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yoyo

年森瑛『N/A』

2022.07.14 15:57

前に、人種差別や性的マイノリティに対する差別、女性蔑視などの「社会問題」に対して声を上げる一方で、自らが身近な人へと差し向ける態度に含まれる蔑みにはとんと無頓着な人がいた。

そういった仕草はSNSでもよく見かける。マイノリティへの差別に反対するタグをつけツイートする。「声を上げよう」と言う。一方で「◯◯してる人はだいたいこう」などとその「社会問題」に関係ないと「思われ」れば、無邪気に周囲をカテゴライズして蔑み笑う。


「社会問題」として取り上げられるそれらはつまり、「身近な個人」へのカテゴライズや見下しに、もう潜んでいる。なのにどうしてそんなに個人を、目の前にいる人をないがしろにできるんだろう。もちろん同じ問題を抱えた人が連帯し、声を上げて社会を変革することには賛同する。けれどもそれって個人が生きやすくなるためでないのか。

社会の方が、属性の方が、大きな問題にコミットすることの方が、そんなに大切なのだろうか。「N/A」はその憤りにも近い疑問に形を与えてくれたと思った。


「女の子なんだから、体冷やしちゃ駄目よ」と祖母はまどかにカイロを渡す。しかしそれはまどかではなく、いずれ子どもを産むだろう「女の子型工場」に宛てた言葉だ。

ツイッターの中でまどかはうみちゃん(女性)との交際を見知らぬ人々から応援されていた。しかしそれはまどかのことを応援しているのではなく、「うみちゃんとまどかが虹色の囲いの中にいるから」応援しているのだった。

友人の翼沙はまどかがうみちゃんと付き合っていることを知り、傷つけないよう、恐る恐る対LGBT用のしゃべり方をする。

「押し付けない、詮索しない、寄り添う、尊重する、そういう決まりごとが翼沙を操縦していて、生身の翼沙はどこにもいなかった」。


まだ見ぬインターネットの海にいる人も、家族や友達でさえも。まっさらなSNSでも、たしかな現実でも。どこでも誰とでも、まどかは「まどか」でなく「女性」や「性的マイノリティ」といった属性として見られ、その属性に対する「マニュアル」を「順守する」かのように接される。だから「やさしく手をつないでくれた人をがっかりさせないように、黙って笑顔で収まってい」なくてはいけない。属性からはみ出ることは許されない。


個として関わりあうことが、自分の言葉で伝えるということがいかに難しいか。最初に挙げた人たちだってそうなのだ。そして私も。


終盤まどかは、祖父がコロナに罹った友人に、自分なりの、友人のためだけの言葉を言おうとするも、ネットで定型文を探そうとしてしまう。それまでの立場は反転し、属性で人を捉えることの手軽さ安心さがまどか自身に迫る。


自分の言葉で人の心を揺らしてしまうのが怖くて、自分の言葉の責任を担保してくれる何かが欲しくて、他人のお墨付きの言葉を借りたくて仕方がなかった。P46


この感覚は私にも覚えがあった。ウクライナのこと、pixivのこと。「社会問題」に対して何か言おうとすると、私はなにも言えなくなる。先月の日記でpixivのことについて私は以下のように書いた。


私はこの件に関してまだ自分の言葉で外に向けて語ることができません。もちろんトランス差別、セクハラSOGIハラには反対だし、被害者の方が安心して働けるようになってほしいと思っているし、ここではこうして書けるけれども、それを外に向かって発信しようとするとうまく言葉にできない。間違いに怯えテンプレみたいになる。間違いのない誰かの言葉を探してしまう。それは自分の言葉を信用できていないからなのだと思います。


まどかは友人に向けての言葉を探しているから根本は違うかもしれないけれど「自分自身の言葉を探す」という点で、なんかもうほんとに一緒で、まどかと同じ場所に立たされているような気持ちになった。


ラスト、恋人でなくなった何者でもないうみちゃんが、「恋人でも何者でもない一人」としてまどかに接する。そしてまどかもまた何者でもない一人に戻っていく。そこでまどかの口から出てきたのは「ありがとうございました」という「誰もが認めてくれる、丸っこくてやさしい言葉」だった。その言葉で物語には蓋がされる。それが私には希望に見えた。祖母も、翼沙も、保健室の先生も、用いたのは属性に宛てた定型文だった。けれども、もしかしたら。その水面下にあるのは、たった一人のまどかへ宛てた気持ちだったかもしれない。その「もしかしたら」で、これまでの物語が塗り替えられていく。

互いの関係性で、その場の空気で、同じ言葉でも、意味はまったく違う風に響く。たとえ結果的に定型文だったとしても、私は私の言葉で、何者でもない目の前の一人と対話をしたいと思った。


・・・


まどか然り、出てくる人が皆、被害者であり加害者であるのも良かった。外国人差別も、女性蔑視も、日常にひょいと現れる。それは皆が内に加害性を持っているから。加害性「だけ」を背負ったはいない。加害性はキャラではない。「差別はいけない」それは皆分かってる。人はやさしく、思慮深く、それでも加害してしまうのだ。そこを切り分け糾弾する人は胡散臭い。


あと翼沙のCDもつまないグッズも買わない、映像はユーチューブに落ちているものを観るという軽薄な推しがリアルだった。推しという単語の広がりを知る。


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加害と被害の曖昧さは宇佐見りんさんの『くるまの娘』と、行動だけを切り取り、勝手にラベリングすることに抗う点は佐原ひかりさんの『ブラザーズ・ブラジャー』と、マイノリティとマジョリティの関係性については朝井リョウさんの『正欲』と通じるところがあると思う。いずれの作品も時代の先端にある作品で、「N/A」もまた新しい作品だなと思った。


なんだか言いたいこと思ったことの半分も言えていない気がする。すごく良かったからたくさん売れてほしい。年森さんの次の作品を読みたい。