Okinawa 沖縄 #2 Day 196 (15/07/22) 旧宜野湾間切 (10) Samashita Hamlet 佐真下集落
旧宜野湾間切 佐真下集落 (さました)
- 佐真下公園、砂利崖 (イシグーバンタ)
- 普天間飛行場佐真下ゲート
- イクサナバ
- 前ヌ井 (メーヌカー)
- 昇華之塔、石十三大隊第三中隊之英霊碑
- 集落内避難壕 (1番~5番ガマ)
- 闘牛場 (ウシナー) 跡
真栄原集落に続いて佐真下集落に移動する。
旧宜野湾間切 佐真下集落 (さました)
佐間下集落訪問ログ
佐真下公園、砂利崖 (イシグーバンタ)
普天間飛行場佐真下ゲート
佐真下公園の横は普天間飛行場佐真下ゲートがある。切り通しで入り口が造られてそうだ。このゲート辺りは2020年12月に、0.1haとごく僅かなのだが返還され、ここを通る市道宜野湾11号線のカーブが緩やかになったそうだ。
イクサナバ
普天間飛行場を囲むフェンス外側には幾つもの墓がある。佐真下公園の東側基地内にはイクサバナ (写真右上) とも呼ばれた場所がある。京阿波根親方 (チョーグンウェーカタ) の墓) があった場所。 公園で休憩中にはオスプレイの爆音が途切れなく聞こえている。ここに発着陸をしているので、至近距離を飛んでいた。米軍基地内には何故か朱塗の鳥居が多く見られる。アメリカ人の日本のイメージがこれなので、マスコットになっているようだ。
前ヌ井 (メーヌカー)
佐真下公園の西側に佐真下集落の共同井戸として使われていた前ヌ井がある。佐真下の産井 (ウブガー) でもあり、生活用水として使われていた。井戸は洞窟内にあり、安全上の為柵で中には入れない。この壕は南東に延びる本洞と、それに平行して延びる支洞、さらに本洞と支洞を結んで北東方向へ延びている第2の支洞からなる鍾乳洞で、総延長が153m位あるそうだ。入り口に香炉が置かれて拝所となっている。腰憩いの行事で拝まれている。沖縄戦当時、この前ヌ井は日本軍に接収され、ケンドーの松並木を切り倒し、その松で内部を補強して陣地にしていた。
昇華之塔、石十三大隊第三中隊之英霊碑
前ヌ井の側に、1966年 (昭和41年)、佐真下郷友会によって昇華之塔が建立され、戦没者を弔っている。昇華之塔の隣には佐真下産井碑、下には石十三大隊第三中隊之英霊の碑が建てられている。1977年 (昭和52年) に昭和十五年会によって建立された。塔には108柱の戦没者名が刻名されているが、後に沖縄県平和の礎調査では148人が犠牲になったと報告されている。佐真下郷友会では、ここで慰霊祭を旧暦2月2日に近日曜日に行なっている。
沖縄戦の戦況が悪化する中で、佐真下部落には旧日本軍の石部隊が駐屯し、陣地が構築されていた。 米軍上陸直前の1945年 (昭和20年) 3月下旬頃、 日本軍は高射砲の邪魔になるという理由で、 住民を追い出し民家を焼き払っている。佐真下住民は、今帰仁村に疎開する者、地元のガマに居残る者 (民家が日本軍に焼き払われた為)、南部に避難する者の三通りに分かれた。北部疎開は食糧不足を心配して、疎開希望者はそれほど多くはなく約15世帯が馬車4台に荷物を積み、艦砲、空襲のなかを昼は山に潜み、夜を撤して歩き、今帰仁村謝名、与那嶺、玉城部落あたりへ避難した。村に残った組は次良比嘉小 (ジルーヒジャグヮー) ガマ、樽仲村渠小 (タルナカンダカリグヮー) ガマ、安里 (アサトゥ) ヌガマ小 (グヮー) 等に身を潜めていたが、米軍が上陸して間もなく捕虜となり、野嵩を経て安慶田 (現沖縄市) に収容されていた。 