第11回目 インド 後編 コヒマ 2017年12月
18:2017年12月29日 コヒマにて
2017年12月29日、現地行動の取れる最終日。コヒマの朝を迎える。昨晩、とことん疲れ切った私は、熟睡出来、目覚めが良かった。昨晩は、F氏がお酒を飲んでいたのを見ていたので、さすがに今日は朝の散歩を無いかなと思った。半ば諦め、一人で外を歩いてみようとガサガサしていると、F氏も起きてきた。これで、ここインド・インパールに来てから、散歩を休むことなく、今日も二人揃ってコヒマの街を歩き始めることとなった。
ここでは第31師団 烈兵団が連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた場所の一つである。今は、多くの人々が住み、たくさんの建物が所狭しと街の中に隣接している。ほとんどの建物が断崖絶壁に建っている。心無しか傾いているかのようにも見えるほどです。
F氏と会話をしながら歩いていると、コヒマの住人が声をかけてきた。道案内をしようとする人、部屋でお茶を飲んでいきなさいと誘って下さる人が現れた。皆さん、人柄がよく、心が豊かに見えた。F氏に言われて気が付いたのですが、インパールに入ってから、物乞いといった方を見たことがなかった。これは何を意味するのだろうか。最終的な理由の結論を持ち合わせていない私は、このような地域に来たことがないので驚くしかなかった。
朝日を浴びるコヒマの街
ズームアウト・ズームイン コヒマの街
建築中の建物
ホテルに戻り、朝食を頂く。目玉焼き、マンゴージュース他、色々とブッフェ形式のテーブルに並んでいた。遅れて妻も朝食に現れ、3人で朝を頂いた。今日の予定は、佐藤幸徳中将のコヒマでの入居先とガリソンヒル、戦争博物館 他といった内容でした。
コヒマで宿泊していたシャロームロッジ正面
シャロームロッジにて朝食。
しばらくすると、ガイドのアランバム氏とドライバーをホテルにやってきた。表情から察するに、今日は昨日までのような道を延々走る必要もなく、リラックスしているように見えた。ホテルから出ると、我々が宿泊している建物の柱にも銃痕があることを教えてもらった。この建物は戦争当時からあるものらしかった。
70年以上経っても、銃痕が残されたままになっている。
今は、何事もなかったように落ち着いた雰囲気でフロントが目の前にある。
ホテルを出てまもなく、街から少し離れた佐藤中将の住処であったであろう家屋にやってきた。その建物には水切りも外壁についていて、ネジでビス締めをしていた。こういった工法はこちらの住民の家屋には無いので、それが証明になるだろうとガイドが説明をした。何故、その位置の家屋を選んだかというと、その背後の山々へいざ敵軍が攻めて来た時に逃げるルートがたくさんあるからという理由からでした。さすがに現在は誰かが住んでおられるので、中を見ることは出来なかった。
KIHWEMA 街の正確な読み方はわからないが、コヒマから20分ぐらいの移動で来れたように思います。この場所に佐藤幸徳中将が居を構えていたという話だそうです。
この建物が佐藤中将が住まわれていたとか。この建物の背後は逃げ道になっていたそうです。景色の良い高台になっています。一望出来、全ての様子が伺えます。
建物の建て方がこの村の家屋の建て方と違い、くぎ打ちではなく、ビス締めと水切りが壁の下についています。
次に戦争博物館に向かうが、休館日ということで中へ入ることは出来なかった。ここでは兵隊さんの存在を感じ、きっと中の展示物につかず離れずずっと一緒にいるのだろうと予測した。が、中へ入れない。きっと、まだ、帰るタイミングではないのかもしれないとこの時のめぐり合わせで私は次回に回すことにした。仮に、私が来なくても、誰かがきっと何かして下さるでしょう。
19:三又路 平和記念公園
