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Okinawa 沖縄 #2 Day 198 (23/07/22) 旧宜野湾間切 (14) Nagata Hamlet 長田集落

2022.07.24 00:30

旧宜野湾間切 長田集落 (ながた)



宜野湾集落から、かつては宜野湾集落の屋取集落だった長田集落に移動する。長田は屋取集落なので文化財は多くない。



旧宜野湾間切 長田集落 (ながた)

長田は宜野湾市の南東部に位置し、愛知、宜野、志真志に囲まれ、中城村南上原と接した 地域。国道、県道の道路沿いには小売店や飲食店が並び、道路から中に入ると住宅地となっている。長田交差点を中心に、宜野湾の南北と中城村、大謝名方面 への東西の交通の要所であり、また沖縄国際大学と琉球大学の間に位置するため、 学生向けアパートが立ち並んでいる。

長田は宜野湾村に属する旧士族層の屋取 (ヤードゥイ) 集落として始まった。宜野湾上原 (ジノーンイーバル)、宜野湾ヌ上 (ジノーヌイー)、上原 (イーバル) などと呼ばれていた。1939年 (昭和14年) に宜野湾から分離独立している。沖縄の集落では珍しく、長田集落のほとんどの家庭に屋敷井戸が掘られていた。 井戸を掘るには経済的に大変なケースが多いのだが、比較的水には恵まれ、少し掘れば水がでたのだろう。屋敷井戸を掘る以前は、石嶺地泉 (イシンミジーガー) やカッチンダーガーなどのカーを利用していたという。 屋敷内など個人のクムイ (溜池) はあったが、 ムラグムイ (村溜池) のような共同利用するクムイはなかったそうだ。主な生業は農業で、水田もあったが、サトウキビ栽培が主であった。サーターヤー (砂糖小屋) での自家製糖が主で、 サーターヤーは個人所有のものと、数軒でサーター組をつくっているものがあった。

長田は屋取集落だったので、其々の屋取間の繋がりは薄く御嶽や殿などの村の拝所は存在せず、拝みは各屋取、家庭に限定して行われていた。したがって、長田全体として村に祭祀はほとんどなく、村としての祭祀としては農作業に深く関わっている腰憩い (クシッキー) が主体だった。旧屋取集落地域では、この腰憩い (クシッキー) がメインの祭祀の所が多い。農作業の束の間の休息の時になる。正月の若水 (ワカミジ) など家庭での祭祀にはカッチンダーガーや喜屋武原泉 (チャンバルガー) などから汲んでいた。長田は琉球王統時代は宜野湾村 (字) の一部だったので、宜野湾ノロの管轄地域ではあったが、村としての祭祀が無かったので宜野湾ノロがこの地に赴いての祭祀はなかっただろう。

時代ごとの民家の分布状況が分かる地図では明治時代から戦前までは、大きなまとまった集落は見られない。屋取集落の特徴の血縁関係にある数軒の家族が借りていた農地の近くに屋敷を構えていたので、それぞれの民家は離れていたようだ。戦後、その幾つもの小さな屋取集落周辺に民家が増えて行っている。2000年以降に住宅街は国道330号線に拡張し、更に東側へ大きな集合住宅も建てられ民家が増えている。


長田区の人口の伸びは堅調で、前年度比でマイナスになっている年はごく僅かで、コンスタントに増加しそれは現在も続いている。人口データが見つからない年もあり、長田が分離独立した時の人口は不明。沖縄戦の前年、1944年 (昭和19年) 10月の長田の人口は682人で現在はその年人口の15倍にも膨れている。

宜野湾市内の長田区の人口の位置付けは、戦前までは、もともとは字宜野湾の一部の屋取集落だったので、人口は少なかったが、戦後、字宜野湾の旧集落や耕作地が米軍基地に接収されたこともあり、宜野湾と長田の人口は逆転し、長田区の方が多くなっている。2000年以降人口の増加は宜野湾市の中でも突出しており、現在では最も人口の多い区となっている。沖縄の他の地区でも、戦後住宅地開発は住宅地確保が比較的やりやすい屋取集落中心に行われたことで、旧屋取集落の人口増加は高い率になっている。


