー) があった。井戸がない家では生活用水を汲んでいたそうだ。村では正月に若水 (ワカミジ) を汲み、その水でお茶を沸かして先祖に供えた。旧暦2月3日の腰憩い (クシッキー) 行事でもこの産井 (ウブガー) 拝みをしていた。琉球国王がこの場所を通る時、この産井 (ウブガー) の水を飲んで休んだとも伝わっている。現在はこの産井の水は涸れてしまっているが、傍らには祠が造られ、水之神が祀られいる。祠の前には、流り川之神の香炉が置かれ、傍らには、賓頭盧之神も祀られている。小径の傍には昭和58年にこの産井を改修した際に寄付者の芳名のパネルが置かれていた。


真栄原集落、スイドー (水道)

ケンドーを北に少し進んだところ、真栄原交差点の東側が戦前の真栄原集落の中心地だった。この地域は比較的新しくできた集落で、商店などがケンドー沿にはあり、マチヤ的な場所だった。このケンドーが普天間と首里を結ぶ幹線道路だったので、その街道沿いに集落ができたのだろう。今は昔のような賑わいは失われている様で、数軒の商店があるだけだ。商店は県道241号線沿いに移っている。ケンドーの交差点だった場所にはスイドー (水道、写真上) の蛇口が設置されていたそうだ。このスイドーは、我如古の水源からこの近くにあったガッコー (嘉数国民学校) まで引かれていた水道で、ガッコーに引く途中にこの真栄原集落を通るので、1939年 (昭和14年) 頃に、ヒャーガーラカジマヤーに蛇口が設置され、周囲の住民が利用し、馬車引きが馬に水を与えて休ませていたそうだ。 水は無料だったという。沖縄の多くの集落では簡易水道は戦後、昭和30年代に引かれているので、この地はかなり早く水道が引かれている。この直ぐ北、かつての真栄原集落中心地にも蛇口があり、新川のスイドー (水道、写真下) と呼ばれ、そこにあった醤油屋だった屋号 新川が醤油造りの水の為、特別に蛇口が設けられていたそうだ。


慰安所 (イアンブ) 跡

沖縄戦当時、真栄原集落内には、旧日本軍の球部隊、石部隊が役150人が駐屯し、民家に分宿していた。そして、日本軍がイアンブ (慰安所) が置かれていた。現在は集合住宅となっている。宜野湾市にはここ以外にも嘉数、宜野湾、神山、喜友名、真志喜にも慰安所が置かれていた。


嘉数国民学校跡

戦前、ケンドーの西側には嘉数国民学校が置かれていた。現在の嘉数小学校なのだが、場所は東に移動しており、民家が密集して建っており、昔を偲ぶものは無い。この学校の歴史は古く、大正8年に嘉数尋常小学校として開校している。その後、大正12年に嘉数尋常高等小学校、昭和16年に嘉数国民学校となった。戦後は、昭和21年に嘉数初等学校に変わり、昭和23年に嘉数小学校になっている。沖縄戦前はこのガッコーは日本軍によって接収され、兵舎になっていた。


真栄原公民館

嘉数国民学校には広い実習地が併設されていた。これは畑で農業実習が行われていた場所。戦後真栄原集落住民が帰還後、その場所の一画に公民館を建設している。


鎮魂之塔

公民館の前に戦没者を弔った鎮魂之塔が建てられている。1981年 (昭和56年) に自治会と遺族会によって建立されたもので、102柱が祀られている。 (平和の礎調査では117人と報告されている)。 この真栄原区では、この場所で毎年6月の第2日曜日に慰霊祭を行なっている。

真栄原集落は、激戦地となった嘉数高地と川を隔てた直下に当たり、戦争による被害がきわめて大きいかった。真栄原集落は、この戦闘ですべてが灰土となった。1945年4月1日の米軍上陸時点では、この集落から北部山岳地帯への疎開が少なく、住民のほとんどが部落内の自然壕に避難していた。部落内には大きな自然壕が多くあり、なかでも東伊佐 (アガリイーサー) ガマには、1945年 (昭和20年) 3月下旬で、日本軍の球部隊、石部隊に混じって住民合わせて約2,000人が避難していたほどのきわめて大きな自然壕だった。1945年4月7日以降、米軍は嘉数高地で約2週間、日本軍との攻防戦を繰り広げた。 米軍が嘉数高地を制圧した後、ヒャーガーラ橋を架設し、戦場は首里方面に南下していった。5月に南部戦線が激しく展開されている頃には、真栄原集落の西側には、すでに米軍キャンプが設置されていた。真栄原集落の第2次世界大戦での戦没者は117人 (平和の礎調査) で、そのほとんどは中南部での戦没者で、集落内で戦争に巻き込まれた戦没者は僅かだった。集落住民の25%が犠牲となっている。

戦後、住民は米軍捕虜となり、県内各地の収容所から野嵩収容所へと集められ収容所生活が続いた。1946年 (昭和21年) 8月に、我如古、志真志、佐真下とともに我如古ヌ前 (ガニクヌメー) の集落に割り当てられた区域へ移動させられている。1947年 (昭和22年) 6月には大謝名の住民も移動してきた。 翌年1948年 (昭和23年) に、ようやく真栄原の元の居住地への移動許可がおり移動が始まった。元の居住地に戻ることができたが、フィリ ピン部隊の宿が近くにあり、夜になると真栄原の女性を襲いに来たそうだ。 米軍兵士に車両に引きずり込まれ、米兵に拉致されるということがあったという。そのため、集落内には非常時に打ち鳴らす酸素ボンベを置き、自警団を結成していた。 下の図では戦後帰還するまでの居住地を表しているのだが、野嵩収容所から真栄原、我如古にまたがって6つの村のために暫定居住区が置かれていたが、元の真栄原集落があった場所は大謝名村の居住区として割り当てられ、真栄原村にはそこではなく隣の居住区が割り当てられていた。何故、真栄原には元の地域が割り当てられなかったのかは疑問がある。これは、昔からここに住んでいる人に聞いてみたい。