いよいよ、ここコヒマで一番戦闘の激しかった場所へやってきた。今は、整備され、とても風光明媚な場所になっていた。英軍・インド軍の墓標が理路整然と並んでいて、とても美しかった。この丘を登って行くと、戦史の中で有名なテニスコートがある。私はここに来たが、何も感じることが無かった。意外に拍子抜けした。が、今回は、妻がここで兵隊さんの存在を感じるということを言い出し、F氏とアランバム氏が慰霊の準備をし始めた。味噌汁や線香・蝋燭を用意した。その横で私も何か手伝おうとしていると、急に誰かがやってきて、私の身体を使いたがっているのがわかった。頭痛が始まり、立てなくなってしまい、横になりたがったが、かろうじて縁石に座った。「仕方ない。身体を貸すか。」身をゆだねると、妻がその兵隊と話をし始めた。この間、私は頭痛がひどく、しんどくてしんどくてたまらなかった。話している会話などどうでもよく、倒れて横になりたかっただけだった。話が終わると、意識がはっきりと戻り、頭痛がおさまった。妻が録画していたので、その会話を聞いてみると、どうも身体が無いと探し回っておられるようでした。74年過ぎても、まだこのような状態なのだと成仏しないでいる魂の状態を改めて知ることとなった。そして、死んだ場所を指さしていたようだ。途中、妻に俺の気持ちがわかるもんかといった文言がぶつけられている様子を知ることとなった。本を読んだ時は、「行ってきまっさと覚悟を決めて、あっさり、死を覚悟した上で、攻め入ったと書いていたが、本音はそうでない人もおられたということを知った。美化された話だけではないことを確認でき、やはり、全てを綺麗にまとめるには、亡くなった方々に対して残酷だなと思った。
妻に向かって吐いた暴言については何も言えないが、そんな言葉を吐きながらも、本当は助けて欲しい、理解してほしいと思っているのは、同じ人として痛いほどわかった。私は、「日本へ帰ってゆっくりしましょう。もう戦争も終わって、帰っていいんです。自分を育てて下さった両親の住む日本へ帰って良くしましょう。皆、待っていますよ。」と徐々に、声をかけさせて頂きました。我々の役目は彼らの心の闇に光を当て、正しい道に進んで頂くことです。帰国の願いを叶え、本来向かうべき場所へ行ってもらうためのお手伝いをすることぐらいしかできませんので。彼らの尊厳をもう一度奮い立たせるには、「良くしましょう」という言葉を暗に付け加え、そして、愛するご両親のお話で帰国を促す他なかった。私はあくどいしたたかな人間かもしれないけど、これ以上、彼らをここに残しておきたくはなかった。
コヒマ三又路高地にて。
テニスコート
コヒマ三又路高地 墓標
コヒマ三又路高地 水槽跡
ガリソンヒルの後、昼食。そして、コヒマ全景を見渡すことのできる大きな教会へ立ち寄ることになった。教会の前の広場はとても広く、そして、目の前にコヒマ全景が広がる。1945年、ここにはどのような景色があったのだろうか。過去を見渡す目は私には無い。今のコヒマの街並みを記憶に留め、最後は教会の建物の中を見学することにした。
立派な教会であった。何人入ることが出来るのであろうか。教会内部の正面を見上げると、鳥を象ったステンドグラスがあった。「ここにも鳥が・・・。日本で見た鳥の神様がここでも出迎えてくれているのか。しかし、なんでここでは鳥を神格化されているのだろうか。教会なのにな。」と思いにふけった。北海道のF氏は教会内部正面の壇上へ上がり、光と日本の墨汁で書かれた文字の色紙を奉納。英霊の成仏を祈願されていた。最後の舞台には持ってこいの場所でした。F氏の背後を見つめながら、残りの我々も手を合わせり、黙とうを捧げた。妻とF氏は、寄付の箱にインドルピーを入れ、そこを発った。
教会内
この後は、コヒマにある市場へ散策。これが唯一の息抜きであり、慰霊を抜きにした自由な時間であった。時間にして、30分くらいか。我々の旅には、どの時間にも英霊のことが頭から離れていなかったことに、この散策の時間が教えてくれた。
この後は、戦争の激しかったガリソンヒルの麓にある三又路に残されていた連合軍の戦車を見に立ち寄る。日が暮れ、辺りは暗くなってきていた。周囲を一回りし、当時の様子の余韻に浸りながら、帰途へ。最後は、F氏が三又路にある大きな看板を撮影するために車を止めた。何でも58という数字が気になるということで、そこの看板を撮影したいのだとか。烈兵団の中に属していた高田陸軍第58連隊の数字と同じでした。この数字は、何かの価格を表示しているものらしい。ホテルに戻り、こうして、この旅の全てを終えた。
