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「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 北条と比企の対立からくる豪族間の争いの第二章幕開け

2022.07.19 16:43

「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 北条と比企の対立からくる豪族間の争いの第二章幕開け


 毎週水曜日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について、私の好き勝手にお話させていただいている。先週は、参議院議員選挙の開票速報ということから、大河ドラマ自体がなく、また安倍元首相の暗殺事件などがあったために、このブログでの大河ドラマについての書き込みも一週お休みした。まあ、番組自体がやっていないと仕方がないということになるのであろうか。

さて、参議院選挙というのは、衆議院のように解散総選挙がないので、事前に予定が決められる。逆に言えば、今年は参議院選挙があるということになり、その為に、第一章と第二章の区切りをつけることが可能になるということになる。参議院銀選挙の前に源頼朝が死んでしまい、参議院議員選挙後に源頼家と豪族による合議制の政治が始まるというようにうまく区切りが出来た。

その第二章が、今週始まった。今週は、大河ドラマのタイトルである「13人」が出そろった。

十三人の合議制は、源頼朝の死後、建久10年(1199年)4月に発足した鎌倉幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語である。正治2年(1200年)には解体した。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。建久10年(1199年)正月13日に源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家は20日にわずか18歳で左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は大江広元らの補佐を受けて政務を行うが、4月12日に頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった

これは源頼家がそれまでの慣例を無視し、恣意的な訴訟判断を行ったということから御家人が騒ぎ出したことに端を発する。この事は「吾妻鏡」にはそのようなことが書かれているが、実際はどうだったのかよくわからないというような指摘もある。まあ、いずれにせよ源頼家には、豪族を束ねる力がなかったということなのであろう。

正治元年(1199年)に梶原景時が失脚、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死したことで合議制は解体し、頼家政権も権力抗争の果てに崩壊することになる。

「鎌倉殿」聡明&人望の畠山重忠にフラグ 悪女りくが叱責 最大の理不尽爆弾に着火 ネット悲鳴

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は17日に第27回「鎌倉殿と十三人」が放送された。源頼朝(大泉洋)の急死で、二代鎌倉殿に源頼家(金子大地)が就く中、御家人たちの権力闘争が勃発。北条時政(坂東彌十郎)と比企能員(佐藤二朗)のなりふりかまわぬ主導権争いが展開され、幕府を支える参謀が13人に膨れあがり、失笑した頼家が、若い近習6人を従えて対立した。

 こうした小競り合いから距離を置いたのが、知勇兼備で武士の鑑といわれる畠山重忠(中川大志)。北条義時(小栗旬)に冷静に「今の鎌倉は崩れる寸前」と指摘し、新たな柱が必要と説き「あの方(頼家)に、それができると本当に思っておられますか」と語った。

 時政の娘婿として、多数派工作で「13人」に北条派で加わるよう求められたが、毅然と断った。すでに比企から釘を刺されており、混乱の原因となるとし、「舅殿(時政)の力にはなりたいと存じます。何か他の形でお手伝いできれば」と述べた。

 聡明な判断だったが、これに時政を操る北条の継母りく(宮沢りえ)が「結構です!あなたにはがっかりだわ」となじり、重忠はあきれたように目をつむった。

 御家人たちから一目置かれる存在だった重忠は、りくとの対立で悲劇に見舞われたとも伝わり、ドラマでも後編最大規模の理不尽展開が予想されている。

 ネット上も「りくさんと畠山殿に火種」「りくと畠山はフラグ」「りく畠山に不穏積み重ねるのやめて」「畠山とりくの間で溝が生まれ始めた」「畠山さんとりくさんに亀裂…これが悲劇に」「婿いびり」「畠山殿とりく殿の断裂が描かれ始めててうわあああとなる」と反応する投稿が相次いだ。

7/18(月)デイリースポーツ

https://news.yahoo.co.jp/articles/984ad98d9b9f7ce8aa3551003d6d06c83e8b3a3e

 さて、上記に書いたような内容になっているのであるが、これを「ドラマ」では、別な書き方にしている。つまり、源頼家がカリスマ性がないということから北条時政と比企能員の派閥争いということに絡めている。つまり、鎌倉の豪族たちは、源頼朝のカリスマ性と、北条義時の努力などによって何とか収まっていたが、その頼朝西によって、再度関東武士の対立やわがままが始まったということになる。ただし、頼朝在命中の時と異なり、まずは平家という多大なる敵が存在しないということがある。同時に、もう一つの敵である後鳥羽上皇が、徐々に胎動を始めているということになる。

文覚など、京都の「鎌倉派」の公家を、後鳥羽上皇が全て捕らえたときに、頼家は全くその救出を行わなかった。この事が大きな内容となる。この時に鎌倉の豪族は「二代目の将軍は豪族を助けてくれない」ということを感じるのであり、そお二代将軍殻実権を取り上げるということになるのである。その「取り上げる」のは良いのであるが、一方で「その取り上げた政治権力を誰が動かすのか」ということから、初代の源頼朝の血縁である北条時政と、二代将軍源頼家の烏帽子親である比企能員が対立する。

その豪族の対立に、頼家自身が若手を集めて「自身の親衛隊をつくる」ということで、新たな対立軸ができる。つまり、豪族の「北条方」と「比企方」という対立に対して「世代対立」を作り出してしまったということになる。ある意味で「鎌倉殿」政治権力の虚実が見え隠れするということになってくる。

さて、この13人北条時政は元久2年(1205年)に追放されてしまう。いわゆる牧氏事件である。北条時政ではなく、りく(牧の方)が原因としている。

比企能員は頼家の乳母父・岳父でありながら比企能員の変で1203年に忙殺される。また、和田義盛は建暦3年(1213年)に和田合戦で討ち死に。梶原景時は正治元年(1199年)に失脚し、正治2年(1200年)に梶原景時の変で討ち死に。三浦義澄は正治2年(1200年)に病死。安達盛長も正治2年(1200年)に病死。

このように考えると、13人の中で北条義時・足立遠元(安達盛長の甥)八田知家と文官の大江広元・中原親能・二階堂行政・三善康信しか残らないということになるのである。

そして、もう一つ言えるのが、畠山重忠である。これは13人に入らなかったにもかかわらず、乱を起こす。その畠山重忠の変の伏線がこの13人の選出にあり、「りく」が一枚かんでいるということになるのではないか。

今回、また関東豪族の対立ということで、かなり様々な内容が出てくる。その内容こそが伏線ということになり、後半の第二章を彩ることになるのであろう。