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Okinawa 沖縄 #2 Day 197 (19/07/22) 旧宜野湾間切 (12) Shimashi Hamlet 志真志集落

2022.07.20 15:10

旧宜野湾間切 志真志集落 (しまし)


我如古集落に続いて、志真志集落をめぐる。志真志集落は小さな屋取集落だったので、拝所などはほとんど存在しておらず、ゆっくりとポタリングで巡る。



旧宜野湾間切 志真志集落 (しまし)

宜野湾市の南東部、国道330号から東側の長田、宜野湾、我如古と、西原町、中城村に囲まれた地域。 集落東端を沖縄自動車道が通り、西側の国道330号沿いには飲食店などが立ち並んでいる。 本土復帰以降に建てられた志真志ハイツや城山団地などの戸建ての住宅地やマンション、国家公務員宿舎などが立ち並び、閑静な住宅街となっている。 また、沖縄国際大学と琉球大学にはさまれた地域でもあり、学生向けのアパートも多い。

志真志は、もともと、我如古部落の属地に広がっていた旧士族層が形成した屋取集落だった。 最初の移住者は、1700年頃、普天間集落から来た普天間家の先祖で、その後、1730年頃に、首里から富浜家、西原幸地から比嘉家の先祖が移住したという。1810年頃には、首里から我如古家の先祖、多和田家の先祖、知念家の先祖、長浜家の先祖、中城新垣から中村家の先祖などが次々に住みつき、さらに、1860年頃には首里から比嘉家の先祖が、また、1880年頃には宜野座漢那から安次富家、首里より当山家の先祖が移り住んだという。

大久保原にあった西屋取 (イリヤードゥイ) と我如古東側の我如古上原 (ガニクイーバル) と呼ばれた屋取集落がが中心となって、大久保原、志真志原、呉屋田原、池真志原が1939年 (昭和14年) に我如古から分離独立し志真志となった。純農家集団でサトウキビ生産が中心だった。製糖小屋が16ヵ所あったそうだ。その後、1964年 (昭和39年) の行政区再編で、志真志は宜野湾区、長田区、我如古区の3つに分割統合され、行政区としての志真志は消滅している。 


志真志の人口の動向については、行政区として消滅してしまい分割されているので、志真志地域だけの人口は独立行政区だった時代のものしか残っておらず、そのデータは我如古集落の人口に表示している。それによれば、当時は我如古集落人口よりも少し少ないぐらいだった。

集落民家の分布図を見ると1919年の地図では民家は表示されておらず、集落を形成するほどの民家の集まりはなく、民家が点在していたと思われる。戦後は地域西の国道330号線付近に民家が集中し、1990年以降は西に民家が拡張し、沖縄自動車道の東に住宅街が造られ、更に琉球大が移転してきてこの地域が発展している。

他の屋取同様、拝所は少なくイチビントガーのみが産井 (ウブガー) として拝みの対象となっていた。 集落としての主な年中行事は、旧暦2月2日の腰憩い (クシッキー) だけだった。葬式で使う龕を所有していなかったので、 我如古から借りていた。墓は、イシグックやガニクヌクシヌヤマ (我如古の後の山) などにあった。琉球王統から明治にかけては我如古ン一部だったので宜野湾ノロの管轄地域ではあったが、村としての祭祀自体がなかったので、宜野湾ノロとは無関係だっただろう。


集落内には日本軍の武部隊が100人ほど駐屯していた。 武部隊が台湾に移動すると、球部隊が駐屯するように なった。ムラヤー (村屋) などに駐屯していた日本軍は、芋などの食糧を住民に供出させていた。疎開者は40~50人ほどで、多くの住民が集落内に残っていた。自然の壕が少なかったこともあり、米軍が上陸すると、住民は集落内に壕を掘りそこに避難したり、南部島尻へと避難した。 島尻方面に避難したため多数の犠牲者を出している。また、学徒動員や出征兵士が多い地域であったので、その他にも多くの住民が犠牲となった。米軍上陸前、1944年 (昭和19年) 10月1日現在の志真志人口としては697人、死者行方不明者は307人とされる。集落人口の44%もの犠牲者を出したことになる。

