湊かなえ『江戸川乱歩傑作選「鏡」』~香椎さん編~
こんにちは。
7月が終わろうとしていますね、誰の許可も得ずに。
いやしかし、暑すぎる夏は早めに過ぎたほうがいいとは個人的に思うわけです。
無許可ではないか、と言い張ることで時間が取り戻せるなら3,4月くらいに戻してほしい。十年くらい前の。
なんて、無駄話はさておき、本日はスーパーな助っ人さんに執筆をお願いしていますよ。
そろそろタイトルでお察しいただけるかもしれません、江戸川乱歩、ということで、我らがサポーターズ乱歩代表、香椎さんです。
それではどうぞです。
こんにちは。乱歩の登場頻度高すぎと思われていないか心配ですが…
今回は、文春文庫の『江戸川乱歩傑作選 鏡』を紹介します。
この文春文庫の傑作選は、「鏡」「獣」「蟲」と三冊刊行されていて、湊かなえ、桜庭一樹、辻村深月が選者となって、それぞれ一冊ずつ手がけています。乱歩好きにも各作家のファンにもたまらないシリーズです。
その中でも、先日ポラン堂に入荷した、湊かなえ選「鏡」を紹介します!
収録作品は以下です。
『湖畔亭事件』
『何者』
『石榴』
『心理試験』
『赤い部屋』
『人間椅子』
『木馬は廻る』
『迷路の魅力』(『悪人志願』収録)
『兇器としての氷』
『プロパビリティーの犯罪』(2作とも『探偵小説の「謎」』収録)
『迷路の魅力』から三作がエッセイです。
そしてほぼ全てが探偵小説(推理小説)。
なんともミステリ作家らしい選出ですね!
ですので、今回は収録作と絡めつつ、乱歩を語る上では外せない「プロパビリティーの犯罪」、そして「完全犯罪」について語っていきます!
ここから先、犯罪論、いかに人を殺すかについて話していきます。
推理小説において必須なお話ではありますが、「そういうの苦手」「今はそんな気分じゃない」という方は遠慮された方がいいかもしれません。
大丈夫!という方は続きをどうぞ!
1.「プロパビリティーの犯罪」の傑作『赤い部屋』
さて、記すまでもないかと思いますが、完全犯罪とは「犯罪の証拠をまったく残さないで行われた犯罪」(デジタル大辞泉より)のことです。
完全犯罪を成し遂げることができれば、犯罪をしても社会的に処罰を受けることはありません。
そして、その手段として、探偵小説にまれに登場するのが「プロパビリティーの犯罪」です。
プロパビリティーとはなんぞや? 新手のビジネス用語か?といった感じですが、プロパビリティーとは「確率」を意味します。
『「こうすれば相手を殺しうるかもしれない。あるいは殺し得ないかもしれない。それはその時の運命にまかせる」という手段によって人を殺す』こと、と『プロパビリティーの犯罪』の冒頭に書かれています。
では具体的にどういう方法で?というのは、『赤い部屋』で詳しい例が挙がっています。
家具やら何やら、全てが真っ赤な部屋で、人には言えない趣味嗜好を語り合う秘密倶楽部でのお話です。ここでT氏が語るのが「プロパビリティーの犯罪」(確率の犯罪)の告白です。
田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行列車か何かが疾風の様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。(中略)誰かが大きな声で「お婆さん危ないッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽ち慌てて了って、(中略)暫くまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車もできなかったとしますと、「お婆さん危ないッ」というたった一言が(中略)悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。(中略)この場合「危ないッ」と声をかけた私は明らかに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。
たとえ相手が怪我をしなくても、また怪我を負ってしまっても、最悪死んでしまったとしても、「私」の発言が善意からのものであると考えるのがほとんどでしょう。ましてや殺意があっての行動とは思いつきもしません。
これが「プロパビリティーの犯罪」なのです。
この方法では確実に殺すことは難しくとも、確実性を捨てて、自分の殺意を悟られずに事を成し遂げることができます。
最悪殺せなくても、いくつか試せば当たるだろう、の精神で殺人を行うのです。
T氏は退屈であるがために、刺激を求めて殺人に興味を持ち、しかし殺すのは誰でもよく、かつ捕まらないようにするにはと、この殺人法を思いついたのです。
本作はT氏が滔々と犯罪歴を語っていくのも魅力ですが、物語の行き着く先もまた魅力的です。結末はぜひご自分でお確かめください。
とはいえ、殺したい相手がいるから殺し方を考える方が多数かと思います。退屈だからと殺すより、憎むべき相手を確実に殺してかつ、自分の身は守りたいと考える方が現実的ですよね。
そこで、完全犯罪を研究する必要が出てくるわけです。
2.『石榴』で描かれる完全犯罪
実は本書で選ばれている作品は、ほとんどが完全犯罪を扱ったお話でございます。
さまざまな趣向を凝らして、完全犯罪を成し遂げようとする犯罪者たちが集まった傑作選です。
完全犯罪の研究といえば、本書収録の『石榴』では、完全犯罪についてこう語られています。