連合軍の戦車。火炎瓶を投げられ、中にいた兵隊は急いで逃げたらしい。
烈兵団に所属した高田陸軍歩兵第58連隊と同じ数字をコヒマ三又路高地の麓で見つける。F氏撮影。何かの商品の価格らしいが、偶然にしてはと、ついつい思ってしまう。F氏の心に印象付けた看板が最後を締めくくった
この後、ホテルのロビーにて、アランバム氏と北海道のF氏との情報交換が熱く繰り広げられた。靖國神社楷行文庫K室長から頂いた資料のコピーをアランバム氏に手渡し、日本語を英語に翻訳していく。この戦死者の資料は非常に貴重であり、現地でインパール作戦を研究するアランバム氏にとって、とても重要な情報となった。二時間ほど、ずっと話し続け、まるで今後、インパール作戦戦史を一段と世に伝えるための有意義な会議が行われているようでした。ホテルスタッフも横からそっとティーをご用意して下さいました。妻がティーをコップに入れ、皆にふるまう。私は、途中からついていけず、ホテルで飼われている犬とじゃれ合った。動物好きな私。このワンちゃんとも明日、お別れをしなくてはいけない。それにしても、かわいい・・・。持って帰れないかと一人悶々とするのであった。
アランバム氏とF氏の熱い会話が終わり、ガイドを見送る。彼は別の場所で宿泊しているそうで、どんなところで宿を取っているのか気になった。現地の人が宿泊するホテルってどんな感じなんだろうかと思いながら、F氏の部屋で今回のメンバー3名、F氏、妻、そして私はビールを飲みながら、旅の苦労を労った。時折、部屋の中を飛び交う人魂。亡くなった兵隊の顔が見えてくる。ツインの部屋で宿泊するF氏の横のベッドは空いている。合掌。
アランバム氏とF氏の熱いトークが最後のコヒマの夜に繰り広げられた。私はついていけなくなった・・・。ワンちゃんも彼らを見守る。
コヒマ シャロームロッジのマスコット犬と遊びだす。動物大好きの私は心を奪われる。
コヒマ 最後の食事をシャロームロッジで頂く。
20:2017年12月30日 ディマプール空港へ
コヒマの最後の朝を迎える。F氏と早朝散歩でコヒマ市内を歩く。気が付けば、コヒマ市内を一望できる場所へ辿りついた。F氏は煙草を英霊の供養のために吸い始めた。書き忘れていたが、サンシャークに滞在していた前後、私は悩んでいた。今回は、広範囲に渡るだけでなく、コヒマからウクルル・カムジョン、フミネ・トンヘと続くすべてを道を通すことが出来なかった。これでうまくいったのだろうか?と悩んでいたが、すべては問題はなく、辿る道で各々合流、もしくは事前に待っているということを聞かされた。この後以降は、気持ちが楽になり、霊能者でない私は、安堵するのであった。ウクルル前だったのは間違いなかったが、いつだったかは明確に覚えていない。私が悩み始めると、たまに聞こえてくるメッセージ。主はその都度、違う。私が、誰なんだろうなと悩み込むと、最終的な結論にいつも辿り着く。《詮索する必要はない。》きっと深層心理のどこかで意味がないことを理解しているからなのかもしれない。しかし、誰なのか、なんとなく、察しがつくこともある。だけど、限定はしない。これでいいのだ。
昨日は反対方向へ歩くと、この場所へ辿りつく。F氏は感慨深く煙草を英霊のために吸う。F氏は普段煙草は吸いません。
正面にジルヒルがあり、その後ろにコヒマ三又路高地がある。
最後の朝の散策を終え、ホテルへ戻る。朝食を取り、お腹いっぱいになる。このホテルのマンゴージュースが大好きになった。普段は飲まない飲み物だ。そして、F氏に頂いたコーヒーも飲む。濃い目が良いらしい。確かに、味が良く出ていて、ぐっと体に力が入る。
ガイドのアランバム氏とドライバーがホテルにやってきた。荷物を車に乗せ、ディマプール空港へ向かう。ここから3時間弱ぐらいらしい。ホテルのワンちゃんともこれでおさらばだ。なんだか寂しい限りである。
8:00頃出発し、再び、悪路を走行。ここも舗装されていないのかと眺める。とてもじゃないが、メイン道路に思えない。道幅が少し広いだけ・・・。
F氏から聞いた話ですが、アランバム氏によると、この地域に中国人とバングラディッシュ人は入域を禁止されているようだ。バングラディッシュ人は主に盗難目的でこの地域に不法入国を繰り返していて、社会問題になっているらしい。アランバム氏も車の部品を盗難に被害にあったようでした。