玉寄 (タメーシ) 屋取集落、砂糖屋 (サーターヤー) 跡

公民館がある真栄原北部は佐真下との境界で童氏の玉寄一族が多く住む玉寄 (タメーシ) 屋取があった。この屋取集落も規模は小さく、戦前には10戸程が住んでいた。サトウキビ中心の農家の集団で、集落北側には砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。かつて砂糖屋 (サーターヤー) があった場所は沖縄カトリック小学校のグラウンドになっている。


東伊佐 (アガリイサー) ガマ

新町の近くにはアガリイサーガマと呼ばれる自然洞窟があったそうだ。沖縄戦当時、米軍上陸前に真栄原からの疎開者は少なかった。1945年4月1日に米軍が北谷に上陸すると、住民は東伊佐 (アガリイサー) ガマ、ナガサクガマ、オオナチマヤーガマ、 玉寄小ガマ、 比屋良川沿いの壕、墓などの自然のガマ洞穴に避難していた。この東伊佐 (アガリイサー) ガマには、米軍上陸直前、1945年 (昭和20年) 3月下旬で、日本軍の球部隊、石部隊に混じって住民合わせて約2,000人が避難し、その後は宇地泊や大謝名など近隣の村人も含め、400人程が避難していた。この時期にも日本兵はこのガマにおり、毎晩このガマから宜野湾方面の米軍宿営地へ切り込みに行っていたという。まもなくこの洞窟も米軍に見つかり、洞窟入口は包囲され、米軍側の二世の人の投降呼びかけに応じ、捕虜になった。

ここを歩いていたおじいにガマがあった場所を聞いた。現在、入口は埋められ駐車場やアパートになって、壕があったとは分からない。入口は幅約30m、天井の高さ9m、三支洞を含め全長約600mにもなる大きな鍾乳洞だった。


真栄原社交街 新町

戦後、真栄原には他の地域の未亡人などが来て、家のクチャ (裏座) などを借りて、米兵相手に売春をするようになった。 売春斡旋者も現れ、多くの米兵が集落内を徘徊するようになった。当時は、米軍兵士に襲われる女性もおり、治安の問題があった。この為、居住地から離れた場所を整地し、1951年 (昭和26年)頃、特飲街の新町が建設された。やがて新町組合が結成され、新町への新規受け入れや治安維持を行っていた。その後、米兵相手から日本人向けの置屋街となり、横浜の黄金町、大阪の飛田新地とともに三大ちょんの間街として有名になった。全盛期には100軒を超える置屋が営業し、2009年までは以前ほどではないが営業が続いていた。特飲街の組合活動は継続していたのだが、未成年者の就労や反社会勢力の介在が取沙汰されていた。組合の力が及ばず、人身売買、薬物問題などの反社会勢力の関与が相次いで検挙され、その頃から女性市民団体が反対運動を展開し、行政や警察も乗り出し“浄化運動”を行い、置屋は次々と摘発されていった。2011年には殆ど置屋が “浄化” されてしまった。現在は数軒店があるのみで、昔の様な活気はない。数軒の建物の小さな入り口に「真栄原社交街」のステッカーが貼られたままだった。また、地域の一画に、「宜野湾市民の安全を守る会」の事務所 (写真右中) があった。この事務者が「浄化」推進の事務所だったのだろう。確かに目的は反社会勢力の問題排除にあったのだが、この「浄化」という言葉には好感は持てない。この「浄化」が反社会勢力に対してだけでなく、そこでやむなく働いていた女性に対しての差別的言葉にもなっていた。女性は反社会勢力の犠牲者であったのだが、この女性たちも「汚い」対象となっていたこともある。この様な女性のそれからの人生も考えての活動だったのか、それとも汚いと感じたものを違法という理由で排除が目的だったのかは気になる。先程訪れた旧真栄原集落には沖縄戦当時、軍が設けた慰安所跡があった。また、他の沖縄の社交場と同様にこの新町も当時の行政と米軍との協議で置かれと思われるので、元々は行政者が作ったものだ。それを「浄化」という活動で根こそぎ排除するのは、何とも身勝手なやり方だ。ここでのこの活動がどの様なものだったのかは調べたが見当たらないので、何とも言えないが、社会の矛盾があるような気がする。ただ、ここに住んでいた住民にとってこの新町の存在がどうだったのかも考える必要がある。確かに、街はこの新町によって栄えたのだが、反社会勢力の介入は大きな問題だったと思える。住民としては、寂れても問題の無い環境の方が大事だったと思う。


仲里小 (ナカザトゥグゥー) 屋取

この新町が置かれた地域の西側はかつては大謝名との境で璩氏の仲里小一族が多く住む仲里小 (ナカザトゥグゥー) 屋取があった場所でここにもサトウキビを搾る砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。



これで真栄原集落訪問を終えて、隣の佐真下集落に移る。佐真下集落の訪問記が別建てにしている。




参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)