殺人犯人の最も巧妙なトリックはなんであろうということが話題になって、結局私達の意見は、被害者が即ち犯人であったというトリックが、一番面白いと極ったのでした。併し(中略)観念としては実に奇抜なのだけれど、(中略)他殺の如く見せかけて自殺をし、その殺人の嫌疑を他の人物にかけて置く場合か、又は、被害者が数人ある殺人事件で、その被害者の中に犯人が混ざっていて、犯人だけは生命に別状のない重傷を受け──つまり自から傷けて──嫌疑をの免れるという場合、などが主なもので、存外平凡なのではないかという意見が出たのです。
丁半遊びの上手な非常に賢い子供に、その秘訣を尋ねると、子供がこんな風に答える所がありますね……(中略)相手がどんなことを考えているか知り度い時には、自分の顔の表情を出来るだけその人と同じようにします。そして、その表情と一致するようにして、自分の心に起って来る気持ちを、よく考えてみればよいのですとね。
さっきの丁半遊びの子供のように、あなたと同じ表情をして、(中略)あなたの一段奥を考えて、谷村氏は全ての計画を立てました。そして、それが全く思う壺にはまったのです。そういう探偵がいてこそ、初めて彼のトリックが成り立ち、彼は安全であることが出来るのです。
被害者=犯人、一番疑われない被害者が犯人、というのは確かに完全犯罪にできそうです。
しかし、「連続殺人事件の被害者の中で、殺されずに重傷を負っただけの人が犯人」というのがもはや鉄板ネタになっているように(メタっぽいお話ですが)、相当工夫が必要です。かといって、自分を殺してしまうわけにもいきません。
ですからまず、探偵と同じ顔をして、どのように推理するかをよく考え、その一段奥を考える。いかに捜査する人物を、探偵を欺けるかが完全犯罪において必要だと語られています。
探偵がいてこその犯人。探偵は犯人を脅かす存在でありながらも、身を守るために一番理解すべき相手なのです。
敵を知り己を知る。犯罪以外にも活用できそうな話ですね。
また、有名な『D坂の殺人事件』では、事柄ではなく心理的に推理することが重要と語られていますが、まさにこれと同じ考えです。
収録作の中で、引用部分でいう「平凡」にあたるのが『何者』。探偵の心理を考えようとしたのが、『湖畔亭事件』『心理試験』『石榴』になります。
『石榴』の内容について軽く紹介します。
探偵刑事の「私」が、避暑地で出会った猪股氏に、昔担当した「硫酸殺人事件」について語っていきます。
硫酸を飲ませて殺したため、顔や身体がただれ、まるで熟れてはじけた石榴のよう。被害者の身元の特定ができません。
その時、偶然にも「私」が懇意にしていた和菓子屋の奥さんから、店主が行方不明になっていて、殺人事件に関わりがあるのでは、と相談を受けます。
この話が舞い込んでから、事件が二転三転するのですが、そこはぜひ読んで確認してみてください。
引用部分の完全犯罪論を語る場面も魅力的なのですが、この犯人、かなりの猟奇殺人者で、乱歩作品の中でも異端な存在です。
乱歩作品は、エログロナンセンスと称されますが、直接的なグロテスク描写は少ない印象です。受取方にもよりますが、乱歩のグロは、エロ描写の延長と言いますか、人間の汚い部分が混ざって独特の気持ち悪さ(グロテスク)を感じるイメージです。
バラバラ殺人などはあるものの、血肉の描写があるグロは珍しいなと、個人的にニヤニヤして読んでおりました。
三次元のグロが見れなくても、文章だと楽しめるのが良いですよね!
3.「鏡」について
最後に、本書のタイトルですが、最初に収録されている『湖畔亭事件』の主人公が、鏡に魅了されたレンズ嗜好症で、「鏡」が重要なファクターとして事件に絡むからだと思われます。
(今回記事を書くにあたって初めて読んだのですが、前の記事で明智が出てくる書き方をしてしまったものの、正しくは明智と関係ないお話で大変失礼いたしました)
鏡といえば、『鏡地獄』を思い出す方もおられるかと思います。
乱歩は特殊な嗜好を取り上げた作品をいくつか残していますが、そのほぼ全てが探偵小説のネタにも昇華されています。
こういった横読みも、作家性を直に感じられてなかなか面白いですよ!
長くなりましたが、今回はこの辺りで。
ミステリを読むときは、犯人や作者と同じ顔をして読むと、作者を出し抜けるかもしれませんね。
香椎さん、ありがとうございました。ブログ主のあひるに戻ります。
今回はまた角度の違う江戸川乱歩論でございました。実際乱歩にはミステリ論者としての側面もあるのですから、こういったメタ的な見方は歓迎されているのではないか、と勝手に思うわけです。
ミステリ小説にはジャンルにその名のついた原初から、犯人vs探偵の外枠をさらに外から囲むような、作家vs読者の闘いがあったことは疑う余地もありません。エンターテインメントの創造は、そのまま受け手への挑戦となり、読者は犯人や探偵にではなく生み出した作家に対し、やるな、こうきたか、と思うのです。そして江戸川乱歩の作品は約百年、毎度新たな読者への挑戦を続けている。通用してしまう。
今でも、劇ハマりして熱中する読者さんであふれかえっていますよと知らせることができたら、乱歩さんもにたにたとほくそ笑むに違いない。
私もまた、香椎さんをきっかけに「赤い部屋」を読み、これはすごいなと感動した身です。ミステリ作家の生み出す鮮やかな完全犯罪、ちょっと興味がわいたぞという方は、ぜひ手に取ってみてください。