3時間かかると言われていたが、御覧の通りの時間がコヒマからディマプールまで来ることが出来た。
ディマプール空港にはコヒマのホテルから2時間40分で到着した。思っていた以上に早かった。が、相変わらず、車酔いをしてしまった。空港にて、F氏がアランバム氏・ドライバーにチップを渡されていた。妻はドライバーにチップを事前に渡していたらしい。前夜、私は、アランバム氏に数珠を渡しました。これは関西花の寺25ケ寺を巡礼し、英霊成仏祈願のために作成したものでした。宗教上、受け取ってもらえるか心配でしたが、彼は何の躊躇もなく、御守りだと言って、受け取って頂けました。お金の方が良かったかもしれませんが、これはこれで、今後、彼が戦地ガイドとして、あちこち回る時に、この数珠を持って、手を合わせて頂ければ嬉しいなと思うのであった。この数珠には私の思いを込めている。今回、私と会うことが叶わなかった兵隊さん達に、この数珠を通して、メッセージが届くことがあればなという思いがあった。肉体を失った方たちの世界は念の世界だから。
「自分の周囲に、貴方を常に見守って下さっている方がおられます。意識を向けてみて下さい。そして、貴方が本来戻るべき場所を再び考えて考え直し、周囲の存在の言葉を聞いてみてください。そこから、再び、貴方に選択肢が現れます。決めるのは貴方だから。」
そして、私は、光を強くイメージして、その数珠に念を込めました。これが、今回の旅で私が出来る最後のことでした。
ディマプール空港でアランバム氏とガイドに別れを告げ、空港内へ移動した。ここでも厳しい検査があった。案の定、F氏のバッテリーが検査で捕まる。なんだか、こちらが申し訳ない気持ちになった。そして、妻も使い捨てカイロ・ウェットティッシュで捕まった。
「ほんとに厳しい!」だけど、旅の安全を思うならば、感謝だと思います。
「ありがとうございます。」
数珠を手渡す。
ディマプール空港内
ディマプール空港外観
ディマプール空港 搭乗へ
無事、ディマプール空港からカルカッタ空港へ移動すると、カルカッタ空港内で、兵隊さんが話しかけてきた。「本当に日本へ帰れるのか。ありがとう。」思わず、制止した。帰国への喜びと感謝を述べたかったようだ。ここで、私としては、彼らがきちんと私と同行し、帰国に向かっていることを確認できて、良かった。
カルカッタ空港で、また因縁のプリペイドタクシー。今回もバウチャーは発行されず。前回より安かったとF氏からお聞きし、いろいろ理由を考える。無事、昼過ぎにはホテルに到着し、深夜の飛行機まで時間があるので、各々、部屋で帰り支度と休憩を取った。が、部屋に電話が何度もかかってきたり、部屋の掃除のノックなど、やたらと落ち着かなかった。インドってこういう感じなのかと思いながらも、ちょっと疲れた。が、感謝。シャワーを浴びて、横になれるだけ、非常に良かった。
部屋で、アランバム氏の戦争博物館で持ち帰った靴底の砂をどうするか気になった。福井県敦賀のことが頭の中で浮かんでいていた。すると、部屋の椅子に立てかけたリュックが、倒れるわけもない形で置いていたはずなのに、横に倒れ、リュックの中から靴底の砂を入れていた、ジップロックが目の前にスルスルと滑り出し、目の前の机の上にピタッと止まったのだ。「あほな!!!福井県!敦賀かな?」と何故か頭に浮かび、鳥肌がたった。というか、驚愕した。目の前にピタッと・・・。まるで、私の目の前に置くがごとく、スルスルと差し出されたとしか思えない動きでした。何でもなくみえる出来事のはずなのに、目の前の出来事に異常さをヒシヒシと感じた。息を呑み、胸の鼓動が耳に聞こえてきそうだった。
インド・カルカッタからタイ王国バンコクまでの飛行機は12月31日0:20の便であったので、21:00過ぎにホテルを出発した。予約しておいてタクシーが来るが、超小型。荷物がトランクに乗らず、助手席に乗せることになった。我々3名は後部座席に。苦笑以外のなにものもない。ホテルスタッフって我々の人数と荷物を見て、タクシーの大きさを考慮して配車しないのか?
