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メメントモリと辞世の句

2022.07.13 07:21

http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm//wa-ku_memenn【死のワークショップ】

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/categories/1309392 【死生観】

https://www.caresapo.jp/senior/health/health/pd4fc80000005evd.html 【第85回 メメント・モリ】より

  「メメント・モリ」という言葉を聞いたことがあると思います。ラテン語で死を覚えるという意味をもっています。中世のカトリックの修道院でシスターや神父さんが、あいさつの代わりに、用いた言葉です。与えられた自分の時間を、命を大切にしましょうというような意味で、死を覚えるなどいう意味は本来ありませんでした。

 しかし、私たちは死というのをひとごとのように考えがちです。それを日常のものとして気にとめる。そのようなニュアンスの意味として「メメント・モリ」という言葉を覚えてください。

 「いのち」とは、生かされて、今をどう生きるかをいいます。この「今」というのは、私が持っている時間です。命を考えるときに、時間の枠がなくては考えられないのです。時間は、まったく目に見えません。また空気や酸素も必要ですが、同じように見えないでしょう。

 与えられている私たちの時間を、私たちが使うことができる。したがって私たちの使える時間をどのように使うかが、生きるということです。これを動物は意識していません。アリやミツバチは、組み込まれた遺伝子の命令の通りに働くだけです。しかし人間は自分で考えて使うことができる。万物の霊長である人間は、自分が使える時間が自分の命と意識しています。人間だけが自分で選択して自分らしく時間を使えるのです。

 死に備えるということは、どうよく生きるかであり、どうよく死ぬかに通ずるのです。したがって、メメント・モリというのは、死ぬことばかりをいっているのではなくて、我々がどう生きるかの延長線にあるのです。

 時には、「生まれなければよかった」と、非常にネガティブに考えることがあるでしょう。しかし、その悲しみに触れたときに、皆さんは体験というものを発見するのです。

 ジャンプをするときには、身体を伏して頭を下げるものです。これはジャンプに必要なのです。100m競走の場合でも、くつろいだ状態で飛び込むような姿勢をとっています。

 あとになってから、恵みだということがわかるのです。はじめから、ご褒美はないのです。はじめは苦しいかもわからない。不幸であるかもわからないけれども、その不幸を経験することによって、人間は成長するのです。

 この世に生まれてきたことはハプニングそのものです。お父さんとお母さんが愛し合って生まれてきたということ、それはナノという遺伝子の中から、毎月出る精子と卵子から選ばれて、そこに出会いがあったということです。

 不幸になったときに「生まれなかったらよかった」「産まなかったらよかった」と後悔することが、たびたびありますが、自分の命が与えられたものであると考えると、私たちにはそれが不幸かどうか、わからないのです。天から見ると、人間には想像できないシナリオがあるのです。


https://ameblo.jp/nukunukumichi/entry-12733876443.html 【メメントモリと辞世の句】

どんなに目を逸らしたくても、老化に逆らいたくても、人はいつか必ず死を迎えます

メメントモリ 死を忘れるなかれ 命に限りがあることを常に心に刻むからこそ、今が大切に思えてくる 武士は死に際して辞世の句を詠みました。

自分の人生を振り返り、短い語句の中に自分の人生の全てを表現する。

辞世の句を初めて知ったのは小学校の修学旅行、会津の白虎隊のお墓を訪ねたのがきっかけです

あまり年の変わらない白虎隊士が、藩のために自ら命を絶ったことはもとより、辞世の句まで詠んでいることに衝撃を受けました。

ここ数年、各地に祈り歩くようになって、さまざまな武将の辞世の句を知りました。

大変印象に残り、折にふれ思い出す辞世の句があります。

うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ (土塊)

討つ者も、討たれる者もかはらけ(土器)に過ぎず、砕けた後は、もとの土の塊になるだけ。

この句は、神奈川県三浦市の油壺に城を構えていた三浦義同(みうらよしあつ)公が詠みました。

あなたの感情を掻き乱す誰かも、あなた自身も、わたしも、みんな 死んだらもとのつちくれに還る。ただ、それだけ。

この句を眺めれば眺めるほど、心の中のさまざまな気持ちが解け自分の身体も解け、大地と一体になり静けさに戻っていくような感覚を覚えます。

大地と一体の感覚を覚えれば覚えるほど、産業革命以降、人間がこの地球にばら撒いてきたさまざまなモノに対する違和感が湧いてきます。

その違和感も長い目で見れば、つちくれに還っていくわけですが、人間がばら撒いてきたモノのおかげで命を脅かされているたくさんの動植物がいます。

それゆえ、人間であることが嫌になることもあるわけですが、メメントモリ、人生の残りの時間で何が出来るのか、、、

地球全体の未来のために貢献したいなと思うばかりです。

つちくれ意識を大事にしながら。

感情に呑まれそうになったら、いずれは大地に還っていく自分と目の前の人を想う。

大地に還ったところを思い浮かべた時に何か違和感が湧くならば、その違和感を解消するために今出来ることは何だろうかとよくよく考えて出来ることから行動する。

うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ (土塊)

お読みくださりありがとうございました


https://so-gi.com/topics/6977 【辞世の句から考察する日本人の死生観】より

日本人は俳句に親しんでいますので、このような文化があるのでしょう。最近はあまり聞かないですが、歴史上の有名人は辞世の句を残しています。

例えば、在原業平(ありわらのなりひら)

「つひに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを」

56歳で病に倒れたそう。

「人は太陽と自分の死を直視できない」という言葉がありますが、なかなかその時になっても受け入れられないものでしょう。

思はざりしを・・・いつか死ぬことについて、しっかり心の準備が出来ればいいのですが、なかなかそうもいきませんね。

さらに例をあげますと、

豊臣秀吉

「つゆとおち つゆと消へにし我が身かな なにはのことは 夢のまた夢」

人生は夢の中で夢を見ているようだった。と。

一農民から這い上がって天下をとった大偉人・大英雄でさえ、人生の最後に対してしっかりした現実味を持って対処する感じでなく、夢という表現をしたということに、死というものの未知さを感じます。

夢だとしたら波乱万丈の最高の夢物語だったかもしれません。今でも無数のドラマとして描かれています。

西郷隆盛

「ふたつなき 道にこの身を捨小舟(すてこぶね) 波たたばとて 風吹かばとて」

生きざまって感じる辞世の句ではないでしょうか。やはり辞世の句には、人格が出るものです。自分の人生の集大成というと大げさで、筆も走らなくなりますが、気軽に目の前のことや感じたままに書くだけでも心が整理されるかもしれません。

辞世の句を残す。と考えると大仰にお感じになるかと思いますが、エッセイを残す気持ちでぜひ挑戦してみてはいかがでしょうか。