倉敷天文台100周年(10)
過去から未来へ
倉敷天文台に導入された赤道儀は、イギリスのホルランド社製です。緯度が高いイギリス仕様を無理に日本仕様にしたため、極軸が不安定に突き出た形になっています。その極軸の先端に鏡筒やウェイトが載っているため、構造的には、かなり無理があるように見えます。
19世紀末や20世紀初頭、イギリスから日本にやってきた赤道儀(射場氏のリンスコット、生駒山のトムキンス、そしてホルランド)は、観測用としては脆弱だったと言われています。
倉敷天文台創立前に、中村要氏がこの望遠鏡を調整した文章が残っていますのでご紹介します。
「11月14日には、いよいよ、反射鏡のぬしである中村要氏が京都から倉敷に乗り込み、原氏の御宅の客となったまま爾後毎日観測室に出かけて据え付けに取り掛かった。可なり永い間、使用されずにあった器械であるから、部分品のクリーニングに中村氏は意外の時日を費やされたが、十八日になって、遂に望遠鏡全体の据え付けが終わった。」(「天界」第71號「倉敷通信」より引用)
『あす開所式をあげるまだ我が国に初めての民衆天文台、セッセと望遠鏡をみがきながらボツボツとはなす、助手の中村さん』
「木の香真新しい外塀に囲まれて水色の無蓋屋が浮いて見える。大原奨農園前に出来た、それは日本で最初の民衆天文台で、あす開所式をあげることになっているー入っていくと台だけ取り付けた室は、がらんとして人の気もない、外では鉋の音が小春日和の青空へ高く響いている。奨農園の講習室に行くと、そこに薄水色の長い円筒が横たわっている。取り散らかされた大小種々のレンズの中に、京大山本教授の助手中村要君が白の仕事服を着てせっせとレンズを磨いている。「何分取りつけを急がねばなりませんからね」とニコニコしながら一寸仕事の手を休めて話し初める「マアどうぞこのレンズを見て下さい。可なり古いものと見えて手もつけられぬ程汚れています。何しろ機械部分には製作年月が1892年とありますからね・・・レンズはカルヴァー氏の製作ですけれど、機械の方はホルランドという機械師の拵(こしら)えたものです。(中略)最初ここへ来る時は直ぐさま見られると思って来たんですが、どうしてこの始末じゃ二、三日後でなくちゃ観られやしません。この頃問題の喧(やかま)しい火星ですか、いや火星だってそう三日や四日に大した変わりもありません。一般民衆に自由に観測させるかというのですか。勿論そういう意味で開設されたのではありますが、一寸素人には望遠鏡が扱えませんよ。無闇にいじって壊されちゃ困りますしね。まあ同好会員が恵まれるという程度のものでしょう。そうですね。この望遠鏡が運賃共に◯◯円位ーいやしかし価格は言わない方がいいでしょう。餘り安いので素人の興味を減殺しては困りますからね。」と哄笑(こうしょう:大声でどっと笑う)する。そしてせっせと機械を磨きにかかる。中村君は中学校卒業後直ちに山本博士の助手として丸五ヶ年働いている青年だが、目下日本で望遠鏡の扱いにかけては同君の右に出るものはあるまいということである。」(大阪毎日新聞,1926年11月20日より引用)
10回にわたって、「倉敷天文台100周年」を伊達資料を中心に掲載しました。
最後に、「『倉敷天文台10年』(創立満10年に因みて)」に書かれた、水野千里氏の「将来の計画」をご紹介し、掲載を締め括りたいと思います。
「将来の計画
[a.天文参考館]天文書の蒐集、太陽系プラネタリウムの備付け、天文諸器械の陳列、天文に関する図表、統計表の作製等天文に関するもの及び天文の参考に供すべきものを集めたい。
[b.気象観測]天文と気象とは離るべからざる関係を有するものであるから、気象一般の観測も行いたい。
[c.その他]設備を完全にしたい。年々の経常費は原名誉台長の御厚意に因って支給されていることは洵(まこと)に感謝の至りであるが、一つ基本財産の篤志寄附を得て、経費に顧慮することなく、天文知識の普及に前進すべきものである。
[d.伝記編纂事業]岡山県下出身の古今の天文学者の伝記を編纂することは地方天文発達を知り、併せて文化の一端を窺うに足るであろう。
結語
当天文台10ケ年間の参観人員約60000人、この一事は誇るに足るであろう。小山理学士の変星観測報告がPublications of the Kurasiki Observatory,No.1.として独逸天文雑誌Astronomische Nachrichten Nr.6207に掲載せられ、東亜に倉敷天文台あることが、世界の天文学者に知られたことは愉快である。諸設備其の他今後に待つこと多大である。」
(「天界」第187號「倉敷天文台10年」より引用)
10回に亘る「倉敷天文台100周年」をご覧いただき、ありがとうございました。
山本一清氏の京大退官に伴い、花山天文台との繋がりを断たれた東亞天文協会員にとって、倉敷天文台は故郷のような存在だったのではないでしょうか。また、田上(山本)天文台が失われた今、天文同好会・東亞天文協会の歴史を引き継ぐ倉敷天文台が存続していることは、日本の天文学史上大変意義深いことだと思いました。
(引用)
倉敷通信,水野千里,天界,1926,12(71),天文同好会
あす開所式をあげるまだ我が国に初めての民衆天文台、セッセと望遠鏡をみがきながらボツボツとはなす、助手の中村さん,大阪毎日新聞,1926.11.20
中村要と反射望遠鏡,冨田良雄・久保田詢,ウインかもがわ,2000:50-51
回顧十年,水野千里,天界,1930,11(115):26,天文同好会
日本で一番多数の人々にウインネケ星を見せた倉敷天文台,天界,1927,9(78):389,天文同好会
拡張された倉敷天文台,小山秋雄,天界,1937,5(193):264-265,東亞天文協会
(1,8,9,10,11,13~24枚目の写真は、伊達英太郎氏天文写真帖より)