カルカッタ空港へ到着。相変わらず、空港内へ入るのに、荷物の検査が厳しい。特に軍人が銃を持って警備しているのが気になる。結局、空港内へ入るのに50分費やしてしまった。
空港内で食事をしようかと動き出すが、相変わらず、妻の調子が悪い。F氏がレストランを探すも、妻の勘違いで、何も食べれず。昼から何も食べていなかったので、非常に申し訳ない気持ちになった。タイ王国スワナプーン空港についたら、タイ飯をF氏に絶対食べてもらうと強く心に決め、搭乗する。
朝4時頃、タイ王国バンコクへ到着。頭の中は、タイ飯しかもう無かった。レストランを探し、さっそくテーブルにつき、注文。F氏がトムヤンクン麺を食べている姿を目の前で見て、ほっとする。そして、私もタイらーめんとカオマンガイを注文。昨晩の分を胃に取り戻した。
F氏はここで成田空港へ向かうことに。我々は関西空港へ。このレストランで別れることになった。今回もF氏にお世話になり、とても心強かった。彼がいることで、全体的に目を開くことが出来る。特に見知らぬ土地では、目に見えない重圧が大きい。そんなことから3人で協力し、各々の出来る仕事をすることがどれほど助かるか。英霊の依頼を受けられたことはとても意味があると思う。別れる時は、あっけないが、うまく自分の感謝の気持ちと、共に従事する喜びを表現できない自分がもどかしい。
「F氏、ありがとうございます。」心からそう思った。
我々も1時間遅れで、タイ王国バンコクを発つ。関西空港へは2017年12月31日15:30過ぎに到着。荷物を拾い、リムジンバスを1時間ほど待つ。その間、うどんをすすった。旨かった・・・。「日本食が一番だな。」相変わらず、外国の食べ物が苦手だった。
自宅に着いたのは、20:00前後だったと思われる。今回は8日間の長旅だった。何度も行ける場所ではないので、余裕を見たつもりだったが、日にち的、時間的に丁度でした。
今回も仕組まれていたかのような旅の日数配分であったように思います。とにかく、疲れ切った。が、深夜、また、年越しそばを食べました。美味しかった・・・。
20:2018年1月6日 高野山 奥の院
兵隊さんの見送る場所として、敦賀を第一に調べていたが、高野山奥の院へと連絡があった。F氏もご同行する旨を伝えて下さり、3人で締めくくりたいと思っていましたが、妻の様態がすこぶる不調で、早く帰国同行した兵隊さんを早く見送りたいと聞き分けが無かった。仕方がないので、F氏にその旨をお伝えすると、英霊の浄化が最優先だとご理解を頂いた。私として、3人で行きたいと強く希望していたので、ちょっと不満が残った。が、これ以上、妻の精神体力を考えると厳しいかとも思った。
高野山 奥の院。生憎の雪でしたが、無事、到着。
高野山 奥の院へ2018年1月6日14:00前後に到着。雪の積もる中、本堂へ向かった。中へ入り、御坊様へ相談。御経をあげて頂くことになった。アランバム氏の博物館から持ち帰った砂も快く受け取って頂き、ホッとする。この後、本堂奥へ入り、御坊様を待つ。御焼香をし、1時間、目の前でお経を詠んで下さる間、ずっと手を合わせていた。多くの兵隊さんが現れ、感慨深く聞いておられた。いつの間にか、消えていき、さよならを告げた。しかしながら、帰国された兵隊の数を考えれば、とても全員というわけではなかったのが、気がかりでしたが、妻は心無か落ち着き、納得をしていたように思えた。正直、私はまだ完全な終わりではないなと思った。「どうするか。雪解けを待つか・・・。」と心中思いを巡らす結果となった。
北海道のF氏にメールし、高野山での出来事を報告。これにて、取りあえず、幕を下ろさせて頂きました。
21:2018年1月13日 土曜日
朝から、気がかりになっていた残りの兵隊さん達のことを思っていた。すると、残りの兵隊さんたちが私に声をかけてきた。
「ありがとうございました。」彼らの状況が全て、伝わってきた。そうか、光輝き始めたね。。。良かった・・・。
彼らの存在が消えていく。
今回も力不足を感じる旅であったけど、なんとか、お手伝い出来たと自分自身も労った。
そして、今回の成功も、関わる皆さまのおかげだと思います。
心より御礼申し上げます。ありがとうございました。