日本軍と行動を共にすれば安全と考えた南部避難組住は、思いと反して南部戦線の日米攻防戦の巻き添えとなり、激しい戦火を浴び、一家全滅の悲劇も含め多くの犠牲者が出ている。 居残り組の中でジルーヒジャグヮーガマには100人が避難していたが、その後、球部隊の兵隊も侵入してきた。壕では日本兵の横暴ぶりに住民は怯えていたという。4月17日、壕の外で米軍の2世から投降の呼びかけがあったが、日本兵からは投降すれば殺すと脅かされていた事や投降後には米軍に殺されると言われていた為、住民は恐怖で応じる住民はなかった。しばらくして米兵が境内に押し入って来ると、住民は非常用の縦穴から逃走したが、20人は境内で捕虜となった。30人が逃走し、南部へ避難していったが多くがその地で犠牲になっている。この壕で捕虜になった人達は幸いだった。また、アサトゥヌガマグヮーの壕には約50人が避難していた。殆どが佐真下の住民で、残りは喜友名の人達だった。 壕から水汲みに出た人、家へ食糧を取りに出た人の中で流れ弾に当たって死亡したり、重傷を負った人もいたそうだ。
戦後、米軍の捕虜となった人々は、県内各地の収容所から野嵩収容所へと集められたが、元の居住地には戻れず収容生活が続いた。 1946年 (昭和21年) 8月、我如古、志真志、真栄原とともに我如古ヌ前 (ガニクメメー) に割り当てられ た土地への移動が許可され、1946年 (昭和21年) 年11月30日に我如古ヌ前に移動した。1947年 (昭和22年) 6月30日には、大謝名の住民も移動してきた。暫定で割り当てられた我如古ヌ前での生活が10年続き、1956年 (昭和31年) にようやく一部地域への帰還が実現した、元の居住地は基地内で接収されたままで、南側真栄原の近くに真集落建設が始まっている。元の集落は現在も返還されていない。
集落内避難壕 (1番~5番ガマ)
佐真下は石灰岩台地の広がる地域で石灰岩の山林と窪地が点在し、佐真下の地下はガマだらけで水が溜まりにくい地域であったという。 カー (泉) も湧水ではなく、ガマ内に溜まった水をガマを降りていって水を汲んでいた。 このガマが避難壕となっていた。集落南側の真栄原との境にある長佐久 (ナガサク) には1~5番までの名前のついた地下でつながる大きなガマ群があった。今はその入り口も塞がれ、住宅地や学校となっておりガマがあったとはわからない。1~5番までのガマがあった場所を通って見た。1番ガマは長佐久 (ナガサク) ガマ (写真左上) で現在のカトリック沖縄中学校の敷地になっている。2番と3番ガマ (写真右上) も同中学校敷地内、4番ガマはカトリック幼稚園敷地内 (写真下) にあった。
5番ガマは少し西に離れた所にあった。
闘牛場 (ウシナー) 跡
長佐久 (ナガサク) ガマのすぐ側にはウシナー (闘牛場) があった場所で現在はカトリック沖縄学園敷地内になっている。1943年 (昭和18年) 年頃までは闘牛をしていた。喜友名から牛を買い、闘牛カッシン (合戦) のあとに宜野湾へ売っていたそうだ。 他の集落の闘牛でも同じだが、常時闘牛用の牛を飼っている家と試合前に買ってきて、牛が勝てば高く売っていた家もある。
佐間下には文化時はほとんどないので短時間で見学が終わった。まだ時間があるので、次の訪問を予定している我如古の文化財も巡ぐることにした。途中、暑さでまいってしまったのと脚がつり始めたので、少し休憩をして家に戻ることにした。次回に我如古の残りを見ることにする。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)