近代アジアの動乱9-日本開国
2022.07.12 10:59
1854年2月13日、日本に黒船が再びやってきた。将軍家慶は崩御し、家定が継いでいたが、病弱で政務が困難だった。黒船は1か月以上留まり、日米和親条約が結ばれ、下田と函館を開港して補給はするが、貿易はしないということで合意した。幕府は祖法である鎖国を破ったという意識がなく、天皇の許可も要らなかった。
マルクスは日本の封建制を評価しているが、徳川家は天皇から武家政治を委託されているだけで、大領主にすぎない。ヨーロッパでもそうだったが、他国や他大陸への進出が、国内統一の動機となった。日本は朝鮮侵攻の失敗やキリスト教の恐怖が鎖国を生み、それ以上の国家統一の動機に乏しくなった。
しかしアメリカは、1857年に総領事ハリスが、家定と会見して大統領の親書を渡して、通商を迫った。ハリスは、中国のアロー号事件がかたづけば、英仏連合艦隊が日本に攻めてきて、武力通商を迫る、と脅した。開明的な幕閣官僚は、中国のように侵略される前に条約を結ぶことに賛成だった。
しかし孝明天皇は、他国が日本に入ってくるのには反対で、勅許が下りない。58年に大老に就任した井伊直弼は、勅許が出るまでは条約を引き延ばすよう言ったが「やむを得なければ是非に及ばず」と言ったため、現場交渉者の下田奉行と目付は、勅許を得る前に日米修好通商条約に調印してしまった。