米軍の捕虜となった人々は、県内のいくつかの民間人収容所を転々としたのち、昭和21年2月頃、野嵩収容所へと集められた。 しばらくは元の居住地には戻れず、収容所生活が続いた。 志真志は、1946年 (昭和21年) 11月30日に我如古ヌ前 (ガニクヌメー) に移動し仮住まいが始まった。 我如古ヌ前には佐真下真栄原我如古の住民もおり、1947年 (昭和22年) 年6月には、大謝名の住民も移動してきた。 その後、1949年 (昭和24年) に、やっと元の集落に戻ることができた。 


志真志集落訪問ログ



村屋跡

志真志は我如古に吸収されてしまったので、現在は公民館は存在しない。行政区となっていた時期には、この場所あたりに村屋が置かれていた。かつての集落の中心地で高台になる。


ナガモーガー

村屋跡の南側にはナガモーと呼ばれた山林があり、そこにはナガモーガーと呼ばれる井泉があったそうだ。現在はアパートが建ち、駐車場になっており、井泉は消滅している。


志真志公園

村屋跡から南側に降った所に志真志公園公園がある。この公園で暫く休憩を取る。この辺りには幾つかの井戸があったのだが、どれ一つとして現存していない。志真志集落は水の豊富な地域で、各家で井戸を持っていた様で共同井泉は少なかったそうだ。


イチビントガー

公園の脇に水タンクがあった。多分ここがイチビントガーがあった所と思われる。昔は立派な石造りの井泉だったそうだが、現在は埋没している。


アザマガー

公園の北側の斜面にも井泉があったそうで、アザマガーと呼ばれていた。この井泉も消滅している。


チニングヮーガー

かつての志真志集落から沖縄自動車道を渡った所にチニングヮーガーと呼ばれた井泉があったそうだ。自動車道の建設で消滅してしまった。窪地に水が溜まっていたという。かつてのチニングヮーガーの近くには水路があった。


チブ川(チブガーラ)

沖縄自動車道を渡ると、アカミチモーと呼ばれる場所がある。この辺りは、もともと聖地であり、道田井 (ドウタガー) から清流が流れていたチブ川(チブガーラ)だったが、琉球大学がこの地に移転してきた際に、大学敷地内となり、手入れがされなくなった。雑草で覆われてゴミ捨て場になっていたのを、見かねた地元の有志が2010年にチブ川保存会を結成し、手入れを続けてせせらぎを取り戻している。文化財が残っていない志真志では、唯一の見どころの場所だ。

春にはオクラレルカやクメノサクラの花が咲き、チブ川保存会主催でオクラレルカ祭が行われている。


道田井 (ドウタガー) 

チブ川(チブガーラ)沿い、公園の道を奥に進んだ所に源流の道田井 (ドウタガー) がある。水は澄んでおり、ボコボコとそこから水が湧き出ていた。


志真志ハイツ集会所

チブ川(チブガーラ)の向かい側に広場があり、子供達が元気よく遊んでいる。こちらを見つけると、元気よく挨拶をしてくれた。ここは、志真志ハイツという住宅地で、高層マンションが建っている。その集会所がこの広場内にあり、隣は学童クラブになっており、放課後の小学生の面倒を見ている。いる。



これで志真志集落訪問も終了した。今日は帰り道を着た道とは異なるルートにした。東側の西原町に出て与那原を経由する事にした。以前も通った道だが、中城湾まで降り坂で景色が良い。今日は大雨の後は快晴で暑いのだが、坂道を降れば風が起こり気持ち良いサイクリングになる。


まずは琉球大学構内を突っ切る。構内なのだが、一般道路になっている。信号もある。

琉球大学を過ぎるといよいよ降り坂。何時間も炎天下の中ポタリングした後で疲れは溜まっている。ペダルを漕がないで、何キロも降り坂は楽ちんだ。坂道を下ると湾の向こう側に、何度も通った知念半島が見えている。夕方7時前に帰宅。今日も一日中炎天下での集落巡りだった。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)