沖繩戰では、長田集落内のいくつかの民家に日本軍が駐屯していた。 日本軍の戦車部隊が収穫前の畑で戦車を乗り回し畑を潰して戦車壕を掘り、集落内でも日本軍の陣地壕が複数掘られていた。長田の住民は、米軍上陸前に北部へ避難するものはほとんどおらず、集落内には自然のガマ (洞穴) が無く、自家用の避難壕を掘っていた。 米軍が上陸すると地盤の弱い自家用の壕から逃げ出したり、日本軍と共同で掘った壕は日本軍に奪われ、多くの住 民が南部へと移動するしかなかった。その為、南部で多くの人が亡くなっている。

米軍上陸前、 1944年 (昭和19年) 10月の長田の人口は682人、死者行方不明者は332人 (平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めると335人) で集落住民の半分が犠牲になっている。宜野湾市の中では非常に高く、宜野湾市では最も多い戦没者率となっている。

戦後、米軍の捕虜となった人々は、県内各地の収容所から野嵩収容所へと集められたが、元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。 1947年 (昭和22年) 2月に、元の居住地へ移動許可がおり、1947年 (昭和22年) 4月30日に戻ることができた。しかし、長田の西端には軍道5号線 (現在の国道330号) が通り、数軒の家が道路建設で破壊されていた。人口の半数近くを失ったた事から、宜野湾との合併の話もあったが、単独の行政区を維持し、1964年 (昭和39年) の行政区再編で、志真志の一部を統合し、長田区となった。


長田集落訪問ログ



喜屋武原泉 (チャンバルガー)

集落中央あたりの屋号 喜屋武原小の近くにあったので喜屋武原泉 (チャンバルガー) と呼ばれる井泉があった。 各家庭で堀井戸が造られるまではこの井泉を利用し、若水 (ワカミジ) を汲んでいた。現在は宅地建設ので破壊されているが、住宅地の中、崖の下にあったそうだ。そこへの道はまだ残っているのだがフェンスで閉鎖されていた。


村屋跡

長田集落は八班構成で、その三班の中心の高台に村屋が置かれていた。現在は住宅街になっていた。

村屋跡のすぐ側、高台を下った所に神屋ががあった。中には位牌がひとつ置かれていた。


長田公民館

旧村屋の高台を降り更に道路を下った所に新しい公民館が建てられている。


カッチンダーガー

公民館から東に進み集落南東側の畑の中にカッチンダーガーがあると資料にあった。この辺りは一面住宅街で、航空写真地図では所々に空き地や畑が見える。その畑のどれかにあるのだろうと、畑を見つけ井戸を探す。一つ見つけた。多分これだろう。

畑の井戸から次のスポットへ向かう。人が一人通れるぐらいの細い路地があったので入っていくと、もう一つ井戸があった。先程の畑の井戸とそれ程離れていない。資料のカッチンダーガーの写真を見ると、この井戸がカッチンダーガーだった。ここに住んでいた人が水の流れる音を聞き、そこにニービ (砂岩) 石で丸く囲んだ井戸を造り、水が汲めるように整備したそうだ。染み出るような湧水で水を汲んでも、しばらくすると水が溜まっていたという。日照りで 石嶺地泉(イシンミジーガー) の水が枯れると、そのあたりの人たちも水を汲みに来ていたそうだ。名前から、勝連 (カッチン) と関係があるのではないかという。 この場所に住んでいた平安名一族などが若水 (ワカミジ) を汲んでいた。現在はコンクリートで改修されている。香炉も置かれていないので、村としては拝みの対象では無かったのだろう。


石嶺地泉 (イシンミジーガー)

更に東に向かう。集落東端の屋号 石嶺地あたりに石嶺地泉 (イシンミジーガー) があった。 屋敷の外 (南西側) の畑の中にあり、蓋がされていると資料にある。屋敷井戸の普及する昭和10年代後半までは、周囲の家庭も利用しており、産井 (ウブガー) にもなっていた。先程のカッチンダーガーより古いという。この辺りはを探すと住宅街の中に畑が一つあった。畑の中を井戸跡を探すが見つからなかった。資料には写真も無いので、別の場所にあるのかもしれない。



長田には文化財がなく訪問も短時間で終了した。まだまだ時間があり、まだ体力は残っているようなので、神山集落に移動する。神山集落訪問記は別途。



参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)